第9章 フロントの攻防

 G-3号室は客室でも物置でもなく、エレベーターホールだった。ここに至って、ようやく谷本は「ホテル百角館」が百角形の平屋の建物ではなく、らせん状の高層建築物であることを身に持って知ることができた。


 エレベーターは、AエリアからJエリアまで、各エリアにある3号室を結んでいた。一番下にあるエレベーターホールがフロントのすぐ横にあるA-3で、一番上にあるのがJ-3である。


 谷本は、なぜ自分がエレベーターの存在に気づかなかったのか不思議に思った。この建物が高層建造物であることを知っていればエレベーターが存在することに気づけたのだろうか。いや、そうとは限らないだろう。むしろ、エレベーターの存在を知っていれば、このホテルが約10階建てであることに気づけたはずだ。


 なぜ、自分はエレベーターの存在に気づかずに、ずっと廊下を歩き続けていたのだろうか。谷本が思い返していると、ホテルに到着したときのことに思い当たった。あのとき、女将に「C-7は3階のことですか」と聞いたらそうではないとの答えが返ってきて、C-7に行く方法を示すために廊下を指差したのだった。だから、谷本はずっと廊下を歩き続けていたのだ。


「なんで女将さんはエレベーターのことを教えてくれなかったんですかね?」


 三人の男が詰め込まれた狭い金属の箱が下降している中、谷本は他の二人に訊いた。


「女将さんはちゃんとエレベーターのことを教えてくれていたのかもしれませんよ」


 天井の片隅を見つめていたドラゴンタトゥーの男が答えた。


「どういうことです?」


「フロントにいた女将さんが廊下を指差したということは、女将さんからすればまっすぐ左を指差したということですよね。確かにそこには廊下がありますが、廊下の一番手前にあるのがエレベーターのあるA-3号室です。だから、きっと女将さんは廊下ではなくA-3号室を指していたのだと思います。女将さんとしても、まさかホテルを平屋だと思っている客がいるとは思っていなかったでしょうから」


 なるほど。谷本は頷いた。女将はいじわるでエレベーターの存在を教えなかったわけではないようだ。普通の方法でもって案内してくれていたにも関わらず、偶然と勘違いが重なって谷本はずっと廊下を歩き続けてしまったのだ。普通の建物であれば、階段を上らなければ三階相当の高さまで上がることができないが、らせん状という特殊な構造ゆえに廊下を歩いているだけでC-7号室に辿り着けてしまったのも、誤りに気づけなかった一因なのだろう。


 ささやかな電子音がエレベーターがA-3号室に着いたことを知らせた。フロントでは、女将がソファに座って電話機の子機に向かって話していた。警察と電話をしているのだろう。あまりの猛吹雪のせいでまだホテルに来ることができないため、警察は電話で状況を把握しようとしているようだった。しかし、女将の話は大いに脱線して、今は知り合いの知り合いだという市長の話をしていた。


 女将は、三人の姿を見つけても一瞥しただけで電話に戻った。市長の嫁の知り合いの話が佳境に入っているらしい。ドラゴンタトゥーの男は、そんな女将に断ることもなく、一直線にフロントデスクに向かった。そこに置かれていたパソコンを立ち上げると、モニターに貼られた付箋に書かれているパスワードを使って難なくログインしてしまった。


「お客さん、余計なことをされると困るんですけど」


 女将がドラゴンタトゥーの男の行為に気づき、子機を片手にしたまま慌ててやってきた。谷本と百キロもさすがに困惑して男の様子を眺めている。


「パスワードをこんなところに貼っておくのが悪いんじゃないですかね」


 ドラゴンタトゥーの男は全く悪びれることなく言う。その間も右手ではマウスを動かし続けている。


「これから警察も来るんでしょうし、あまりそういうことはやらない方が良い気がするんですけど」


 谷本が肩を強く掴まれたときの感触を思い出しながら恐る恐る声を掛ける。ドラゴンタトゥーの男は、モニターから顔を上げると谷本を睨んだ。


「真実を知りたいと言ったのは谷本さんじゃないですか。やめろと言うならやめますけど、谷本さんはそれで良いんですか?」


 冷徹な目で問い詰めてくる。疑問形で聞いてきてはいるものの、NOという答えを受け付けてくれそうな雰囲気ではない。


「まぁ、そうですね。その、やめろとも言いませんけど。でも、何を調べているのかは教えていただけますか?」


 谷本は完全に委縮してへりくだった態度になっている。それでもドラゴンタトゥーの男は顔色を変えるわけではなく、視線をモニターに戻して、仕事中に業務に関する質問をされたといった程度の口調で答える。


「エレベーターの監視カメラの映像を探しています。谷本さんの先ほどの推論、つまりE-7号室かF-7号室の窓が割れているはずだ、というのが事実か否かはエレベーターの映像を確認すれば確かめることができます。ここに被害者の女性が映っていれば事情は変わってきますし、映っていなければエレベーターを考慮しても谷本さんの推論は正しいということになります」


