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 しかし、彼女が何をしようとしているのか、見当がつかない。当惑を見て取ったのか、リルは恐縮したようすで言った。


「いえ、こちらこそ巻き込んでごめんなさい。あなたも、この――猫も」

「猫ではない、神だ」


 でうすはルームミラーの中で不服そうに言って、足で耳の後ろを掻いた。はて、と瑠唯は内心で首を傾げる。さりげなく会話に割って入っていたでうすだが、リルにも彼の声が聞こえているのだろうか。


「でうすの声が聞こえるの?」

「ええ。私も、人じゃないから」


 あっさり吐露されて、瑠唯はハンドルを握りながら呆気にとられる。危うく海水浴場への入口を曲がりそびれるところだった。


「これは君的にはアリなの? でうす」


 でうすは、特定の人間の利益になることはしないと言った。別の文化圏の人ならざるものが、日本の神の縄張りで悪さをすることはないと言った。だが、別の文化圏の人ならざるものを助けるのは、やぶさかではないということか。


「まあ、そうだな。人間を助けることには当たらないし、日本の神の領域を脱出するのをあと押しするだけだ」


 よくわからないが、海へ彼女を送り届けることは、脱出を助けることになるらしい。それでリルが暴力男から逃げられるのなら、瑠唯も協力せざるを得ない。


 海沿いをしばらく走った後、駐車場を突っ切って砂浜に突っ込む。車除けに置いてあるブロック塀を巧みに避けられたのは、暗くなり始めた黄昏どきには奇跡と言っていい。


 ブレーキが掛かるなりリルは、助手席のドアを開けて外へと飛びだした。やや遅れて瑠唯も、でうすとともに続く。波打ち際へ駆けて行くリルを追ううちに、背後にもう一台の車がやってきて停まった。大声を上げながら、男が降りてくる。


「待てよ! 逃げるな!」


 ジーンズにスニーカーのまま、荷物を抱いたリルは海へ入っていく。この時間帯はかなり水が冷たいはずだが、意に介さない。膝まで波に浸かるところまで来て、ようやく彼女はこちらを振り返った。固い面持ちで男に向き合う。


「何で逃げるんだよ。帰って来いよ」


 言いながらも男は、波を越えてはリルに近寄らない。足元の波を気にして投げられた彼の視線に、瑠唯はひそかな蔑みを覚えた――必死で彼女を求めているように見えて、靴が濡れることが気になる程度の気持ちしかないのだな、と。


「帰らない」


 震える声でリルは言った。瑠唯と話していた時とは比べものにならない頼りなさで、ともすると波音にかき消されてしまいそうだった。


「また私を閉じ込めて怒鳴るでしょう」


 それでも、たどたどしくもリルは自分の主張を重ねた。言葉に詰まった男だったが、早口に畳みかける。


「怒鳴ったりしない。もう怒らないから」

「嘘。何度もそう言って、結局同じだった」


 涙ぐみながらも、リルは懸命に言葉を継ぐ。瑠唯は、いつ男が海に入ってリルに掴みかかるかとはらはらした。足元のでうすを見やっても、じっとリルを見つめるばかりだ。

 波の勢いが強まった気がした。男が慌てたように、波打ち際から後退する。


「だってそれは――君が俺の期待に応えてくれないから」


 口籠りながらも言った口調に、男の苛立ちが滲み始める。


「俺はどうするべきか、辛抱強く言って聞かせたじゃないか。でも君は、できない言い訳ばかりして、仕事で疲れてる俺を労わってもくれない」


 リルがじりじりと後ずさった。


「片方がもう一人の理想に従うことが、一緒に生きるってことなの?」

「だって、そうだろう。俺は外で働いてて、君に支えてほしいって言ったろ。なのに、家事すら完璧にしてくれないなんて」


 瑠唯は自分の表情が歪んでいくのに気づいた。聞いているだけでげんなりするような文言だ。細かい事情は知らないが、この場のやり取りを見るかぎりは、全力でリルに味方したくなる。恐怖を抑えて、必死で相手と決別しようとしているリルに。


 強張ったままのその顔が、不意にこちらをむいた。


「助けてくれて、ありがとう。私はもう行くけど、水の悪いものには気を付けてね」

「え?」


 呆気にとられた瑠唯に向かって、リルは続けた。


「悪いものほど、良い顔をして近づいてくるから」


 意味を取りかねた瑠唯が戸惑っていると、同じく困惑した様子の男が怒鳴った。


「なんの話をしてるんだよ。無視するな」


 リルは男の顔をねめつけながら、さらに後ずさった。細身な身体が、腰まで海水に浸かる。


「もうこの辺で、良いだろうな」


 不意にでうすが言った。どういうことかと訊こうとしたとき、やにわにリルが着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。


「えっ」


 戸惑う瑠唯の前で、シャツも脱いで上半身裸になったリルは一目散に水の中を駆け、砂浜から遠ざかる。あまりに優美なシルエットに、瑠唯はもろもろの状況も忘れて息を呑んだ。彼女は汀から次第に深くなる海、夕焼けに染まる水の中へ姿を消した。呆気に取られていると、リルが潜っていったあたりに仄青い光が灯る。


「何事?」

「元の姿に戻ったのだ」


 でうすが言うと同時に、ぱしゃん、と何かが水面を叩く。だいぶ暗くなっているが、どうやら尾びれのようなものだとわかった――それこそが、うっすらと蒼い光を発していたからだ。


「さようなら」


 誰に向かってか、リルははっきりとした日本語で言ってよこした。同時に細い腕が海中から伸びて、小さなバックパックを放り投げる。多分、リルの身分や存在を証明するものが入っていた荷物を。


 海ほたるのような、燐光のような蒼い明かりが、みるみるうちに遠ざかっていく。瑠唯はそれが水平線に消えてしまうまで、茫然と見送った。


 我に返って男を見やると、砂に膝を突いて絶句していた。驚きに言葉もないようだったが、打ちひしがれた様子はない。何もかも支配できる――と彼が思っていた――相手を失って、動揺はしているかもしれないが。


 日は既に落ち、あたりは暗くなっていた。瑠唯は波音に紛れてそっとその場を立ち去り、車へと戻った。瑠唯がバンのドアを開けて運転席に乗り込むまで、男は微動だにしなかった。


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