8

「『おんでぃーぬ』というやつだ」


 バンで青嵐に戻る途中、でうすは助手席に丸くなりながら言った。


「伴天連たちの世界に棲む、水の妖精らしい」


 オンディーヌ、と瑠唯は繰り返して呟いた。そう言えば、そんな映画を観たことがある気がする。学生時代、スペイン旅行に行った帰り、機内で何の気なしに選んだ映画だ。

 確かに、水の精をモチーフにしたラブストーリーだった。


「何ででうすがそんな妖精のこと知ってるの? って言うか、いつ気づいたの?」


 でうすは眠そうに顔をこすりながら答えた。


「人間ではないと気づいたのは、港に行った車で鉢合わせてすぐだ。悪い奴ではなさそうなのでとくに気にしていなかったが、翌日あやつが話しかけてきた。恐ろしい人間から逃げて来たのだ、と言って身の上を語った。日本の神に迷惑をかけるつもりはないから、しばらくここにいさせてくれと」

「そんなこと知ってたなら、私に教えてくれれば良かったのに」

「お前が知りたがっていたとは知らなかったのだ」


 あっさりとでうすは言った。神は人間とあまりに感覚がかけ離れていて、気の利かせようすらないらしい。


「で、何で彼女は海のそばにずっといたのに、さっきもわざわざ海へ行ったの? ああやって海に逃げられるのなら、とっとと変身して里帰りできたんじゃないの」


 あの男が来るまで、待っている必要はなかった。もっと言えば、壱岐まで来なくても、博多湾から脱出することだって可能だったはずだ。そりゃ、壱岐より人も船も多くて混雑しているかもしれないが。


 それについても、でうすは何でもないことのように説明した。


「水のそばで、あの男に罵られる必要があったのだ。あやつらの決まりごとでは、人間と結婚していても、水のあるところで男が悪口を言うと還らねばならないらしい」

「還らないといけない状態に持っていくために、海まで行って悪口を言わせたと」

「うむ。口喧嘩をもって、婚姻の解消と見做されるらしいぞ。それまでは閉じ込められた暮らしだったらしいから、海に行くこともできなかったのだろうな」


 まどろっこしい方法である。でうすが訳知り顔で頷くのを見ながら、瑠唯は誰にともなく息をついた。


 ただ、ここへ来たこと自体、リルの迷いを反映しているような気もする。博多湾をのぞむホテルに泊まって、彼を待ち構えていても良かったはずだ。でも、わざわざ壱岐まで来て、見つかりにくいように偽名を使っていた。とっとと水辺で喧嘩をして別れたいなら、本名で行動して痕跡を残したほうが、彼を早くにおびき寄せられただろう。


 あの男と別れたくなかったというより、考える時間が欲しかったのかもしれない。いよいよ別れの時を迎えるまでに、気持ちの整理をつけることが必要だった。だから、壱岐へ来たのかもしれない。


 ゲストハウスの駐車場に着いた。すぐに車を降りる気になれず、スマートフォンを取り出してオンディーヌを検索する。どうやら大陸ヨーロッパの伝承のようだ。語り伝えられる有名なエピソードは、男の心変わりや、水のそばでの不義理でオンディーヌが水に帰ってしまう話ばかりだった。


「天女の羽衣みたいだね。異類婚姻譚というか」

「にゃ?」


 でうすが珍しく発した猫らしい声は、妙にかわいらしい。だが、かわいいと素直に言うのは腹が立つので、瑠唯はそ知らぬ顔で要旨だけ言った。


「人と、人じゃないものが結婚する話のこと」

「そうか。まあ、人と人ならざるものは、一緒に暮らすようにはできておらんのだがな」


 でうすは身もふたもない言い方をした。人間の生活に乗り込んできておきながら、よく言う。ただ、今では瑠唯のほうも話し相手としてでうすを当てにしているので、かろうじて批判を呑みこんだ。


「でも、何か勿体ないなあ。せっかく、人生を分かち合おうとまで思える相手に会えたのに、あんな別れ方をするなんて」

「分かち合おうと思っても、本当に分かち合えるかは別問題だろう」


 そりゃね、と瑠唯は相槌を打った。暴力男とは分かり合えないし、性根が入れ替わることも期待できないと、頭ではわかっている。


 一方で、リルとあの男を羨ましく思う気持ちがまったくなかったと言えば嘘になる。少なくともあの二人は、人生を共有できるかどうか、一度は試してみることができたのだから。




 朝食をリクエストしていたゲストたちに料理を提供し終えてから、瑠唯は奈津の家に向かった。奈津が縁側でかけっぱなしにしているラジオが、台風の進路が変わったとの天気予報を伝えていた。


 リルは嵐に遭わずに泳いで帰れるだろうか、と思う。荒天の中をどうやって、故郷まで辿り着くつもりなのだろう。オンディーヌは荒波や、海に落ちる雷からも身を護れるのだろうか。


 でうすの姿はなかった。朝はたいてい、縁側でくつろいでいるはずなのだが。

 代わりに目に入ったのは、庭を悠々と歩き回っているガロの姿だった。


「何してるの?」

「歩いている。見てわからないか」


 わかるけど、と瑠唯は口ごもった。あたりを見回すと、ちょうど鶏小屋のあたりから奈津が現れた。


「おはよう。――鶏、外に出していいの? でうすに襲われちゃうよ」


 すぐさま尋ねると、奈津はあっけらかんと答えた。


「さっき見たとき、二階で寝てたわよ。今は私がそばにいるし、大丈夫よ」

「ならいいけど、どうして今日は外に出してるの?」


 奈津が鶏を小屋から出すことなど、滅多にない。いや、今まで目撃したことがあったろうか。


「なんだか出たそうだったから。ずっと金網をつついてたの」

「あの小屋にいるのも、飽きたからな」


 しれっと言って、ガロは物珍しそうに畑のほうへと歩いていった。彼の声が聞こえない奈津は、安穏と続けた。


「たまにはいいでしょう?」

「もちろん、いいけど――」


 口ごもった瑠唯は、奈津の方を気にしつつもガロの前にしゃがみこんだ。


「禍つ物って、あんたでしょう」


 小声で問い詰めると、ガロは豆鉄砲を食らったような顔をした。


「お前はどうしても、俺に濡れぎぬを着せたいようだな」

「だって、あんたが来てからだもの――おかしなことが起こり始めたのは」

「言いがかりだと、言っているだろう」


 ガロの声に苛立ちが混じった。同時に遠い空が見る間に陰り始める。


「俺を怒らせるな」


 不穏な風が吹き、濃い灰色の雲が空を流れた。にわかに嵐の前のような、不気味な気配が満ちる。ぞわりとした感覚がうなじを撫でた。


「マリアのところへ戻って」


 リルの一件があって、無意識のなかで不安が増していたのかもしれない。家の隣にガロがいることが――やっと馴染んできた壱岐に彼が変調をもたらすことが、急に怖くなった。奈津にしろ、朔にしろ、いついなくなってしまうかわからない。彼らを害する物がそばにいるなら、すぐにでも排除したかった。


「お前の目はとんだ節穴だな」


 ガロの口調はせせら笑うようだった。


「追い出すべきは、俺ではない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る