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 逸見のガイドは六日も続いたから、行った場所すべてを回るのには思いのほか時間がかかった。月読神社にたどり着く頃には、とうに昼を回っていた。


 手配した昼食は、奈津が代わりに受け取ってゲストたちに渡してくれた。ゲストハウスの運営で祖母を頼ってしまったのは、これが初めてだ。一大事とはいえ申し訳ない思いでいっぱいだったけれど、謝る瑠唯に電話口の奈津はどこか嬉しそうだった。


「これぐらい、いつだって平気なんよ」


 初めて奈津から瑠唯に向けられた九州弁は、ごく自然に響いた。奈津の口調が晴れやかだったからか、こんな時なのに胸は温かくなった。その温みに励まされるように、アクセルを踏み続ける。


 車を道路脇の駐車スペースに停め、境内への階段を駆け上がった。傘を差していてもずぶ濡れになるほどの雨が、ひっきりなしに石段を叩いている。最上段にたどり着いた瞬間、視野の端に白いものが見えて、瑠唯は思わず叫んだ。


「でうす!」


 そちらを振り返ってすぐに、しかし思わず肩を落とした。雨の中に立っていたのは、期待した白猫ではなく、驚いた顔の朔だった。彼の着ていた白いシャツを、でうすと見間違えたようだ。


「瑠唯」


 髪も服もずぶ濡れの瑠唯を、朔は眺め回した。戸惑っているものの、視線は温かかった。我知らず胸の奥から安堵が突き上げて、目頭が熱くなった。


なんしよん、こんな天気なのに」

「でうすが――あと、お客さんがいなくなっちゃって」

「ひとりで探しよん?」

「うん」


 朔は彼の背後にある小さな社務所を一瞥した。いつもはお守りや御籤の販売窓口になっている一面が締め切られ、『台風のため休止』と簡潔な貼り紙がされていた。


「俺も行く」

「そんな」

「作業はもう終わったから」


 言って彼は、石段を降り始めた。


「でも、危ないし」

「瑠唯も危ないんよ」


 諭すような口調だった。厳しさは一切なく、それがまた瑠唯の胸をどうしようもなく掻き乱した。心配してくれるのはありがたいけれど、言葉が出てこない。自分のルールに従うなら、彼の申し出は断るべきだ。けれど、そうしたくない自分もいることに気づいてしまった。


「ひとりで行かないほうがいい」

「だけどこれは、私の仕事なの。私がやらないと」

「そうかもしれないけど、ひとりじゃなくていい」


 急に語調を強めたあと、はっとしたように沈黙した。


「瑠唯がひとりでちゃんとやってるのは知っとるよ。だから、少し人の力借りたって、甘えたことにはならん」

「でも」

「瑠唯を助けたいんよ」


 畳み掛けられて、瑠唯は口籠もった。たしかに、ひとりより二人で探した方が確実だし――正直な気持ちを言えば、誰かにそばにいて欲しい。


 そんなことをして良いのか、と本能が囁いた。誰かを頼るということは、自立しあった人間同士の関係を逸脱するということだ。そうなれば、互いの心により深く入り込むことになる。失うことが恐ろしい人が、またひとり増えてしまう。


 でも、ここで朔の助けを拒んだら、でうすに会える可能性をみずから下げることになるというのもわかっていた。朝から駆けずり回った疲労が蓄積し、集中力が落ちているのは否めない。ひとりより二人の目で、彼を探したかった。


 雨だけでなく、風も強まっていた。雨滴が頬を叩く中で、瑠唯は朔を見上げた。


「手伝ってほしい」


 静かにうなずいた朔は、先に立って石段を降り始めた。すぐに彼と並んで階段を降り、車へと向かう。しかし、道路脇に降り立ったところで、先ほどはなかった車があるのを見て、足を止めた。シルバーのコンパクトカーだ。


 車体には見覚えがあるが、朔や、彼の家族のものではない。わナンバーのレンタカーだった。青嵐の前に毎日停められていた、マリアの車。


 どうしてここに、と胸のうちで呟いたとき、ドアが空いてマリアが降りてきた。いつも頭の後ろでひとつにしていた髪を下ろしている。明るく人懐っこそうな面持ちは、影も形もない。確かにマリアなのに、顔立ちはどこか変わっている。穏やかな取っつきやすさはどこかへ消え、代わりに妖艶で、得体のしれない雰囲気があった。


「マリア――どうしたの?」

「暇になっちゃって、やっぱり出てきたの」


 口調と声だけはいつもどおりだ。あっけらかんと言って、傘も差さずに瑠唯へ近づいてくる。


「でも、危ないよ。雨風も強まってるし」

「だから来たのよ」


 雨音の中でも、マリアの声ははっきりとよく通る。快活な言い方なのに、引き下がりそうな気配はなかった。


「どういうこと?」

「そのへんのポルトガル人に、ガロが宿って平気だと思う?」


 艶然と微笑んだマリアを、呆気にとられて見つめた。朔は当惑もあらわに、瑠唯の脇に突っ立ったままだ。


 ガロが宿る、とマリアは言った。あの、スペイン語で瑠唯と話していた悪魔の存在を、彼女も認識していたのだ。


「知っててあれを連れてきたの?」

「うん。お世話になってるわね」


 絶句する瑠唯の前で、雨粒がみるみるうちにマリアの髪と顔を濡らしていく。マリアはまばたきもしなかった。


「本当は、正体を明かすつもりはなかったの。聞いてるかもしれないけど、他宗教の領域では波風を立ててはいけないことになってるから」

「何の話だ?」


 言葉のない瑠唯にかわって、朔が尋ねた。


「私は魔女なの、お兄さん」


 両の口の端を上げて、マリアは笑った。瑠唯はかすかに目を見開いた。


「あなたが禍つ物だったの」


 答える代わりに、マリアは不敵な笑みをたたえた。息を呑んだ瑠唯だったが、ふいに彼女の笑顔は毒気を失った。


「そう言いたいところなんだけどね。じつは違うのよ」


 あっけらかんと否定し、マリアは肩をすくめた。


「私は何も、厄介事を起こそうとしてない。どうせやるなら、キリスト教徒のところでやるわ。五島ならいざしらず、ここは日本の神の島でしょ」

「――うん」


 隠れ切支丹キリシタンの歴史が息づく五島列島ならまだしも、壱岐は活動地域に当たらないということか。確かにそれは、でうすの言っていたことと一致する。


「でも、瑠唯のいう禍つ物とやらの勢いがずいぶん強いようだから。一般ピープルと同じようにしてたら、私も滅びちゃいそうなんだよね。魔女と言えど、海外客死はさすがに避けたくてさ。人間の外交筋に迷惑かけるのもあれだし」

「はあ」


 意外とドライな事情を口にするマリアに、どうもついていけない。間抜けな声を出した瑠唯にかまわず、しかし彼女は続けた。


「だから、日本の神が困ってるなら助けようと思うの。たぶん、瑠唯とあの猫は一緒にいたほうが良いんでしょう?」

「わからない。でも私は、でうすを見つけたい」


 マリアが何をどこまで知っているかわからず、瑠唯は自分の希望だけを口にした。


「でうすはいちおう神だから、私の助けは要らないと思うけど、でもこのまま会えなくなるのは嫌なの」

「健気なことね。でも良いと思う」


 うなずいてからマリアは、背後に停めた車を見やった。


「雨の中で立ち話もなんだから、車で話しましょう」

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