9
頬を撫でる風は、徐々に強くなっていた。でうすが正しければ、これもまやかしだ。慌てることはない、と自分に言い聞かせる。
「どういうこと」
「お前は、見えている真実から目を背けている」
「意味がわからない」
「わかるはずだ。都合の悪いことには目をつぶっている」
空はみるみるうちに、どす黒い雲に覆われていく。奈津の姿はない。家の裏にいるだろうか。
生唾を飲み込んでから、瑠唯は繰り返した。
「マリアのところに戻って」
「呼んだ?」
朗らかな声が響いて、瑠唯は即座に背後を振り返った。不思議そうな顔をしたマリアが、自分とガロとを見比べていた。
「いえ、なんとも。――どうかした?」
「電話、鳴ってたよ。キッチンのテーブルの上で」
あ、と瑠唯は声を上げた。言われてみれば、スマートフォンを置いたまま外に出てきていた。宿泊客や仕入先からの電話が入るので、ふだん肌見離さず持ち歩いているのに、うっかりした。
「ありがとう」
なかば言い捨てて、瑠唯はゲストハウスへ走った。すでに着信は切れていたので折り返すと、今日チェックインする予約客からの確認の電話だった。さいわい到着時刻は夕方なので、逸見のガイドをする時間とは重ならない。
息をついて通話を切ったとき、ロビーに戻ってきていたマリアと目が合った。
「スペイン語喋れるの?」
ガロとの会話を聞いていたらしい。会話と言っても、彼女には瑠唯がスペイン語で独りごとを言っているようにしか見えないが。
「まあ、そんなような」
「随分うまいのね」
「大学で習ったから」
マリアはしかし、首を傾げた。どこか面白がるような表情だ。
「外国語学科?」
「ううん、違う」
「なのに、大学で習っただけでそんなに話せるようになる?」
日本通のマリアは、この国の大学教育のレベルもぬかりなく把握しているらしい。からかうような語調だった。
「私、スペイン旅行中にストライキに遭ったとき、スペイン語の上手い日本人に助けてもらったんだけど、喋れる人はすごく珍しいって聞いたよ。スペインに留学してたんじゃないの? 言ってくれればいいのに。私も喋れるからさ」
マリアは妙に嬉しそうだ。喜んでいるだけでなく、安堵したような雰囲気すらある。
「ええと――私じゃないの」
思わぬことを訊かれて、しどろもどろになりながら瑠唯は答えた。
「何が?」
「仲の良かった人が、スペインに留学してた。彼に勉強を手伝ってもらっただけ」
そう、とマリアは納得したように何度もうなずいた。
「さすがの学習能力の高さね。旅行業で働いて、宿泊業で経営者になっただけある」
「どうも」
褒めっぷりに恐縮した瑠唯は、やや肩をすくめた。まんざらでもないが、こういうときにどういう顔をすればいいのかわからない。幸いというかなんというか、マリアのほうからあっさり話題を変えてくれた。
「そう言えば、あの金髪美人はもうチェックアウトしたの?」
どきりとしながらも、努めて平静を装って答えた。
「うん、最後に朝早く散歩してから、船に乗りたいって言ってたんだ」
「そっか。荷物がなくなってたから、随分早いなあと思って」
「そうだねえ。たまにそういう人もいる」
曖昧に応答し、そそくさとゲストハウスを出て、ふたたび奈津の家に向かう。相変わらず庭を闊歩するガロを尻目に、家へ飛び込んだ。でうすは二階でごろごろしていた。
「でうす」
無防備に腹を見せていたでうすの足を、瑠唯は引っぱたいた。
「神に、何をする!」
「禍つ物は本当に見つかるの?」
単刀直入な問いに、でうすは慌ただしく座って背筋を伸ばした。
「何だ。人間が朝から神の心配か」
「そうだよ。どうなってるの?」
「まだ見つかっていない。ここまで来たら、相手が姿を現すのを待つべきかもしれん」
でうすの面持ちは、やや不機嫌そうだった。彼なりに、神の務めが捗らないことに苛立ちを覚えているらしい。瑠唯の方も、問うような目つきで彼を見据えた。すぐさまでうすがそれを見咎める。
「神に向かって何だその挑戦的な目つきは」
