11

 青嵐へ戻ると逸見は部屋へ引っ込んだ。その後、新たなゲストを迎えに行くあいだも空と同様、気分は晴れなかった。


 逸見の誘いに乗らなかったことは、これで良いのだと思う。乗ったところで、待っているのは一瞬の充足感だけだ。しかも、じつのところ充足でもなんでもないもの。


 あの状態になるまで毅然とした態度を取れなかったことに、今さらながら後悔が押し寄せた。きっぱりとした振る舞いができなかったのは、やはり自分の中に進展を望む気持ちがあったからだ。進展というより、逃げか。


 大きくため息をついて、芦辺港内へとハンドルを切る。何気なく視野の端で助手席を捉えてから、魔切のケースだけがあるのに気づいて苦笑いする。でうすは依然、戻ってきていなかった。


 新しいゲストとは、すぐに落ち合えた。自転車で島内を回るという若い男性だ。彼の愛車をバンの後部に積み込みながら、最近、車を使わないゲストばかりだと思う。


「本当はゲストハウスへも、自転車で行こうかと思ったんですけどね。台風が近づいてたから念のため、やめときました」


 正解だと思います、と言って瑠唯は頷いた。


「だいぶ天気が怪しくなってきましたからね。まだもってますけど」


 空を覆う雲は、徐々に厚くなっている。頬を撫でる風は生あたたかさを増している。だだ雨はふらない。強風もない。まさに嵐の前の静けさだった。


「明日は観光やめて、大人しくしてるしかないかな。悔しいけど」

「そうですねえ。予報では夕方頃がピークみたいですけど、もっと早くに通過してくれたら良いな」


 相槌を打ちながら、瑠唯はハンドルを切った。空気に含まれる湿度が、だんだんと増している。車の中でもそれがわかった。


 彼を青嵐に送り届けると、逸見に出くわさないか内心はらはらしながら、建物の中を案内して回った。でうすはいない。庭にも、家にもいなかった。


 姿のない時間が一時間、また一時間と蓄積するにつれ、胸に嫌な予感が降り積もっていく。嵐の気配のせいか、それとも別れぎわの気まずさのせいか。あるいはその両方か。


 スマートフォンがメッセージを受信して、何かと見てみれば逸見からだった。体調が優れないので夕食はとらない、と簡潔に書いてある。瑠唯はばつが悪い思いで返信した。食事を作ってキッチンに保管しておくので、あとで食欲が出てきたらお納めください。


 悔やんでも仕方ないが、こういうことにならないためにも、明確に一線を引くべきだった。ふらふらと雰囲気に流されたことが、今になってどれだけ愚かなことかわかる。ゲストの滞在時間を毀損してしまうなんて――宿泊業に携わる者として、最悪だ。


 返信を終えたあと、暗澹たる気分でフリースペースの椅子に座ったままでいた。マリアに声をかけられるまで、いったい何分ぼんやりしていただろう。


「瑠唯」


 重い体で背後を振り返ると、表情を見て引いた様子のマリアがこちらを見つめていた。


「どうしたの? 幽霊でも見た?」

「ううん、なんでもない。どうかした?」


 フリースペースには、他に誰もいない。皆、観光を早々に切り上げて、すでに部屋に引っ込んでいるようだった。


「延泊したいの。明日の船が、欠航になったみたいだから」

「――そう」


 でうすのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。明日チェックアウトするゲストは、マリアのほかに逸見もいる。彼にも欠航と延泊について知らせなければならない。


「もちろん大丈夫だよ。引き続き、個室にいてもらっていい」


 明日、個室に予約は入っていない。入っていたとしても、島に来られないので同じことだったが。


「ありがとう。――しかし、雲がだんだん集まり始めてるのが、いかにも何か起こりそうって感じがする」

「本当にね」


 小さな頃は、台風の前のただならぬ雰囲気に、どこかわくわくしていた気がする。非日常的な空気が楽しかったのかもしれないし、明日学校が休みになるかもしれないという期待もあった。個人事業主になってから、これほど気を揉むことになるとは。


 瑠唯の思案をよそに、マリアは台風を楽しむ余裕があるようだった。


「初めて台風ってものに出くわすから、なんだか新鮮。まさに叢雲剣むらくものつるぎが雲を呼んでるみたいだよね」

「叢雲剣?」


 耳慣れない単語をおうむ返しにすると、マリアはうなずいた。


「日本神話の、三種の神器だよ。知ってるかと思った」


 言ってマリアは、本棚のほうを見やった。手当たりしだいに買い込んだ蔵書に、どうやらそれに関連する書籍もあるらしい。


「知らなかった。日本人なのに」

「まあ、普段は考えもしないよねえ。ポルトガル人だって、キリストのことばっか考えて暮らしてるわけじゃないし」


 マリアはあっけらかんと笑った。


「三種の神器は八咫鏡やたのかがみと、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまと、叢雲剣のことだよ。鏡は太陽、勾玉は月の神様を象徴すると言われてる。叢雲剣は素戔嗚すさのお

「へえー」


 心底感心しながら、瑠唯はつぶやいた。神の島で商売をしていながら、三種の神器という概念の詳細を考えたこともなかった。


「叢雲剣は、名前のとおり雲を呼び集める剣と言われてる。だから、雲が多くなっていくのを見て連想したの」

「なるほどね」

「今は名古屋の熱田神宮にあるはずだけど、神話では八岐大蛇やまたのおろちの尾から取り出されたと言われてるんだって」

「八岐大蛇なら、聞いたことある」

「やっぱり? 日本神話の中でいちばん知られてるのって、だんぜん八岐大蛇だよね」

「多分。昔、テレビで見た気がする」


 もう何年前かわからないが、人形劇の映像か何かを見たような覚えがあった。覚えているのは冒頭の場面だけで、どうやって八岐大蛇を退治したかはさっぱり記憶にないが。いかめしい顔をした男性が、川に屈みこんでなにかを拾っていた。これでなぜ、八岐大蛇の話だと記憶しているのかは不明である。


 瑠唯の回想をよそに、マリアは引きつづき知識の片鱗を提供してくれていた。


「水害の多いところで地名に蛇が使われるのって、やっぱりこういう言い伝えと関係があるのかもね」

「どういうこと?」


 首を傾げる瑠唯に、マリアは理路整然と説明する。


「人間を脅かす蛇の中から、雲を呼ぶ剣が出てきた。蛇と、水害を起こす雨雲を結びつけるイメージがあるってことだよね」

「たしかに……蛇が雨を降らせるってことだもんね」


 持っている知識によって、ひとつの現象がどう目に映るかは大きく変わるのだ。マリアの博識さに舌を巻きながら、瑠唯は妙に感じ入っていた。


 延泊の精算を済ませたあと、マリアは部屋に戻った。逸見にも船の欠航と延泊の案内をメールした。明日の夜も泊まるという短い返信が来たので、承知した旨だけを返した。


 その日の深夜は、夢の中まで雷鳴が響いた。


 でうすは夜になっても戻らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る