3

 青嵐からかっぱらってきたというタオルを、マリアは自分のもののように瑠唯と朔に渡した。


「車が汚れないように、よく拭いてね」

「どうして壱岐に来たの?」


 息せき切って尋ねる瑠唯に、マリアは落ち着けと言いたげなしぐさをした。


「禁教令が出る前、日本へは何度か来たことがあるの。イルマンに化けてね」


 青嵐で『煙草と悪魔』を読んでいたとき、マリアに声をかけられたことを思い出す。あれはまさに、宣教師の姿で来日した悪魔の話だった。


「その後数百年、ずっと忘れてた。でもイベリア半島のどこか――もうどこだったか覚えてもないんだけど――を旅行してたとき、妙にスペイン語のうまい日本人に会った。遠くへ旅に出ようと考えたとき、そのことを思い出して、また日本に行くのもいいなって」

「まさか――」


 言い募った瑠唯に、マリアは確かな動作でうなずいてみせた。

 スペインでストライキに遭ったとき、スペイン語の上手い日本人に助けられた。マリアはそう言っていた。


「会ったのは、あなたの彼。でももう、亡くなってるのね。東京の図書館で新聞を調べたら、山岳事故の記事が出てきた」

「ずいぶん正統な方法で調べ物をするんだな」


 朔の標準語がよそよそしく響く。マリアは肩をすくめた。


「何とでも。とりあえず、そんなわけで東京はさっさと離れて九州にきた。彼が瑠唯のことを話してたから、壱岐を思い出したのもあったし。宿を探してたら、どうもそれらしい人物が開業したっぽいゲストハウスが見つかったし」


 壱岐でゲストハウスを開くのは、学生の頃からの夢だった。彼にも話していたから、マリアは伝え聞いて知っていたのか。


 奇妙な温かさが、胸にせり上がった。彼は瑠唯と過ごした痕跡を、思わぬところへ残していってくれていた。


「彼女の名前、フランスの王様みたいだねって話したから、よく覚えてたの。最初に名乗ってくれたとき、貴女だって確信した。でも只者じゃない気配をしてて、何だろうと思ったら、尋常じゃない猫を連れてるせいだってわかった」


 知らない間に、瑠唯にはでうすの気配が移っていたのか。そのことに、瑠唯はもちろん、四六時中そばにいたでうすも気づいていなかった。だが、客観的な目で瑠唯を見たマリアは違った。


「最初から気づいてたの? でうすがただの猫じゃないって」

「うん。むこうも私に警戒してたから、ただの人間じゃないのは気づいてたはずよ。悪さはしないと知ってたから、放っておいただけで」


 でうすはガロにいっさい構おうとしなかった。リルがオンディーヌだと知っていても、瑠唯には伝えなかった。マリアは正体を明かすつもりはなかったと言っていたし、禍つ物でないと認識したから何も言及しなかったのだろう。


「――そっか」

「だから私としても、大人しくしてるつもりだった。日本の神の領域を荒らさず、しれっと帰る予定で。でも、助けてくれた彼と死に別れた瑠唯が、翻弄されて困ってるし。なんだか自分の身まで危うくなってるしで、動いてみることにした」

「瑠唯が翻弄されてるって、どんなことで?」


 黙っていた朔が、ふいに口を挟んだ。窓ガラスに雨が叩きつける音をしばらく聞いたあとに、マリアが答える。


「そいつは、瑠唯に悪い夢を見せて揺さぶっては、心の隙に付け入ろうとした。たぶん、でうすの助けになりそうな存在である瑠唯を排除したかったのね」


 何日も続いた悪夢は、やはり誰かの意図によって見せられたものだった。でもガロは、何度問い詰めても自分ではないと否定した。マリアの言葉を信じるなら、彼女の仕業でもなさそうだ。ならば誰がしたことなのか。


 膝の上においた手を、瑠唯は我知らず握りしめていた。


「誰がそんなこと」


 眉をひそめて言った朔を、ついで瑠唯を、マリアは一瞥した。


「禍つ物、とでうすは呼んでいたんだっけ」

「うん」


 うなずいてから、瑠唯は深い溜め息をついて、言った。


「たぶん、逸見さんだと思う」




 かすかな違和感は、ずっとあった。


 思い返せば、車なしで島に来たことがすでにおかしかった。地方出身なのに、当たり前のように公共交通で観光する気でいる。車を借りず、瑠唯に案内を頼む。会ってほんのわずかな間で、ためらいなく瑠唯に好意を寄せる。


 思い返せばリルが言い残した警告も、逸見のことを言っていたのだろう。


 ――水の悪いものには気を付けて。悪いものほど、良い顔をして近づいてくるから。


 あの悪夢も、逸見が来てから見始めたものだ。マリアが来たのと同じタイミングだったから、ガロのせいだと勘違いしていた。

 そのマリアが静かに頷いて、言った。


「私もそう思うよ」

「逸見ってあの、瑠唯が島を案内してた?」


 朔に問われて、瑠唯はうなずいた。


「そう。今探してるのも、その人」


 横合いからマリアが解説した。


「もとは普通の人間みたいだけど、禍つ物とやらに意識と身体を乗っ取られてるみたい。最初は用心深く気配を隠してたから、私も気づかなかったけど」

「逸見さんが禍つ物だって、マリアは前からわかってたの?」


 でうすはずっと、目と鼻の先にいながらも彼の正体に気づかなかったというのに。


「言っとくけど、彼はでうすの前では完璧に隠れてたわよ。気配も消して。最初はそうしてたけど、でうす以外は誰も気に留めないとわかって、じょじょに羽根を伸ばし始めたのね。オンディーヌの前でも、とくに何も隠してなかったわよ」

「オンディーヌ?」


 首を傾げた朔に、瑠唯は手短に言った。


「マリアと逸見さん以外にも、人間以外のお客さんがいたの。もういなくなっちゃったけど」

「はあ」


 朔は目を瞬いたが、今聞くことではないと思ったのか、すぐに話を戻した。


「――で、あの猫の正体に、あの男は気づいてた?」


 朔に訊かれたマリアは、迷いなく頷いた。


「そのようね。何でかはわからないけど」


 一つだけ心当たりがあった瑠唯は、躊躇いつつも尋ねた。


「私のせいじゃないかな。マリアは私に会っただけで、人と違う気配がするって感じたんでしょ?」


 一瞬考え込んでから、マリアは納得したように相槌を打った。


「たしかにね。でうすより先に瑠唯に会って、そのとき既にこの島に神がいるって察知したんだった」

「どういう意味?」


 話が見えないと言いたげに、朔が瑠唯を見つめた。


「逸見さんは車がなかったから、港まで迎えに行った。そのときに私を見て、神と関わってる人間だと気づいたんじゃないかな」

「そうだと思う。いつも一緒にいる瑠唯に移った、でうすの気配を感じ取ったのね」


 道理で、でうすがいくら探しても禍つ物を発見できなかったわけだ。


「で、完全に気配を隠して青嵐に行って、でうすに会った。彼の前では、決して正体を感づかれないようにした」


 瑠唯は無意識のうちに唇を噛んだ。その前に、送迎の車に乗らないよう、でうすにきつく言い渡したことが思い返された。まったく事情を知らなかったとはいえ、逸見を迎えに行く車に最初から載せていれば、今ごろ事態は違ったのではないか。

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