百角館の殺人

小野ニシン

第1章 ホテル百角館

 猛吹雪のせいで、スマートフォンのライトを点けていても一メートル先すら見えない夜のことだった。谷本やもと文雄ふみおは、Googleマップをちらちら見て自分の現在地を確認しながら、目的地のホテルへ向けて体を震わせながら歩いていた。


 その日の営業の仕事を終えた谷本は、都会から来た人間らしく黒いロングコートを掻き寄せることで寒さに耐えようとしていたが、北海道の吹雪の中ではほとんど意味がない行為だった。吹雪は容赦なく体温を奪っていた。


 谷本は、残り僅かな体内のエネルギーを脳に回し、後で総務部にどんな苦情を送ろうかと考えていた。


総務部 ご担当者様


お世話になっております。営業部の谷本です。

今回の宿泊先は大変交通の便が悪く、業務に支障をきたしております。小生の勝手な想像ですが、もしかして系列ホテルのポイントが貯まるという理由で宿を選んだのではないでしょうか。いい加減にしてください。次回からはぜひともアパホテルを予約していただきたいです。東横インでも構いません。何卒ご配慮のほどお願い申し上げます。


営業部 谷本


 零下の吹雪に晒され続けて耳が凍ってしまうそうになった頃、谷本はようやくホテルの玄関の前に着いた。横書きで「ホテル百角館」と記された看板がライトでぼんやりと照らし出されている。


 谷本は、倒れ込むようにして玄関のガラス扉を開いた。そこからさらにもう一つの扉を開くと、ホテルのロビーになっていた。北海道には扉を二回開けないと入れない建物が少なくない。谷本はその日の出張ですでに二重玄関の事情については知っていた。


 正面にあるフロントデスクでは、七十代ほどの女将が椅子に座って慣れない手つきでデスクトップPCのキーボードを打っていた。背景の壁は白色で、西洋風にレタリングされた「ホテル百角館」のロゴが書かれている。


 フロントは中央で「く」の字型に折れ曲がっている。向かって左側が玄関とフロントデスクがある空間で、やや奥まっている右側はロビーになっていた。ゲスト用に椅子やテーブルが何脚か置かれている。玄関ドア側の壁は全面ガラス張りになっているが、夜の雪の中では何も見えるわけもなく、今はただ室内の様子を映し出すだけの鏡の役割を果たしていた。


 フロントの内装は現代的なホテルらしく洋風に揃えられているのだから、本来ならばフロントデスクの奥にいる人物もホテリエなどと呼ぶのが正しいのかもしれない。しかし、ここにいるのはいかにも旅館の方が似合いそうな半纏はんてんを着たおばあちゃんだった。女将と呼ばずにはいられない。


 谷本が予約していた旨を伝えると、女将は無言で宿泊台帳を取り出した。名前、住所、職業の記入を終えると、女将は谷本に小さなプレートが付いた鍵を渡した。プレートには「C-7」と書かれていた。


 Cとは一体何のことだろう。普通だったら307などと刻印されているものではないだろうか。疑問に感じた谷本は女将に訊いた。


「Cというのは、3階のことですか?」


「違う」


 女将は面倒くさそうに答えた。それなら1階か、あるいはC棟の7階にでもある部屋なのだろう。そう考えてから、谷本も端的に質問した。


「どこからC-7に行けますか?」


 女将は黙って左腕を伸ばしてまっすぐ人差し指を差した。


 指の先に顔を向けてみると、ロビーの右奥の壁に通路の入り口があった。玄関からすると対角線の位置にあたる一番遠い場所である。谷本のいる場所からは、通路の中に扉が並んでいることが覗えた。格式高さを演出しようとしているのか床には赤い絨毯が敷かれているが、壁はショッピングモールのような何の変哲もない真っ白なので統一感がない。


 女将の指に従うなら、この廊下を進め行けば良さそうだ。そもそも他に通路もなさそうなので、迷うべくもない。


 女将は、すでに手元の台帳とPCのモニターの間で視線を行き来させながら、ゆっくりデータを打ち込み始めていた。谷本は荷物を持って廊下の中に進んでいくことにした。


 白い壁に覆われた廊下は、左に向かってゆるく湾曲していた。谷本が進んでいくと、左側はただのっぺらぼうの壁が続いているばかりであることがわかった。右側の壁は一定の間隔でフロントと同じように「く」の字型に折れ曲がっており、基本的には一つの辺に一つずつ、アルファベットと数字が書かれた扉があった。


 最初の扉にはA-3と書かれていた。その次の扉はA-4だった。さらに次の扉にはA-5と書かれているが、その下にトイレを意味するピクトグラムが記されていた。


 そうなると、次はA-6ということになりそうだが、その場所には扉はなく、代わりに青地に白字で「ゆ」と書かれた布が掛かっていた。男性用の浴場だ。さらに進むと、A-7がありそうな場所は何もない壁で、A-8があるべき場所には今度は赤い布が掛かっているのを見つけた。A-9の場所にも何はなく、久しぶりに現れたA-10の扉には「リネン室」と記されていた。


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A-5: トイレ

A-6~7: 男性用浴場

A-8~9: 女性用浴場

A-10: リネン室

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 その次の扉はB-1である。B-1以外の表示がないことから、普通の客室ではないかと思われた。さらに通路を進んでいくと、B-2、B-3、B-4も同様に扉にはExcelのセル番号のようなアルファベットと数字だけが表示されている。B-5はトイレ、B-6からB-9も記号のみ、B-10はシャワー室と記されていた。


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B-5: トイレ

B-10: シャワー室

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 今度の扉にはC-1と書かれていた。CのエリアもBのエリアと同じで、C-2からC-4が客室、C-5がトイレ、C-6から客室になっているようだった。


 廊下はその間もずっと左に向かって緩く曲がり続けている。空から見れば反時計回りに谷本は歩き続けていた。


 ようやく自分の部屋として割り当てられているC-7号室まで辿り着いた。後ろを振り返ってみても、廊下が湾曲しているせいで、フロントまで見通すことはできない。


 谷本は、自分の息が思ったよりも上がっていることに気が付いた。厚着をしたままだからかもしれない。北海道の冬は寒いが、室内はやたらと暖かい。厚手のコートを着込んだまま歩き回っていたら、息が上がって当然だろう。そう考えて、自分の年齢のことは棚に上げておくことにした。


 谷本は手の中にあった鍵を取り出し、目の前の扉の鍵穴に差し込んでから捻った。カチリと音がする。鍵を左手に移すと、右手で丸いノブを握り、回しながら扉を押した。扉は部屋の内側に向かって開いた。

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