「でも、何か勝手にいじられると困るんですけど」


 これは女将の言葉だった。電話の相手も捜査資料だからと騒いでいる。ドラゴンタトゥーの男は溜め息を吐いて言った。


「別にデータを消したりとかしませんから。ぜひ私がここでPCを操作しているのを見ていてください。お三方に私の操作を見ていただければ、後で私が何も怪しいことをしなかったことに証拠にもなりますから、どうぞじっくりご覧ください」


 これで電話の向こうにいる刑事が納得したかどうかはわからないが、フロントデスク上のPCモニターにはすでに監視カメラの映像が呼び出されていたので、その場にいる者たちは文句を言うのを止めてモニターを覗き込んだ。


 ドラゴンタトゥーの男は動画の時刻を昨夜の午後11時30分まで巻き戻した。Dエリアのラウンジで谷本と白いパジャマの女性が別れた時刻である。ここから11時50分までの間に被害者の女性の姿が、生きているか死んでいるかに関わらず写っているかどうかが問題になる。


 動画は15倍速で再生されたため、あっという間に20分間の映像をチェックすることができた。結論としては、動画には被害者を含めて誰の姿も映っていなかった。


 これで、谷本のラウンジでの推理は依然として正しいことが確認された。被害者はエレベーターを使っておらず、Gエリアのラウンジより上の廊下にも行っていない。よって、DエリアとGエリアの間のいずれかの7号室から墜落したはずである。つまり、E-7号室かF-7号室の窓を破って落下したのだ。


 ドラゴンタトゥーの男は、PCの前で立ち上がる直前に、ひょいと頭を下げてデスクの下を覗き込んだ。それからフロントデスクから出てくると、谷本と百キロを誘ってA-3号室まで戻った。女将は一部始終を呆然と見終わると、再び電話に戻った。


「E-7号室に行きましょう」


 ドラゴンタトゥーの男は言った。


「なぜF-7ではなくてE-7なんですか?」


 谷本が訊いた。


「フロントに鍵がなかったんです。F-7号室のものはあったんですけど」


 谷本と百キロは頷くと、一緒にエレベーターに乗り込んだ。E-3号室で降りると、E-7号室の前まで廊下を歩いて行った。三人の足取りはやや緊張しているようだった。この部屋に白いパジャマの女性の死の真相がある。犯人がまだ隠れているかもしれない。あるいは、ただ遺書が残されているだけかもしれない。いずれにしても、この扉を開けたら事件が終わる。


 ドラゴンタトゥーの男は扉をノックした。応じる者はいない。ノブにも手を掛けたが、鍵が掛かっていた。タトゥーの男は、谷本と百キロに目配せして扉を破ろうとしていることを伝えた。百キロは及び腰だったが、谷本の心は決まっていた。いつになったら警察が来るのかわからない。もしも、白いパジャマの女性を殺した人物がこの中にいるのなら、逃げ出す前に捕まえなければならない。こっちは男が三人いるのだ。反撃されてもこっちの方が優勢だ。


 二人の男は、勢いを付けて何度か扉に肩から体当たりした。数回の試みの後、鍵が壊れて扉が開いた。二人はそのままの勢いで中に入った。百キロも後ろから中を覗いた。


 冷たい空気が男たちの火照った上半身を撫でた。部屋は乱れていた。衣服やシーツがあちこちに散らばっている。椅子や机はバラバラの位置に置かれ、その上に置かれていたのであろうアメニティの小物は散乱している。


 床に広げられた衣服には女物と男物の両方ある。二人で滞在していたのか。部屋の奥にある窓は派手に割れており、窓枠にガラスはほとんど残っていない。


 部屋の状況を見れば何が起こったかは明白だった。男女がもみ合いになり、男が女を窓から突き落とした。そういうことだろう。


 だが、新たな問題が生じた。突き落とした方の男はどこに行ってしまったのだろう。


 三人は、小さなクローゼットの中やベッドの下など、人が隠れられそうなところは片っ端から見ていった。しかし、誰も見つけることができなかった。


 窓から朝の太陽光が入り込んできた。吹雪はほとんど収まっていた。嵐の一番激しい部分が過ぎ去ったようである。谷本は外を見てみたい気分になった。そういえば、このホテルに来てからまだ一度もまともに窓からの景色を見られていない。


 窓際に寄ると、遠くに聳える山々が見えた。ばっちりと雪化粧をしている。それから下に目を向けた。そこには被害者の遺体があるはずだった。意識して見ないようにしようと思ったが、やはり見ずにはいられない。


 しかし、谷本が目にしたのは想像とは異なる景色だった。確かに一人の女性の遺体がある。関節が通常ならばあり得ない方向に折れ曲がった無惨な姿だ。それに加えてもう一つ、男の遺体があった。女性がパジャマのままであるのに対して、男性はダウンジャケットを着て、防寒対策をばっちりしている。


 二つの遺体が横たわっている場所に女将が警官を案内しながらやってくるのが見えた。猛吹雪が収まり、ようやく警察がやって来ることができたのだろう。女将は、二つの遺体を目にすると、E-7号室にまで聞こえるほどの声を上げた。


「あれぇ! さっきは一人しかいなかったのに!」

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