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 何か言わなければ。通り一遍の質問をして、相手の気が静まるのを待つことはできるだろうか。


「恐れ入りますが、どちら様ですか。どういったご用件でしょう」

「ちょっと教えてくれればいいんだよ。会って話したいだけなんだから」


 ますますソフィアに会わせるわけにいかない。電話の時と同様、彼にはこちらの話を聞く気がまるでない。そして、話したいだけと言う奴が、本当に話すだけで引き下がることはほぼない。なにかありがたくないことをしでかすに決まっている。


「もしそういう方がいたとして、宿泊施設から情報を開示することはありません」


 警察の捜査ならいざ知らず、今どき顧客の個人情報を簡単に渡せるわけがない。相手もわかっていてごねている。


「こっちはあいつの身内なんだよ!」


 思った通り、相手は声を荒げた。さしずめ国際結婚の夫妻というところだろうか。こういう時は、権威に頼るしかない。動揺しつつ、瑠唯は必死で言葉を継いだ。


「事情をお話しいただけず、こちらの説明もおわかりいただけないなら、警察をお呼びします。行方不明者の捜索なら、まずは警察にご相談するべきかと思いますが」


 瑠唯が要求に屈せず、あまつさえ警察を引き合いに出したことに、男はたじろいだ。後ずさりし、おどおどしながらも精一杯声を張る。


「ふざけるなよ。こっちは身内を探してるってのに」

「申し訳ありませんが」


 慇懃に繰り返すと、男は憤然と踵を返した。玄関扉から離れ、つんのめるようにして駆け出す。駐車場に止めたレンタカーに駆け寄っていくのを、瑠唯は途中まで追った。止める気だったのではなく、相手が立ち去るのを確実に見届けるためだ。


 男がコンパクトカーに乗り込み、ドアを閉めた時だった。背後の玄関扉から、誰かが飛び出してくる気配がした。同時に、履いているジーンズの後ろポケットから、鍵束が抜き取られる。


「え?」


 振り返ると、照明の逆光の中、華奢なシルエットが素早く駆けて行く。青嵐の業務用バンに駆け寄った人影――ソフィアは、すぐさま車のドアを解錠した。呆気に取られている間に、一度は車に乗り込んだ男がドアを開ける。


「おい――」

「お願い、来て」


 ソフィアの悲痛な声に引っ張られるように、瑠唯は駆け出していた。運転席のドアを引っ掴むようにして開け、車内になだれ込むと、すぐさまソフィアが遠隔キーで施錠する。走り寄ってきた男がドアを叩き、瑠唯は背筋を震わせた。


「開けろよ! おい!」


 おののきつつも瑠唯は、助手席にいるソフィアに目を向けた。凍りついたような無表情で前を向いている彼女は、バックパックを抱き、キーを固く握りしめている。


「車を出して」

「ソフィア――」


 言いかけたとき、ソフィアがこちらに向かって掌を突き出すようにした。呆気に取られる瑠唯の前でソフィアは親指を曲げ、それを他の四本の指で包むようにする。


 暴力から助けてほしいと声を出さずに求めるための、ハンドサインだ。暴力の加害者が誰かは、さすがの瑠唯にもわかる。


「わ、わかりましたけど」


 ソフィアは早口に言った。


「ここじゃだめなの。海へ行って」

「海?」


 混乱しながら、鸚鵡返しに呟いた。いつも彼女が海ぎわを歩いていたことと関係があるのだろうか。


「いずれどこかで、彼に見つかると思ってた。でも出くわすなら、海のそばじゃないとだめなの」

「どういうこと?」


 言っている意味が、よくわからない。


「お願い、海へ行って」

「人も少ないし、危ないですよ」


 時刻は夕方で、まだ人は出歩いているが、海に遊びに行く季節でもない。そんな状況へ、華奢なソフィアと二人で暴力男と対峙しに飛び込む勇気はない。


「警察、呼ばないと」

「それじゃ意味がないの」

「でも――」

「行ってよいぞ」


 ソフィアと瑠唯の議論を遮って、突如声が響いた。後部座席を振り返ると、いつの間にかでうすが寝そべっている。


「言うことに従ってやれ。そやつだけができる方法で、あいつと片をつけようとしているのだ」

「どういう意味よ」

「行けばわかる」


 でうすはのんびりと欠伸をした。その間にも、男はドアや窓を叩き続けていたが、突然バンを離れた。何かと思っていると、男のレンタカーに戻って工具のようなものを持ち出してきた。瑠唯にはそれが、水没した時に車の窓ガラスを割るための道具に見えた。


「わ、わ」

「早く出せ」


 こうなってはとにかく逃げるしかない。瑠唯は慌ててエンジンを起動すると、ギアをドライブに入れ、車を出した。公道に着くと左右どちらに曲がるか一瞬迷ったが、島の東側にある砂浜が頭に浮かんだ。その直感に従って、右折することに決める。


「ええい」


 思い切りハンドルを切ったとき、ルームミラーに男の車が見えた。右へ曲がったところは、見られてしまったようだ。男の車はその後も執拗に瑠唯のバンを追いかけてきた。


「ここまで巻き込まれたから、説明はしてくれますよね? 今まで、悪いかなと思って詮索しなかったけど!」


 必死で運転しながらソフィアに話しかける。気詰まりそうにしながらも、ソフィアは口を開いた。


「国際結婚したら、相手が暴力男だったんです。彼から逃れるために、偽名を使って、壱岐に潜伏してて」


 車を借りなかったのも、宿泊費を現金で支払ったのも、実名の運転免許証やクレジットカードを見せなければならないからだろう。端的な説明に一応は納得しながら、瑠唯は頷いた。


「なるほど、予想通りっちゃ予想通りです。で、海へ行くのは何で?」

「そうすれば、家へ帰れるから」

「フランスまで泳いでいくつもり? んな馬鹿な」


 今度は到底納得のいかない説明である。思わず反駁したが、これにはでうすがのんびりと横槍を入れた。


「当たらずとも遠からずだぞ」

「はあ? 何千キロあると思ってるの!」


 瑠唯はでうすに向かってまくし立てるその脇から、ソフィア本人が必死に口を挟む。


「海にさえ行ければいいんです、本当に! あとはあの人を、少しだけ怒らせれば」

「もう充分怒ってますよきっと!」


 思わず声を高くすると、ソフィア――いや、リルと言ったか――は子どものように身を縮こまらせた。その切羽詰まった様子に、瑠唯ははっとした。間髪入れずに謝る。


「ごめんなさい、怖がらせて」


 きっと怒鳴られすぎて、大声や大きな物音を聞くと反射的に恐れを感じてしまうのだ。彼女がドアを閉める音に怯えていた様子が、蘇った。長期的な暴力の被害に遭った人は、音に過敏になる傾向があると、そういえば聞いたことがある。

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