第8章 瓦解するビジョン

 谷本は立ち上がって背後にある窓を覗き込んだ。外は真っ暗で一メートル先も見えない。どこかにあるのであろう民家の明かりも見えず、今いる場所がどれほどの高さなのか見当もつかない。


 谷本は振り返り、素っ頓狂な表情を隠すことができずに一言だけ言った。


「冗談でしょ?」


 今、谷本たちがいるホテル百角館は、百角形の平屋の館ではなく、らせん状の建物だという。谷本の右のソファに座っているドラゴンタトゥーの男が手振りを交えて説明した。


 ホテル百角館は、10部屋で1周するようならせん型の構造になっているという。つまり、高さとしては、Aエリアがおおよそ1階、Bエリアが2階、Cエリアが3階というように対応している。ただし、すべての部屋は一つのらせん状の廊下で繋がっており、A-10号室の隣はB-1号室となっている。谷本に割り当てられたC-7号室は、厳密には3階ではなく3.7階の高さに相当するというわけだ。


 百キロの男が、谷本のポカンとした表情を見て、ヒャッヒャッヒャと笑っていた。それが本当の笑い声なのか、百角形にかけた駄洒落なのかはよくわからない。もしも後者だったら覚悟しとけよ、と谷本は心の中で思い、百キロの男を睨みつけていた。


 一方、ドラゴンタトゥーの男には谷本のことを馬鹿にする気配はない。むしろ、軽く共感すらしているように頷いていた。谷本は先ほどまで殺人犯扱いしていたことをすっかり忘れて、右側のソファに座っている男に同意を求めた。


 タトゥーの男は言った。


「そう思ってしまうのもわからなくはないですよ。たぶん、かなり遅い時間にチェックインされたんですよね?」


「えぇ、10時は過ぎていたと思います」


 谷本は答えた。


「じゃあ吹雪も酷くて、しかも夜だから、建物の全体像なんかも見えなかったわけですね。平屋だと勘違いしてしまっても仕方ないかもしれません」


「そうそう! そうなんですよ!」


 谷本は水を得た魚のように激しく同意した。自分が間抜けだったのではなく、事情があって間違いを犯してしまったのだと説明されて喜んでいるのだった。そこに、百キロが水を差すようにヘラヘラ笑いながら言った。


「でも、これだけホテルの中を歩き回っていて廊下がらせん状であることに気づかないのはちょっとヤバくないですか」


 お前を次の犠牲者にしてやろうか、と谷本は百キロの男に向かって立ち上がりかけた。その様子に気づいてか気づかずか、ドラゴンタトゥーの男がすかさず真面目な声で自分の考えを述べる。


「いやいや、そんなこともないですよ。通路が周回するような構造になっている施設はよくありますよね。商業施設とか博物館とか何でも良いんですけど。タワーの展望台を想像してもらうとわかりやすいかもしれません。


 ああいったところをぐるりと歩いていると、一周したのに気づかずにもう一周しそうになってしまうことがたまにあると思います。展望台だと、どこを見ても景色がそんなに変わらなかったりするからなおさら。そのくらい、人間は歩いているだけでは何周しているものなのかわからないものなんです。


 この方は、フロントから自分のC-7号室に行くまでに実際には2周半ほどしているはずですが、本人としては巨大な円の一部を歩いているつもりだったから違いに気づかなかったんです」


 谷本はうんうんと深く頷いていた。百キロの男はそれでも納得していない。


「廊下はカーブしているだけじゃなくて、坂道にもなっていますけど」


「それはそうですけど、大した傾斜ではありませんから。例えば、1周の長さが30メートルでその間に3メートル上昇するとすれば、1メートルあたり10センチメートル上がる傾斜になります。この程度なら、傾斜を感じない人も少なくありません。特に、この方の場合はホテルが平屋だと思い込んでいたのですから、坂道であると感じることはまずなかったでしょう」


