第4章 堕ちたミューズ
谷本は、もう白いパジャマの女性の笑顔を思い出すことができなかった。ラウンジでの僅かな記憶は、すべて落雷の瞬間にかき消され、代わりに網膜には女性の恐怖の表情が焼き付けられていた。
心を落ち着かせるようとして、谷本は強く瞼を閉じた。しかし、網膜焼き付いた落下する女性の残像は消えなかった。何度試みても効果はなかったため、谷本は諦めて今後の行動を考えることにした。
まずは、堕ちた女性の状況を確認しなければいけない。窓を開けて落下した場所を見られれば良かったが、忌々しいことにこのホテルの部屋の窓は開けられない。一旦、フロントまで行ってから外に出て女性の容態を確認しなければいけない。
谷本は部屋を出て廊下を駆け出した。もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。怪我はしていても、命は助けられるかもしれない。そう考えると、一瞬も無駄にできる時間はなかった。
フロントに着いた谷本は、そのまま扉を開けて外に飛び出ようとした。だが、扉には鍵が掛かっており、ほとんど扉に衝突するようにして行く手を阻まれることになった。フロントには谷本が手をガラス戸に叩きつける大きな音が響いた。
その音を聞きつけた女将が、A-4号室から出てきた。
「こんな時間に何をしているんですか?」
今の谷本には我慢できないほどのんびりした口調で女将は訊いてくる。谷本の返答は、しかしながら、走ってきて息切れをしているせいで要領を得ず、余計にまだるっこしいものだった。
「今すぐ外に……女性が落下したんです……助けないと……すぐに……早く!」
「もう門限だから鍵は閉めちゃいましたよ」
それから女将は谷本の全身を眺めると言った。
「お客さん、そんな恰好で外に出たら死んじゃいますよ」
谷本は自分の体を見た。浴衣がはだけて、上半身がほぼ丸見えの状態になっている。こんな恰好で吹雪の中に出たら、確かに凍え死んでしまうだろう。
でも、今はそれどころではない。瀕死の女性が外にいるのだ。まだ助けられるかもしれないのだから。俺の命なんか二の次で良い。とにかく助けなければいけないんだ。
谷本はガラスを破って強行突破することにした。肩を前に突き出し、助走の距離を取る。勢いを付けて一歩目を踏み出したとき、女将が目の前に飛び出してきた。谷本は、その場に倒れそうになりながら何とか止まった。
「お客さん、困りますね。扉を壊そうとしないでください」
飲食禁止のロビーでパンを食べようとしている人を注意する程度の口調で言ってくる。
「でも、早くしないと。あの女性が……」
「だったら私が鍵を開けますから。それに、お客さんはどうせ東京の人だから雪の扱い方もよく知らないと思いますから、私が見てきますよ。あなたはその椅子に座って待っていてください」
そう言うと、女将はフロントにある椅子を指差した。谷本は、まだ諦められない気持ちがあったが、女将の指摘はもっともだったので、渋々と椅子に座った。
女将は、A-4号室に戻って着慣れた防寒具を着て戻ってくると、フロントで鍵と懐中電灯を取り、扉の前に立った。そしてふと思い出したように振り返って谷本に訊いた。
「お客さん、どの部屋だったっけ?」
「C-7です」
それだけ聞くと、女将は二つの扉を開けて吹雪の中に出て行った。女将が外に二歩も歩くと、谷本には女将の姿がまったく見えなくなった。それほどに吹雪は激しかった。
フロントの椅子の上で、谷本は頭を両手で抱えながら待っていた。断片的な過去と刹那的な思索が次々と脳内に去来する。なぜだ。あのときは、全然死にたいようには見えなかったのに。あれは死を決めていたからこその安楽の表情だったとでも言うのだろうか。そんなわけがない。彼女は、自分が死ぬなどとは思ってもいなかったはずだ。だから、窓の外を落ちていくとき、あれほどにも恐怖の表情を浮かべていたのだ。死ぬ前に最後に会った人間が俺なんかで良いはずがない。だから、死んじゃ駄目なんだ。死んじゃ駄目なんだ。死んじゃ駄目。
フロントのロビーで待っている時間は永遠にも感じられたが、実際には五分も掛かってはいなかった。懐中電灯を持った女将が驚きの表情を浮かべて戻ってきた。ゆっくりと手袋を外している女将に、谷本は居ても立っても居られずに立ち上がって訊いた。
「どうでした?」
「亡くなられていました。まだ若いのに」
谷本は膝から崩れ落ちそうになった。助からなかった。助けられなかった。無念さが大波となって襲い掛かってきた。
波に溺れそうになりながら、谷本は言葉を継いだ。
「本当ですか? もしかして、まだ怪我をしているだけで、生きているということは」
「ないです。あの状態じゃあね」
「でも、本当ですか? 断言できるんですか?」
「本当です。私だって昔は看護師の仕事をやっていましたからね。人が死んでいるかどうかぐらいは当然わかります」
谷本は再び椅子に座りこんだ。そのままクッションの中に沈んでしまいそうなほどどん底の表情をしている。谷本にはもう何を感じれば良いかがわからなかった。赤の他人が死んだことに対していちいち心を痛めるのは変なのかもしれない。しかし、死ぬ前に最後に会ったのは他ならぬ自分なのだ。そして、最後に笑顔を見せたのもきっと自分に対してなのだ。だからきっと、この悲しみにも意味がある。
女将は、フロントに備え付けられている電話で警察に電話していた。何かを言い争っているようだ。電話が終わると女将が言ってきた。
「警察はしばらく来られないようですね」
「そんな! どうして!?」
「雪のせいだと言ってますね。最近の若い人は雪に弱くなっちゃって本当に駄目だねぇ」
女将はおそらくこれまでに100回は言ったことがあるであろう定番の台詞を吐いていたが、その一方で谷本の脳は激しく動き始めていた。
警察が来たら、きっと彼女の死はありふれた自殺の一つとして片付けられてしまうだろう。でも、そんなはずはない。しかも、幸か不幸か、警察はまだしばらく来られないという。それなら、この時間を使って自分で真相を見つけ出すしかない。
谷本は女将に訊いた。
「屋上にはどうすれば行けますか?」
「J-10の部屋から行けるけど……」
その答えを聞くと、谷本は廊下に向かって駆け出した。今から三十分前、白いパジャマの女性が落下している姿は、谷本の部屋の窓から見えた。つまり、女性は部屋の真上の場所から落ちたということである。その場所に行けば、もしかしたら何かが残されているかもしれない。
彼女を救うことはできなかった。だから、せめて死の真相だけでも明らかにしなければ。心臓が破裂しそうになりながらも、その強い想いが足を動かし、谷本は長い湾曲した廊下を走り続けた。
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