第5章 ラウンジの矛盾

 緩くカーブし続ける廊下を駆けてきた谷本は、自分の部屋であるC-7号室の前に来ると一旦中に入り、服を着替えることにした。浴衣とスリッパのまま吹雪の屋上に出るわけにはいかない。防寒具を着なければ自分が第二の犠牲者になってしまう。


 もう彼女を救うことができないとわかったせいか、フロントに向かうときよりも戻ってくるときの方が大変だった気がした。あるいは、単に深夜ゆえの疲れが溜まってきているだけだろうか。


 谷本は着替えを済ませてホテルに来たときと同じ格好になると、C-7号室を出て廊下を反時計回りに歩き始めた。Jは10番目のアルファベットであるから、女将が言っていたJ-10は100番目の場所になる。C-7号室は37番目なので、まだあと2倍ほどの距離を進まなければいけない。まったく、面倒なホテルだ。


 Dエリアには白いパジャマの女性と出会ったラウンジがある。それより奥は谷本が初めて足を踏み入れるエリアであった。EエリアとFエリアには、B、Cエリアと同じく客室が並んでおり、特に目を惹くものはなかった。


 Gエリアは、Dエリアと同じレイアウトのラウンジエリアだった。洗濯室や自動販売機などもある。今は一人の太めの男性がソファに座っていた。百貫デブと形容できれば語呂が良いが、さすがに375キログラムもあるようには見えない。せいぜい百キロデブだ。


 百キロデブの座っている場所からなら廊下は常にまる見えである。もしかしたらパジャマの女性が屋上に向かうところを見ているかもしれない。谷本は「あとで百キロデブに話を訊くこと」を脳内のToDoリストに加えた。


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G-1: 喫煙室

G-2~3: 無印

G-4: 洗濯室

G-5: トイレ

G-6~7: ラウンジ

G-8~9: キッチン

G-10: リネン室

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 Hエリア、Iエリア、Jエリアも客室だった。つまるところ、ホテル百角館もビジネスホテルの一種であるから、宿泊するには十分であっても、ラグジュアリーな設備といったものはない。湾曲する廊下の右側に同じような部屋の扉、左側にのっぺりとした白い壁が延々と続く。


 ようやく谷本はJ-10の場所に着いた。予測していた通り、ここで廊下は行き止まりになっており、これ以上部屋はない。


 100番目の場所。二区画ぶち抜きの部屋がいくつかあるため、100番目の部屋ではないが、区画としては100番目。百角形で言えば、100個目の辺にあたる場所だ。


 女将曰くここが屋上に通じる場所らしい。だが、ここにも他の客室と同じように扉があった。おそらく宿泊客が勝手に屋上に上がることを防ぐためだろう。扉を開ければ梯子か階段があって屋上に行けるようになっているはずだ。


 谷本は、扉の丸いノブに手を掛けた。しかし、ノブに回転方向の力を加えても動かない。谷本は、しばし様々な方向に動かそうとしてみたが、ガチャガチャと音がするばかりで、扉が開く気配はない。


 鍵が掛かっている。宿泊客の侵入を防ぐのであれば当然のことであった。しかし、パジャマの女性はここから屋上に上がったはずだ。あるいは、元々は鍵が開いていたが、女性自身が中に入ってから内側から鍵を掛けたのだろうか。あり得ないことではない。自殺する決意が強ければ、邪魔されないために鍵を掛けるのはそれほど変な話ではない。


 事情は想像できたが、問題は今どうするかだ。フロントデスクにはJ-10の鍵があるだろうが、女将に頼んでみたところで開けてくれそうにはない。吹雪が収まれば警察がやってくるのだから、わざわざ自分みたいな一般人のために現場を見せる意味がないのだから。むしろ、屋上への扉の鍵を開けてくれなどと頼んだら、自分が要注意人物として見られてしまうだろう。


 谷本は、とぼとぼと廊下を時計回りに戻るしかなかった。途中で、Gエリアのラウンジの横を通りかかった。そこには、先ほどのToDoリストに加えた肥満の男性がまったく同じ姿勢で座っていた。