 谷本は廊下を走り回っていたときのことを思い返していた。自分ではてっきり平坦な廊下を歩いていると思っていたが、実際には緩やかな坂道だったのだという。そういえば、一度眩暈を起こしてしまったが、あれは自分が思い込んでいた状況とそれとは無関係の平衡感覚の間で矛盾が生じてしまったがゆえの現象だったのか。


 谷本は両手をパチンと叩き合わせて二人の注意を引いた。


「それでは、状況も把握できたところで話を元に戻して、改めて事件の検討に戻りましょう」


「あんたのせいで話が脱線してたんだよ」


 百キロによる辛辣なツッコミを谷本は完全に無視して話し始めた。


「C-7号室の上にあるのが、屋上だけでなくD-7からJ-7まで、それぞれのエリアの7号室であることはわかりました。これらの部屋の窓は嵌め殺しですが、窓ガラスを破って墜落することは可能です。先ほどの議論では、窓を破って屋上に登る案を検討していたために非現実的な案で終わってしまいましたが、窓を破って落下するだけであれば重労働ではありません。


 各エリアの7号室のうち、D-7とG-7はそれぞれ隣の6号室と合体してラウンジの一部になっているので、除外することができます。G-7の窓ガラスが破られていないことはここからでも目視で確認することができますし、D-7の窓ガラスが割れていたとしたら、雪が吹き込んできているので、横の廊下を通ったときに私が気づかないはずがありません」


「本当かなぁ?」


 百キロが余計な茶々を入れる。ドラゴンタトゥーの男が、まぁまぁ、と百キロをなだめるように呟いている。谷本は百キロを一睨みしてから黙殺して続ける。


「よって、窓ガラスが割れている可能性があるのは、E-7、F-7、H-7、I-7、J-7号室の5つまで絞られます。そして、Gエリアのラウンジにいたあなたの証言によって、被害者の女性がGエリアよりも上には行っていないことがわかっているので、H-7、I-7、J-7号室は除外されます。残るは2つ。E-7号室とF-7号室だけです」


「そんなこともないと思いますけどねぇ」


 百キロがまた嫌ったらしい口調でツッコむ。谷本は良い加減、我慢の限界になりそうだったが、今度はドラゴンタトゥーの男の態度が違った。彼は、双方をなだめようとするのではなく、百キロの言葉に頷いていた。谷本は当惑して右側に座っている男を見る。


 ドラゴンタトゥーの男は言った。


「たぶん谷本さんはまだこのホテルの構造がよく飲み込めてないんだと思います。一回、実際に見てみた方が良いでしょうね。私も女将さんの話を聞いてみたいですし、一度フロントに行ってみましょうか」


 谷本は言われていることがいまいち理解できなかったが、とりあえずフロントに行くことには同意し、三人で降りていくことになった。


 G-7に相当する場所にあるラウンジから出て、三人は時計回りに廊下を歩いた。谷本がG-3の前を通り過ぎようとしたとき、ドラゴンタトゥーの男は谷本に呼びかけた。


「谷本さん、そっちじゃないです」


「本当に毎回廊下をぐるぐる歩き回っていたんですねぇ。ご苦労様です」


 百キロがにやにやしながら言った。ドラゴンタトゥーの男は、G-3の扉に近づくと、ノブに手を掛けた。そこは客室ではないのか? 谷本はタトゥーの男の奇妙な行動を見ながら思った。


 谷本の予想に反して、扉のノブは何の抵抗もなく回った。ドラゴンタトゥーの男は、扉を押し開いた。


 そこは、LED電球が一つだけ天井に設置された狭い空間だった。正面には、ピタリと閉じられた金属の扉がある。扉の右側には上向き矢印と下向き矢印のボタンがある。上にはAからJまでのアルファベットが書かれており、今はHの文字が黄色く光っている。


 そこにあったのは、谷本もこれまでの人生で何百回と乗ったことのある、エレベーターだった。

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