第2章 湾曲した廊下


 谷本はC-7号室に入った。そこは細長い台形の空間だった。入り口のすぐ横にユニットバスがあることを差し引いて考えても扉付近より奥の窓際の方が横幅が広くなっている。例えるならば、チーズケーキの尖った部分をカットしたような形である。ただし、窓のある壁面は湾曲しておらず平面になっている。


 谷本は靴も脱いでどさりとベッドの上に倒れた。ここまで来るのに尋常ではない努力を要したが、何はともあれベッドのある部屋に到着した。ゆっくりお風呂に入って寝ることができるのだから、今日のところは総務部に文句を言うのは控えておこう。


 谷本は立ち上がって窓の前に向かった。吹雪は先ほどよりも強くなっている。外は真っ暗で一寸先も見えない。窓を覗いても、室内からの光が反射しているせいで自分の顔が映し出されるばかりだった。


 谷本は浴場に行くことにし、部屋に備え付けられていたタオルと浴衣を持って自分の部屋を出た。この部屋に来るときに通ってきた廊下を戻れば浴場に行けることはわかっていたが、その前に少し試しにC-8号室より先に何があるかも見てみることにした。


 Cエリアの部屋割りはBエリアと全く同じだった。C-1からC-4およびC-6からC-9が客室、C-5がトイレ、C-10がシャワー室のようだ。


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C-5: トイレ

C-10: シャワー室

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 Dエリアも同じように客室とトイレ、シャワー室があるのかと思ったが、そうではなかった。まず、D-1の場所は喫煙室だった。D-2とD-3は無印の部屋だ。D-2の部屋の扉がわずかに開いていたので、谷本は首を伸ばして覗いてみると、掃除用具が乱雑に置かれているのが見えた。棚には予備の座布団や布団も置かれている。物置だったようだ。


 D-4には扉がなく、洗濯機が何台か置かれている。D-5はトイレで、D-6とD-7はぶち抜きで廊下に沿ったラウンジになっている。Aエリアの浴場と同じ構造だ。自動販売機も置かれている。D-8とD-9の場所はキッチンで、D-10はリネン室だった。ラウンジとキッチンの間の壁は一部が取り払われており、自由に行き来できるようになっている。


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D-1: 喫煙室

D-2~3: 無印

D-4: 洗濯室

D-5: トイレ

D-6~7: ラウンジ

D-8~9: キッチン

D-10: リネン室

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 EエリアはまたBエリアやCエリアと同様に客室が並んでいたので、谷本はそれ以上奥に進むのは止めて、回れ右をして来た道を戻り始めた。約40個の部屋の前を通って浴場に付いたときには、ずっと湾曲した廊下を歩いてきたせいか、軽く眩暈を起こしていた。


 青い暖簾をくぐって脱衣所に入ると、ちょうど一人の男が風呂から出てくるところだった。年は三十くらいか。端正な顔と髪型。筋肉質で、身長は高い。アソコの大きさも申し分ない。


 谷本が着替え始めると、男の背中に偶然あるものを見つけた。竜だ。竜がいる。腰椎か頸椎まで、這い昇るように勇猛な竜のタトゥーが入っている。服を着ていたら気づかないが、一度その背中を見たら忘れることはできないであろう、見る者を威嚇するタトゥーだった。ホテルの浴場だから良いが、これでは絶対に銭湯には入れない。


 谷本は、男の背中を見て見ぬふりをして素早く脱衣を済ませた。浴場内には谷本の他には誰もおらず、湯船を独り占めすることができた。これなら少しは来た甲斐があったというものである。風呂はそれほど広くはなかったが、一人で入るには十分すぎるほどの面積だった。


 谷本は湯に浸かりながら、自分が今いるホテルのことをぼんやりと考え始めた。


 つくづく変なホテル構造のホテルだと思う。ぐるぐると廊下を歩き回った末にやっとC-7号室に辿り着くことができた。Dエリアまでは見たが、その先はどうなっているのだろう。もしかして「百角館」の名前の通り、本当に百角形の館なのだろうか。


 そう考えてみると納得が行く。普通の四角形の建物であれば、壁と壁が作る角度は90度であるはずだが、ここでは「く」の字型で、むしろ180度に近い。多角形ならではの特徴だ。おそらく空から見たら中庭のある百角形の建物になっているのだろう。さながら巨大な百角のナットのようだ。


 北海道の土地柄を考えると、そんな建物があっても良さそうな気がする。広大な大地の上に置かれた百角形の館。絵になるではないか。そもそも北海道の函館には有名な五角形の敷地がある。正確には五芒星だが、いずれにしても巨大な多角形の観光地である。だったら、百角形の建物があってもおかしくないかもしれない。


 部屋は10個ごとにアルファベットでグループ分けされていた。すると、一番奥の部屋はJ-10号室になるのだろう。Jエリアの部屋を割り当てられた人はフロントまで行き来するだけで一苦労だ。


 あるいは自分が反時計回りで回っているからそう思っているだけなのかもしれない。フロントから時計回りに進む廊下があったら、すぐにJエリアに辿り着ける。どうやらその廊下を見落としてしまったらしい。女将さんにビビっていたせいだろうか。


 これで、フロント横の最初の部屋がA-3から始まっていたのは、フロント自体がA-1とA-2だからなのだろう。同様にして、部屋番号を付ける必要がない浴場やラウンジにも記号が割り当てられている。つまり、A-3やC-7は厳密には部屋番号ではなく、百角形の辺を基準にしたナンバリングだと言える。


 そんな考え事をしていたら、いつの間にか時間が経っていたようで、谷本はすっかりのぼせそうになっていた。湯から上がると、浴衣に着替えて自分の部屋へ戻っていった。


 部屋に一旦着替えを置くと、財布と紙のカバーの付いた本を持ってすぐに部屋を出た。Dエリアのラウンジに向かうと、自動販売機で復刻堂のフルーツオレを買い、灰色のソファに腰を下ろした。両腕をソファの背に乗せて、胸を大きく広げた。今日会った取引先の部長のポーズだ。この恰好をするだけで、人は偉くなった気分になれる。


 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。谷本は急いで腕を下ろす。足音は、ラウンジの手前で一時止まり、それから谷本の座っているソファからは正面の方向にあるキッチンの中へ移動してきた。


 備え付けの白いパジャマを着た女性の姿が谷本の目に入ってきた。柔らかなパジャマの生地が女性の動きにつれてゆらゆらと揺れる。谷本は視線を上げた。シャワーを浴びたばかりなのか、肩まである黒髪はまだしっとりと湿っている。


 あまり長い時間見つめているべきではないのはわかっていた。しかし、谷本はそんな気遣いができるほど頭が回らず、いつまでも目を離すことができなかった。すると、その白いパジャマの女性が顔を向いてきたので目が合ってしまった。

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