10
逸見を案内するのは、その日が最後だった。けれど瑠唯はでうすとの一幕を引きずって上の空だった。
島の北部に、海から屹立する岩柱が猿の横顔のように見える展望スポットがあって、ずばり猿岩という。
神社を案内するなら祭神を、酒蔵を案内するなら沿革を説明することができる。だが、岩に関しては概要をざっくり紹介するにとどまる。結果、逸見があちこちから写真撮影を試みる間、瑠唯はぼんやり駐車場に佇んでいた。
でうすは瑠唯がガイドに出発するまで、青嵐へ戻ってこなかった。たった数時間でも、これほど姿を見ないのは初めてだった。人間に心配される筋合いがないのはわかっているが、瑠唯はひとり気を揉んでいた。
違うな、と胸の中でひとりごちる。
でうすを心配するというより、自分のこれからを案じているだけだ。何かと瑠唯に突っかかってくるとはいえ、いち人間の私生活を気にかけない彼は、またとない話し相手だった。その彼がいなくなって寂しい。清々しいまでに自分の都合だった。
瑠唯の氏神に用がある、と言っていた。嘘ではないだろう。彼が嘘をつく理由がない――自分と違って。
「瑠唯さん」
カメラを持った逸見が瑠唯を呼んだ。
猿岩の駐車場は、海へと伸びる草地に続いている。逸見の一眼レフなら、駐車場からでもまあまあの大きさで猿岩を撮れるだろう。だが大抵は皆、それでは満足できなくて草地を歩いてそばまで行く。彼も例に漏れなかった。
「岩のところまで行きましょう」
これまで何度もあったように、彼はひとりで行けるところにも瑠唯を伴っていこうとする。立場的には不適切かもしれないけれど、気持ちが落ち込んでいる今は単純に嬉しかった。たとえでうすに揶揄されても。
「はい」
車を施錠し、草地で待っている逸見のところへ歩いていった。石の板を埋めただけの簡素な道が、猿岩のすぐそばの岸まで続いている。
「今日は猫ちゃん、いないんですか」
「ええ。出かけてるみたいです」
へえ、と逸見は明るく答えた。それ以上は訊かなかった。彼はいつもそうだ。瑠唯が不快になる前に、問いを控えてくれる。遠慮したふうもなく、ごく自然に。
駐車場には他の車が数台あったものの、猿岩へ向かっているのは逸見と瑠唯だけだ。他の観光客は車のそばで談笑していたり、複雑な海岸線が見える別方向へ足を向けたりしていた。
「ずっと晴れてたのになあ。ちょっと天気悪いですね」
逸見が残念そうにつぶやいた。彼につられて、瑠唯も空を見上げる。ガロが見せた幻ほどおどろおどろしくはないが、灰色の雲が上空一面を覆っている。
「台風の進路が変わりましたからね。雲が多くなってるのかも」
「そうなんですか?」
ええ、と瑠唯はうなずく。
「壱岐や対馬のだいぶ北を抜けていく予報だったんですけど。どうもこちらへ向かってるみたいです」
今日の夕方チェックインするゲストは、無事に港へ辿り着けるだろう。ただ、明日の予約客は島にやってこられない可能性が高い。福岡からのフェリーや高速船は、欠航になると思われた。
「明日の逸見さんの船も、欠航になるかもしれません。状況わかったら、すぐお知らせしますね」
「ありがとうございます。ちょっと予定狂っちゃうけど、名残惜しかったからちょうどいいな」
鈍色にさざめく海を見はるかすと、逸見は朗らかに言った。
「壱岐が良いところだからってのもあるけど、瑠唯さんに会えなくなっちゃうから」
「年上をからかっちゃだめですよ」
「一歳しか違わないじゃないですか」
彼の言葉には、嫌味がない。声音を変えればきつい響きになりそうな言い回しも、逸見が言うと柔らかく聞こえる。爽やかな笑みも相まって、ほだされそうになる。
「瑠唯さん、ゲストとホストだから遠慮してるだけでしょう?」
妙に強気なことを、彼は言った。表情はあくまで穏やかで、挑発的なニュアンスはない。それなのに、規則的な波の音が、不意に不穏なざわめきのように聞こえた。
逸見はやにわに立ち止まった。
「僕はいつだっていいのに」
