7
しかし、彼女が何をしようとしているのか、見当がつかない。当惑を見て取ったのか、リルは恐縮したようすで言った。
「いえ、こちらこそ巻き込んでごめんなさい。あなたも、この――猫も」
「猫ではない、神だ」
でうすはルームミラーの中で不服そうに言って、足で耳の後ろを掻いた。はて、と瑠唯は内心で首を傾げる。さりげなく会話に割って入っていたでうすだが、リルにも彼の声が聞こえているのだろうか。
「でうすの声が聞こえるの?」
「ええ。私も、人じゃないから」
あっさり吐露されて、瑠唯はハンドルを握りながら呆気にとられる。危うく海水浴場への入口を曲がりそびれるところだった。
「これは君的にはアリなの? でうす」
でうすは、特定の人間の利益になることはしないと言った。別の文化圏の人ならざるものが、日本の神の縄張りで悪さをすることはないと言った。だが、別の文化圏の人ならざるものを助けるのは、やぶさかではないということか。
「まあ、そうだな。人間を助けることには当たらないし、日本の神の領域を脱出するのをあと押しするだけだ」
よくわからないが、海へ彼女を送り届けることは、脱出を助けることになるらしい。それでリルが暴力男から逃げられるのなら、瑠唯も協力せざるを得ない。
海沿いをしばらく走った後、駐車場を突っ切って砂浜に突っ込む。車除けに置いてあるブロック塀を巧みに避けられたのは、暗くなり始めた黄昏どきには奇跡と言っていい。
ブレーキが掛かるなりリルは、助手席のドアを開けて外へと飛びだした。やや遅れて瑠唯も、でうすとともに続く。波打ち際へ駆けて行くリルを追ううちに、背後にもう一台の車がやってきて停まった。大声を上げながら、男が降りてくる。
「待てよ! 逃げるな!」
ジーンズにスニーカーのまま、荷物を抱いたリルは海へ入っていく。この時間帯はかなり水が冷たいはずだが、意に介さない。膝まで波に浸かるところまで来て、ようやく彼女はこちらを振り返った。固い面持ちで男に向き合う。
「何で逃げるんだよ。帰って来いよ」
言いながらも男は、波を越えてはリルに近寄らない。足元の波を気にして投げられた彼の視線に、瑠唯はひそかな蔑みを覚えた――必死で彼女を求めているように見えて、靴が濡れることが気になる程度の気持ちしかないのだな、と。
「帰らない」
震える声でリルは言った。瑠唯と話していた時とは比べものにならない頼りなさで、ともすると波音にかき消されてしまいそうだった。
「また私を閉じ込めて怒鳴るでしょう」
それでも、たどたどしくもリルは自分の主張を重ねた。言葉に詰まった男だったが、早口に畳みかける。
「怒鳴ったりしない。もう怒らないから」
「嘘。何度もそう言って、結局同じだった」
涙ぐみながらも、リルは懸命に言葉を継ぐ。瑠唯は、いつ男が海に入ってリルに掴みかかるかとはらはらした。足元のでうすを見やっても、じっとリルを見つめるばかりだ。
波の勢いが強まった気がした。男が慌てたように、波打ち際から後退する。
「だってそれは――君が俺の期待に応えてくれないから」
口籠りながらも言った口調に、男の苛立ちが滲み始める。
「俺はどうするべきか、辛抱強く言って聞かせたじゃないか。でも君は、できない言い訳ばかりして、仕事で疲れてる俺を労わってもくれない」
リルがじりじりと後ずさった。
「片方がもう一人の理想に従うことが、一緒に生きるってことなの?」
「だって、そうだろう。俺は外で働いてて、君に支えてほしいって言ったろ。なのに、家事すら完璧にしてくれないなんて」
瑠唯は自分の表情が歪んでいくのに気づいた。聞いているだけでげんなりするような文言だ。細かい事情は知らないが、この場のやり取りを見るかぎりは、全力でリルに味方したくなる。恐怖を抑えて、必死で相手と決別しようとしているリルに。
強張ったままのその顔が、不意にこちらをむいた。
「助けてくれて、ありがとう。私はもう行くけど、水の悪いものには気を付けてね」
「え?」
呆気にとられた瑠唯に向かって、リルは続けた。
「悪いものほど、良い顔をして近づいてくるから」
意味を取りかねた瑠唯が戸惑っていると、同じく困惑した様子の男が怒鳴った。
「なんの話をしてるんだよ。無視するな」
リルは男の顔をねめつけながら、さらに後ずさった。細身な身体が、腰まで海水に浸かる。
「もうこの辺で、良いだろうな」
不意にでうすが言った。どういうことかと訊こうとしたとき、やにわにリルが着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。
「えっ」
戸惑う瑠唯の前で、シャツも脱いで上半身裸になったリルは一目散に水の中を駆け、砂浜から遠ざかる。あまりに優美なシルエットに、瑠唯はもろもろの状況も忘れて息を呑んだ。彼女は汀から次第に深くなる海、夕焼けに染まる水の中へ姿を消した。呆気に取られていると、リルが潜っていったあたりに仄青い光が灯る。
「何事?」
「元の姿に戻ったのだ」
でうすが言うと同時に、ぱしゃん、と何かが水面を叩く。だいぶ暗くなっているが、どうやら尾びれのようなものだとわかった――それこそが、うっすらと蒼い光を発していたからだ。
「さようなら」
誰に向かってか、リルははっきりとした日本語で言ってよこした。同時に細い腕が海中から伸びて、小さなバックパックを放り投げる。多分、リルの身分や存在を証明するものが入っていた荷物を。
海ほたるのような、燐光のような蒼い明かりが、みるみるうちに遠ざかっていく。瑠唯はそれが水平線に消えてしまうまで、茫然と見送った。
我に返って男を見やると、砂に膝を突いて絶句していた。驚きに言葉もないようだったが、打ちひしがれた様子はない。何もかも支配できる――と彼が思っていた――相手を失って、動揺はしているかもしれないが。
日は既に落ち、あたりは暗くなっていた。瑠唯は波音に紛れてそっとその場を立ち去り、車へと戻った。瑠唯がバンのドアを開けて運転席に乗り込むまで、男は微動だにしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます