第3章 白いパジャマの女

 白いパジャマの女性と視線が合ってしまった谷本は、瞬時に手前のテーブルに視線を落とした。


 誤魔化せたのだろうか。女性はキッチンの方に振り返って電気ポッドを手に取ると水道水を入れ始めた。谷本はほっと一息吐いてテーブルの上に置かれている紙のカバー付きの本を手に取った。それは、谷本がこの出張に来る直前に駅ビルの書店で買った写真集だった。


 新幹線の出発時間が迫っていたが、最近推している岩田光希の写真集が発売されたとXで告知されているのを見て、空き時間に急いで買ってきたのだった。あまりにも時間がなかったため表紙すらじっくり見られていないが、きっと可愛く撮られた写真がたくさん載っているはずだ。


 谷本は写真集のカバーを外そうとしたが、寸前にその手を止めた。今、数メートル前には白いパジャマの女性がいる。女性の前でアイドルの写真集を開いたりなどしていたら、もしかしてダサいと思われてしまうだろうか。最悪の場合、気持ち悪がられて立ち去られてしまうかもしれない。そんなことになったら、お互いに良くない印象だけが残ってしまう。写真集のカバーは外さず、後でじっくり読んだ方が良いかもしれない。


 いや、そうではない。谷本は考え直した。カバーの掛かっている写真集を持っている方がむしろ気持ち悪がられるかもしれない。他人には見せられないような露出度の高いグラビアアイドルの写真集を買っているのだろうと勝手な推測をされてしまうかもしれないのだから。


 それなら、写真集を隠してしまうべきだろうか。背中とソファの間に隠せなくもない。いや、今さら手遅れか。白いパジャマの女性は、すでに机の上にカバー付きの写真集があるのを見てしまったはずだ。これを隠してしまったら、余計に変な推測をさせてしまう。


 谷本は決断した。こうなったら、もう最初にやろうとしていた通り、カバーを外して読むしかない。岩田光希ちゃんは、清楚系のアイドルだ。第一、女性だって可愛い女の子が嫌いなはずはない。だから良いんだ。堂々とカバーを取るべきなんだ。


 谷本は思い切って写真集のカバーを取り外した。その下から現れたのは岩田光希の可愛い顔……ではなかった。


 そこにいたのは、トラ柄の猫だった。物欲しげな顔でこちらを見つめてくる。どうして?


 表紙には「岩合光昭 み~んな元気ネコ」の文字があった。岩田光希の顔も文字も全くない。いわあいこうしょうって誰だ? 新しく出てきた猫好きのグラビアアイドルか?


 谷本は、写真集をパラパラとめくってみたが、どのページにも猫の写真しかない。可愛らしいといえば可愛らしい。猫なのだから。でも、岩田光希じゃない。


 さらに悪いことに、たくさん猫が写っているせいで、どれが岩合光昭という名前の猫なのかもわからない。


 谷本は思わず頭を抱えて仰け反った。騙された。ちゃんと書店で確認しておくのだった。時間がないのに買うからこんなことになる。俺は一日中、猫の写真集をリュックに忍ばせていたのか。荷物の無駄が過ぎる!


「こちら、よろしいですか?」


 急に声を掛けられた谷本は驚いて姿勢を正した。正面に向き直ると、先ほどの女性が目の前でこちらの顔を伺っていた。谷本はしどろもどろに両手を差し出し、どうぞどうぞとテーブルの斜め向かいにある椅子をジェスチャーで示した。


 白いパジャマの女性は、札幌味噌ラーメンのカップヌードルを持ってきていた。夜食にカップヌードルを食べるような人だと知ったことで、谷本はその女性への好感度がさらに上がった。


 谷本が若干気まずくなってあちらこちらの壁を意味もなく眺めていると、パジャマの女性は一口目の麺をのみ込んでから言った。


「岩合光昭のファンなんですか?」


 いわごうみつあき? 女性は谷本の手前にある写真集に目を向けていた。あぁ、この名前はと読むのか。


「えぇ、そんなところです」


 谷本は、岩合光昭のことなど数分前まで全く知らなかったが、とにかく前にいる女性と話を続けたくて適当に答えた。


「良いですよね。私、世界ネコ歩きはいつも録画して観るくらい好きなんです」


「わかります。丸い顔が可愛らしいですよねぇ。何時間でも見てしまいます。岩合光昭ちゃんに一度は会って、撫でたり抱っことかしてみたいですよねぇ」


 谷本がそう言うと、女性はふと怪訝な顔をした。何か変なことを言ってしまったのだろうか。よくわからないが、たぶん不適切なことを言ってしまったのだろう。今のご時世、言葉には気をつけなければいけない。谷本はひとまず謝っておくことにした。


「すみません、失礼なことを言ってしまって」


 パジャマの女性は首を振りながら慎重に言った。


「失礼なことは別におっしゃられていませんけど、もしかして、岩合光昭さんを猫だと思ってます?」


 谷本は目を丸くした。


「違うんですか?」


 パジャマの女性は豪快に笑い出した。谷本は未だに笑われる理由がわかっていなかったが、笑ってくれたなら良かったと思い、愛想笑いをしていた。


「すみません、笑ったりなんかしちゃって。岩合光昭さんは写真家の方です。猫の写真をよく撮られているんです」


 そういうことか。谷本はようやく合点がいった。岩合光昭が写っている写真集ではなく、岩合光昭が撮った写真集だったのか。最初は岩田光希の写真集だと勘違いし、今度は岩合光昭を猫だと勘違いしていた。勘違い続きではないか。


 それから、パジャマの女性は岩合光昭が撮る猫の写真の良さについてカップ麺を食べながら語り始めた。谷本にとってはあまり興味のある話ではなかったが、彼女の声をずっと聞いていたくて適当に相槌を打ちながら熱心に聞いていた。


 カップ麺を食べ終え、猫の写真の話も終わると、白いパジャマの女性は席から立ち上がろうとした。谷本は、ちょっと待ってください、と呼び止めて岩合光昭の写真集をテーブルから持ち上げた。


「これ、あげます」


 パジャマの女性は驚いた顔をした。


「良いんですか?」


「この本はあなたみたいな人が持っていた方が良い。岩合光昭が誰かも知らなかった私が持っていても仕方ありません」


 谷本は写真集を女性に手渡した。パジャマの女性はぎこちないながらも両手を差し出し、笑顔で写真集を受け取った。


「本当にありがとうございます。帰りの新幹線で早速読んでみます」


 満面の笑みを浮かべて、女性は立ち去って行った。部屋の時計は11時30分を指していた。谷本の胸は温かい感情で満たされた。こんな気持ちは数年振りだった。


 そらからしばらく谷本はスマートフォンでSNSをチェックしてから自分の部屋に戻ることにした。猛烈な吹雪は今夜限りで、明日の朝には止むらしい。日中は快晴になる予報が出ている。帰りは来たときほどの苦労をする必要はなさそうだった。


 谷本が部屋に戻ってスマホの時計を見ると時刻は11時50分だった。谷本は真っ暗な窓を見つめながら、先ほどの女性の顔を思い浮かべていた。あの屈託のない笑顔を忘れたくなかった。


 その瞬間、外が白い光に包まれ、恐怖に歪んだ女性の顔が浮かび上がった。目玉が飛び出そうなくらい大きく目を見開いている。先ほどの笑顔とは真逆の表情だった。


 逆さまの姿勢で宙に浮かび、長い髪は下に垂れている。空気中で両手をもがき動かすことでその場に留まろうとしているが、必死の努力も虚しく、地上に向けて落下していた。服は先ほどと同じく白いパジャマを着ているが、逆さまになっているせいで腹のあたりがめくれ返っていた。


 谷本が声を上げる間もなく窓の外は一瞬で暗闇に戻った。数秒後、巨大な雷鳴がホテル百角館を揺るがした。

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