「本当に島を守ってくれるの? 本当にガロじゃないんでしょうね。礼儀正しくしろみたいなこと言うけど、肝心の任務が進んでないじゃない」
リルの一件を黙っていたでうすにも、思えば不満がたまっていたのかもしれない――一緒に暮らしながらもなにひとつ、本当の意味では共有できていないのだと思い知らされたように感じて。
「偽りなどしない」
畳み掛けられたでうすは、憮然として答えた。
「ならいいけど。島を本当に守ってくれるならね。今日は夕方、送迎で芦辺港へ行くことになったから、でうすのために車は出せないよ」
「ふむ」
納得したのかしていないのか、でうすは青と緑の目を細めた。考え込む表情に見えなくもなかった。
「俺は、最近お前について島内をめぐる前に、一度だけ車に乗ったことがあったな」
「うん? あったけど」
リルを迎えに郷ノ浦港へ行った時だ。質問の意図を取りかねて、瑠唯は首を傾げた。
「それがなにか?」
「何でもない」
急にでうすが、ぴしゃりとした語調になった。
「今日はもう、お前についていくことはない。好きに回れ」
「わかったけど」
一抹のばつの悪さを覚えながら、瑠唯はうなずいた。食って掛かったのだから当然だけど、でうすは気分を害した様子だった。
「本当にいいの?」
「お前の氏神に用ができた」
言ってにわかに立ち上がり、部屋の戸口へと向かう。しかし、やおら瑠唯を振り返ると、神妙な面持ちで言った。
「気をつけていろ。弱った心に付け入られぬよう」
「どういう意味?」
今まででうすが、瑠唯に説教したことはなかった。彼への態度をたしなめたり、欲求を訴えたりはするけれど、瑠唯の内面には決して踏み込まない。だからこそ、半年もでうすと一緒に過ごして平気だったのだ。この島で奈津以外に唯一、瑠唯の過去に触れないでいてくれる存在だったから。
「大事なものを喪って、立ち直れていない。付け入られる隙だらけだ。都合のいいことを言ってくる相手には、気をつけろ」
頭に血が上ったことを意識するまもなく、思いが口を突いた。
「余計なお世話」
「そうか? 克服できないものがあるから逃げるし、甘い相手に擦り寄りたくなるのだろうが」
でうすは具体的な名前を出さなかった。だが、東京の友人より誰より、かつてないほど直接的に、瑠唯の臆病さを指摘していた。
「でうすにそんなこと言われる筋合い、ない」
「お前の氏神を代弁しているだけだ」
「結構な役割なのね。何も教えてくれないくせに」
壱岐を守ると大層なお題目を唱えながらも、いっこうに情報を開示してくれない。かすかに感じ続けていたその苛立ちに、いま火がついた。
「なのに自分は、人の内面に土足で踏み込むの?」
「知ったことではない。俺は、必要なことを伝えているだけだ」
毅然と言って、でうすはすたすたと廊下へ出ていった。すぐに部屋を出ると彼に追いついてしまうので、瑠唯はしばらくその場に突っ立っていた。
怒りが胸で渦巻いて、どうにもならなかった。でうすを相手に激したのは初めてだったが、そうするべきでないことはわかっていた。彼は事実を言っていたから。
深い喪失に向き合うことができずに、東京を離れた。乗り越え方はおろか、悲しみ方すら見当のつかない別れだった。誰にもあの気持ちはわからないのだから、瑠唯を非難する謂れもない。
なのに瑠唯は、でうすの言い分に本心から反駁できない自分に気づいてしまった。
事情をわかってくれて、でも思い通りにさせてくれる奈津のもとに転がり込んだ。人間の事情に干渉してこないでうすばかりを話し相手にしていた。朔が自分について知ろうとすれば、のらりくらりと躱した。それから――
瑠唯にしてみれば、仕方のないことだった。だけど、逃げではある。
それが瑠唯のものである以上、過去に向き合えるのは自分しかいなかった。なのに、その役割を長らくどこかに置き去りにしていた。そして、瑠唯が克服できないかぎり、悲しみはいつまでも悲しみのままなのだ。
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