第三章 猫嵐
1
雷は、朝になっても鳴り続いた。激しい稲光や雷鳴はないものの、嵐が着実に近づいていることを知らせていた。瑠唯がキッチンで朝食の準備をしながら聞いたラジオでは、台風は急速に勢力を拡大しながら、壱岐に差し掛かろうとしているという。
朝食を取らないが、コーヒーだけは毎朝ゆっくりと飲むマリアは、マグを手に窓際に立って外を眺めていた。
「いよいよ嵐ねえ」
昨日着いた自転車の青年が、つられるようにして窓外を見やった。雲の流れの速い曇天を、残念そうに見上げる。弱いながらも雨が降り出していて、小さな滴がガラスに無数の引っかき傷を作っていた。
「本当ね。シーツが乾かないと思うと、気が滅入る」
軽口を叩きながらも、心にはでうすの不在が影を落としていた。すでに丸一日、姿を見ていない。天気はますます不穏になっているのに。
「瑠唯、猫の神様はどうしたの?」
「え」
マリアの問いに、まな板を洗っていた手を止めた。でうすが神であることを、マリアに話したっけ、と猛烈に回想する。そんなこと、していないはずだ。
「名前、でうすじゃなかったっけ」
「ああ、うん、そうそう」
首を傾げたマリアに訊かれ、瑠唯はうなずいた。ああ、びっくりした。すっかり固有名詞として定着しているけれど、神という意味の名をつけたのは自分だった。
「昨日から姿が見えなくて。いつも基本、ここか家にいるのに」
「心配だね」
うん、と答えて瑠唯は、洗った包丁とまな板を食器かごに入れた。
船が欠航の今日は、誰もチェックアウトをしない。朝の仕事をさっさと終えて、でうすを探しに行こうと瑠唯は決意した。
人間の心配など、余計なお世話かもしれない。だが自分自身が、このままでうすを放っておくことが嫌だった。必要ないとしても、自分ができることをしたい。
考え込んでいた時、自転車の青年が食後のコーヒーに口をつけながら言った。
「天気が悪いのに、いったいどこへ行っちゃったんでしょうね。朝にドミトリーから出てった人も、外で何するんだろうって思いましたけど」
「え?」
思わず表情を固くした。台風が接近するなか外出するのは、土地勘のある島民でも危険だ。ラジオのニュースでは、ここ数十年で類を見ない規模の被害が出そうだと警告していた。
「誰が出ていったんです?」
声が強張るのを自覚しながら尋ねる。青年はすぐに答えた。
「青いシャツの、シュッとしたイケメンですよ。名前わかんないですけど」
逸見だ。車も持たない彼が、いったい何をしに出掛けたのだろう。
「どんな格好でした?」
「すごい軽装でしたよ。シャツにジーンズで。ふらっと出ていく後ろ姿を見ただけですけど、まだ戻ってないみたいですね」
濡れていた手を拭いて、瑠唯は早足で二階へ向かった。男性用のドミトリールームに宿泊しているのは、階下にいる彼と、長崎から来た大学生と、逸見の三人だけだ。室内にはやはり、長崎の学生一人ひとりがくつろいでいるだけだった。
「どうかしました?」
ほとんど飛び込んできた瑠唯の剣幕に面食らいながら、彼が尋ねた。
「このベッドにいた方、見ませんでしたか」
「――いいえ」
「ありがとうございます」
答えを聞くか聞かないかのうちに、部屋を出た。だが、戸口を出かけたところで背後を振り返り、呆気にとられている学生に言った。
「今日は台風なので、安全のためにもここにいらしてください。何か、どうしてもという用事がなければ」
「はい……そのつもりです」
「よかった」
言って瑠唯は、すぐさま踵を返した。駆け足で階段を降りる。驚いた顔のマリアと、自転車青年を尻目にキッチンを横切る。途中、立ち止まって自転車青年を振り返った。
「その方が出ていったのは何時頃かわかります?」