瑠唯より頭一つ背の高い逸見が、すぐ脇に立った。にこやかな目に見つめられると、視線が彼を離れなくなる。細められた両目には甘い熱があり、同じ熱を持った手が瑠唯の頬に触れた。
周りは無人だった。崖の上にひらけた草地に、湿った海風が吹き抜けていくだけだ。
「躊躇うこと、ないのに」
もう片方の手が肩に置かれて、いよいよ彼の顔から目をそらせなくなる。
「でも――」
怖くはなかった。むしろ、逸見の優しさを拒む理由が見つからない。瑠唯が踏み込まれたくない領域には触れず、でもすべて受け入れてくれる相手。仕方なしにではなく、好意を持ってそうしてくれる人。
「何を悩んでるんです?」
言いながら逸見は、瑠唯と目線の高さを合わせるようにかがみ込んだ。鼻先がふれあいそうなほど、顔が近くにある。
「あの人に遠慮してるんですか」
朔のことを言っていると、すぐにわかった。逸見は視野の端で彼の存在をとらえていたのだろうか。ここ何日か、妙に顔を合わせることの多かった朔を。
彼も瑠唯を気にかけてくれている――逸見とはずいぶん違った方法で。そして、瑠唯が逸見に心を預けることを躊躇うのは、朔のせいではなかった。訊かれてみてようやく、はっきりした。
「違う」
かぶりを振った瑠唯は、逸見から身を引こうとした。肩に置かれた彼の手は、それを許さなかった。
「何が違うの」
「彼のせいじゃないです」
今度は瑠唯は、視線を逸らそうとはしなかった。気づかないうちに、自分から逸見の目をまっすぐに見据えていた。
「私の問題だから」
「どんな?」
逸見の声は変わらず凪いでいた。表情にも、変わったところはない。だが目の奥に、ほんのかすかに挑発するような光が宿った気がした。訊いていながら、答えを期待しておらず、そのことに呆れているような。
どうせ、話せないくせに。
気のせいかもしれない――いや、きっとそうなのに、なぜか瑠唯の心には苛立ちが生まれた。あなたに、何がわかる。
「逸見さんは優しい」
彼は瑠唯の内面に踏み込んでこようとしない。はなから知ろうとしていないからだ。それは瑠唯にとって心地よかったが、ほんとうの意味で自分を心配してくれる朔と彼が、根本的に違うと示してもいた。
「でも、だからといって今飛びつくのは、甘えだし逃げなんです」
壱岐に来たことよりずっと、わかりやすくそうだった。立場が適切でないということだけでなく、何もかもから目を背けている。逸見の暮らしの拠点ははるか遠いところだし、瑠唯のことを何も知らない。逆もまた然りだ。
「だから、ごめんなさい」
言っても逸見は、瑠唯から手を離さなかった。むしろ一層力を込めて、瑠唯を引き寄せようとする。
「やめてください」
彼に対して初めて、危機感じみたものが頭をもたげた。言葉で拒絶しても、逸見は笑みを浮かべるばかりで動じなかった。
「はなして」
相手が客ということも忘れて身を捩ったとき、あの物音がした。
天も地も裂くような大音響。雷鳴だと認識することすらままならない、地を巨大な槌で叩くかのような轟音。無防備な耳をつんざく音と同時に、まばゆい閃光が視野を覆った。
白い光に眼前が塗りつぶされたとたん、逸見の手が離れた。
稲妻がどこに落ちたかは、わからなかった。一面が白く染まってしまったので、判別の仕様もない。ただ瑠唯は、これさいわいと後ずさって逸見から距離をとった。折しもごく小さな水滴が、鼻先を叩いた。
まだ雨は降っていない。薄雲が相変わらず、空一面に漂っているだけだ。
「そろそろ雨になります。戻りましょう」
でまかせを言って、駐車場へと踵を返す。逸見はしばらくその場に立ったままだったが、しばらくすると歩き出す気配がした。
車に戻り、発進しても、青嵐へ戻るまで一言も発さなかった。逸見も黙り込んだままだ。いつもでうすがうずくまっていた助手席に、革のケースに入った魔切だけが、静かに鎮座していた。
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