 男は先ほどからずっと漫画雑誌を読んでいる。谷本は、他にやれることもないので、話を訊いてみることにした。


「すみません、ちょっとお聞きしてもよろしいですか?」


 ソファに座った男性は、妙にニヤニヤしながら手元の雑誌から顔を上げた。


「どうしました?」


「そこの廊下を通る女性を見かけませんでしたか? 白いパジャマを着ていて、黒い髪が肩まであるくらいの人なんですが」


「見てないなぁ。女の人は一人も通らなかったねぇ」


「いつからここに座っておられましたか?」


 ソファの男性は、目の前の机に置いてあったスマートフォンを拾って時刻を確かめた。机の上にはH-1の部屋の鍵も置かれている。この男が滞在している部屋なのだろう。


「一時間半くらい前からだねぇ。11時20分くらいにここに来たのは覚えているから」


 つまり、この男性は11時20分以降にこの場所の廊下を通った人物は全員目撃しているはずだ。谷本はそのことを確認すると、百キロの男は確かにそうだと認めた。


 とすると、妙な事態が生じる。谷本がDエリアのラウンジで白いパジャマの女性と別れたのが11時30分。谷本がC-7号室の自分の部屋で女性が墜落するのを目撃したのは11時50分である。この20分の間に女性はDエリアのラウンジからJ-10に移動して屋上に上がっていなければいけない。そのためには長い廊下を通るしかないのだから、Gエリアのラウンジの前も当然通っているはずである。


 しかし、11時20分から廊下を見張れる場所にいた男性によると、そんな女性は通っていないという。それならどうやって11時50分までに白いパジャマの女性は屋上に行ったのだろう?


 谷本は追加の質問をした。


「それなら、女性じゃなくても良いんですが、誰かこの廊下を通った人はいましたか?」


 もしかしたら、白いパジャマの女性は変装をしてこの場所を通ったのかもしれない。これから命を断とうというのに変装をする理由はさっぱりわからないが。


 百キロはしばらく考えてから、少しずつ答えた。


「まず、10分前くらいにあなたが通ったでしょ。それから、あれは11時40分くらいだったかな、男の人が時計回りに廊下を通って行ったね。5分くらいで戻って来たけど。喫煙室に行っていたんだと思う。ほら、この近くだとG-1の喫煙室でしかタバコが吸えないから」


 男性は、右手の人差し指と中指を使って陽気に喫煙のジェスチャーをしてみせた。そういえば、この男はまだ事件のことを知らない。谷本は事件があったことを知らせるべきかと僅かに逡巡したが、それは警察の役割だと結論を出して、わざわざ自分から事情を説明することはやめた。


「その男性のことをもう少し詳しく教えてもらえますか?」


「なんだか警察の尋問みたいだね、お兄さん。まぁ良いけど。そうだな。凄くしっかりしている人に見えたよ。30歳くらいで長身。筋肉もしっかりあって、浴衣の隙間から立派な胸筋が見えたね」


 これは、もしかして? 谷本にはその特徴に当て嵌まる男に一人心当たりがあった。これだけの説明で断定するわけにはいかないが、どうやら今夜はこのホテルに宿泊している人も多くないようなので、確率は低くない。


「何かその男性に怪しいところはありませんでしたか?」


「強いて言えば、目つきは鋭かったかな。あんまり僕は関わりたくないタイプの人という感じ。表じゃない方の社会を知っている人の雰囲気というか。ね、わかりますよね?」


 百キロは同意を求めてくる。谷本は真剣に頷いた。あの男だ。浴場ですれ違ったあのドラゴンタトゥーの男だ。あの男が、問題の時刻にラウンジの前の廊下を行き来していたという。


 谷本の胸の奥では急速に怒りと闘志が湧きおこってきたが、その気持ちを押し隠して締めの質問をした。


「他に誰か見かけませんでしたか?」


「いませんね。こんな天気の日にわざわざこのホテルまでやって来る人はそんなに多くないんだと思います」


 肥満の男性の返答を訊くと、谷本は適当に礼を言って切り上げようとした。立ち去ろうとすると、百キロの男はソファに座ったまま明るい声で呼びかけてきた。


「そのパジャマの女性、僕は見たことはないけどよっぽど綺麗な人なんだろうね。頑張ってね」


 そして、手を振って谷本を見送った。何か勘違いされている。まるで自分が一目惚れした女を追いかけているみたいではないか。全然そんなことはないのに。純粋に真実を解き明かそうとしているだけなのに。下心はないし、あったとしてももう意味はないのに。


 谷本は、再び廊下を反時計回りに歩き出した。先ほどの証言から、ドラゴンタトゥーの男はGエリアよりも奥の客室にいると推測できた。時計回りにラウンジの前を通りかかって、反時計回りに戻っていったのだから。


 この男の話を何としても聞かなければいけない。該当の時間に唯一ラウンジの前を通りかかった人物。本来ならば白いパジャマの女性が通っていたはずの経路を唯一通った人物。必ずや事件と関係があるに違いない。


 被害者の女性が死の直前に廊下から消失した原理は、この男が関わっていないと説明できないのだ。そして、谷本には、その原理がすでに推理できていた。

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