「さあ――七時か、七時半くらいかなあ」
時計は八時半を指していた。徒歩だとしても、遠くまで行ってしまった可能性が高い。
「ちょっと探しに行ってきます。お二人は、ここにいてください。天気が落ち着くまで」
掃除は早朝に済ませておいた。今日はゲストが皆ここに留まると想定して、昼食も手配した。洗濯は一日くらいサボっても大丈夫だ。
玄関を飛び出した瑠唯は、家へ戻ってキーを掴むと車に乗り込んだ。エンジンが起動した瞬間、家の玄関を開けた奈津の姿が目に入る。切羽詰まった顔で車を出そうとする瑠唯を見て、目を丸くしていた。
瑠唯はパワーウインドウを開けると、大声で言った。
「朝早くに出かけたお客さんがいるの。危ないだろうから探してくる」
「手伝うわよ」
不安げな面持ちで空を見上げながら奈津は申し出たが、瑠唯はかぶりを振った。
「おばあちゃんは、ここにいて」
「瑠唯ちゃんも危ないでしょう」
「大丈夫。心配しないで」
祖母が瑠唯の言葉を信じた様子はない。だが事業者としては、探しに行く一択しかない。それに逸見を探しがてら、でうすがいないか見て回りたかった。
奈津の、取り残されたような表情が目に入って、胸がちくりと痛んだ。こうして何度、差し伸べられた手を払いのけて来ただろう。でも自分は、その手の取り方がわからない。自分の痛みに誰かの手が触れるのが、たまらなく怖い。
「おばあちゃんも、戸締まり気をつけて。行ってきます」
言い捨てると瑠唯は、返事は聞かずにウインドウを閉めた。発進して、青嵐付近の道路を一通り走ってみる。郷ノ浦港までの道のりには、歩行者は見当たらなかった。
でうすの姿も、同様に見当たらなかった。こちらも無事かどうか、無性に気になる。あれほど自分を神だ神だと言っていたのだから、そのへんの台風では危ないことなどないのかもしれない。でも体はあくまで、普通の猫なのだ。もしものことがあったら、奈津も瑠唯もやりきれない。
ふいに、憎まれ口ばかり叩いていたことに猛烈な後悔が襲ってきた。形はどうあれ一緒にいてくれたのに、何も優しいことができなかった。唇を噛んでいるうちに、ぼんやりしてカーブを曲がりそこねそうになり、慌ててハンドルを切った。
いつもなら人の出入りがにぎやかなフェリーターミナルも、今日は静まり返っている。常には無数の車両で埋まる駐車場も、がらんと広大な空間が広がっているだけだ。その敷地と、郷ノ浦の街を念のため一周してから、今度は芦辺港方面へと向かう。こちらも空振りに終わった。
こぢんまりしたターミナル建屋の前に車を停め、カーナビの画面に映る島の地図を眺めた。芦辺は郷ノ浦に比べれば小さな港で、周辺に街らしい街もない。大きめのスーパーマーケットの他には、住宅が立ち並ぶばかりだ。印通寺港も同様だった。
港に姿がないとなると、どこを探せばいいだろう。若者がふらりと行って、時間をつぶせるような場所はない。それに時刻は九時半を過ぎたばかりで、飲食店にしろ博物館にしろまだ開いていないのだ。
フロントガラスを叩く雨音は、青嵐を出たときよりずっと強くなっている。唸るように鳴っていた雷は、しだいに音を鋭くしていた。
濡れるのが嫌いで、お風呂を拒んでいたでうすのことが思い出され、我知らずハンドルに突っ伏す。しかしすぐに顔を上げた。嘆いている暇はない。捜索を続けないと。
エンジンを起動しながら、彼の行きそうな場所に考えを巡らせる。青嵐や家以外に、彼はほとんど行かなかった。遠くへ行ったのは、逸見のガイドで島を回ったときだけだ。
ギアをドライブに入れ、瑠唯は車を出した。どこにいてもいいから、無事で過ごしていてほしい。
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