第10章 夜明けの訪れ

 谷本の動揺している様子に気づいて、ドラゴンタトゥーの男と百キロの男も窓際に近寄ってきた。死体が二つあることに気づくと、百キロは言った。


「あれ? 死んだのは一人じゃなかったんですか?」


「一人だよ。一人のはず。俺が落ちるのを見たのは一人だし、女将さんも一人分の遺体しかみていない。現に今さっきも驚いて大声を上げていたくらいだから」


 谷本は右手を額に当てながら言った。また何か勘違いをしてしまったのだろうか。ここに来て追い打ちを掛けるように奇妙な現象が発生してしまった。


 遺体の男性が女性を殺害したのは、間違いがないと判断して良さそうだった。部屋の様子を見れば明らかである。部屋の扉には鍵が掛けられており、鍵は室内に置かれていた。オートロックではないので、鍵を持っていない外部の人間には施錠することができない。


 二つの遺体のうち、女性の方は白いパジャマを着ている。これは谷本が昨夜ラウンジで見た通りであり、その直後に死んだことを示唆している。谷本が墜落の瞬間を目撃したのがラウンジでの邂逅から20分後であり、そのときも同じパジャマを着ていたことから、特に不思議な点はなかった。


 一方、男性の遺体はしっかり防寒着を着こんでいる。これは少し奇妙だ。おそらくカップルと思われる二人がホテルの同じ部屋にいたというのに、一人はパジャマで一人はダウンジャケットを着ている。口論が起きていたとしても、服装には関係がない。男もパジャマかそれに類する室内着を着ていなければ変だ。


 そして、最も奇妙なのは、なぜ犯人と思われる男性も落下して死んでいるのかという点だった。彼女を死なせてしまったことに耐えられずに自殺してしまったのだろうか。


「あなたと同じですね」


 ドラゴンタトゥーの男が下を見ながら言った。


「え?」


 谷本は振り返った。すると、何でもないことであるかのように、ドラゴンタトゥーの男は真相を語り始めた。


「あの男の人は厚着をして、今すぐにでも外出するような格好をしていますよね。でも、E-7号室の高さは5.7階相当。壁を伝って降りることもできませんし、この部屋から外出することは不可能です。


 でも、男性が自分がいる部屋を1階だと勘違いしていたなら納得できます。1階からなら窓から直接出て外に出ることができますからね。


 おそらく、あの人は勢いで女性を殺してしまったから慌ててどこかに逃げようとしたのでしょう。それで、急いでダウンジャケットを着込み、いざ窓から出ようと足を踏み出したんです。ただし、ガラスが割れたときのままだと尖っていて危険なので、窓枠に残ったガラス片を取り除いて。ところが、足を踏み出した先にあるはずの地面はなく、実際には奈落の底でした。男はバランスを崩して落っこちて、あっけなく死亡してしまった。


 女将さんが被害者の女性の遺体を確認したのは、女性が墜落死してから男性が逃亡しようとするまでの間だった。だから、遺体が一つしかなかったのでしょう」


 白いパジャマの女性を殺した男性は、谷本と同じ勘違いをしていたために死んでしまったということか。そう考えると、谷本の背筋に冷たいものが走った。


 後日、警察の捜査によって、E-7号室に滞在していた女性と男性が交際関係にあり、男性が不倫を隠していたことが明らかになった。事件当夜に二人は論争になり、男性が女性の体を押し倒し、その衝撃で女性は窓を突き破って落下してしまったのだと推測された。現場の証拠は、すべて警察の所見を裏づけていた。


 警察がホテル百角館に到着してから数時間後、三人はDエリアのラウンジに集まっていた。谷本が初めて白いパジャマの女性と出会い、最後に生きている姿を見た場所だ。事件のあったときにホテルにいた人物は、全員が関係者として一時的にラウンジに集められており、順番に事情聴取を受けていた。


 窓から冬の太陽の光が差し込む中、すでに聴取を終えた三人はリラックスした雰囲気で雑談をしていた。とは言っても、話しているのは主に谷本とドラゴンタトゥーの男で、百キロの男は徹夜の影響なのか黙ったままソファの背に寄りかかり、目を閉じていた。確実に寝ている。


 谷本は言った。


「それにしても冴えていましたね。第一印象とは全然違いましたよ」


「それは、あなたが勝手に私を殺人犯だと思って部屋に突撃してきたからでしょう」


 ドラゴンタトゥーの男は軽く笑いながら答える。


「それもありますけど、初めて会ったのはそれよりも前なんです。大浴場でお見かけしていたんですね。そのときは、なんだか怖い人だなと実は思っていて、だからあなたを殺人犯と疑うなんてことまでしてしまったわけです。そのことに関しては本当にお詫び申し上げます」


「いやいや、被害者のことを思ってしたことなのですから、水に流しましょう。それよりも私を浴場で見かけたときに怖いと感じたとおっしゃりましたが、それは一体なぜなのでしょう?」


 ドラゴンタトゥーの男は、急に姿勢を正して真顔で谷本に訊いてきた。身長が高く、がたいが良いので、背を伸ばすだけで体が1.5倍は大きくなったように感じる。谷本は威圧されているように感じた。


「あ~、まぁ、そうですね。なんとなく、ですかね」


 谷本はビビって適当な受け答えしかできなかった。怖く感じた理由は背中のタトゥーが理由なのだが、このことについて直接訊くのは、目の前にいる男の過去を想像すると大いに躊躇われた。


 すると、目の前の男は豪快に笑い出した。


「背中のタトゥーが原因ですよね。よくヤの付く職業をしていたんじゃないかとか思われることはあります」


「違うんですか?」


 谷本は咄嗟に上擦った声で聞いた。


「全然違います。安心してください。普通のSEをやってます」


「では、そのタトゥーはなぜ……?」


「ファッションです」


 ドラゴンタトゥーの男、もといSEの男、あるいはヤの付く職業によく間違えられる男は、あっさりと理由を明かした。そういう時代なのか。タトゥーだけで人を判断するような時代ではないのだ。人は見かけではわからない。谷本はしみじみと思った。


 谷本は話題を変えた。


「そういえばずっと考えていたんですけど、この建物が百角形でないのなら、なんでこのホテルは『ホテル百角館』なんて名前なのでしょうか?」


 SEの男も首を捻った。谷本は、近くのキッチンにいた女将に呼びかけた。


「女将さん、このホテルはなぜ百角館ひゃっかくかんなんて名前になっているんですか?」


 女将はぽかんとした表情をした。それからよくわからないというように答えた。


「ホテルの名前の由来ですか? それなら百田ももたさんと角田つのださんが共同出資して建てたホテルだからですよ。だから、百角館ももつのかんと呼ばれているんです」



 事情聴取から解放され、谷本はようやくホテルの外に出ることができた。すでに正午を過ぎている。足元には雪が積もっていたが、空はすっきりと晴れ上がっている。昨夜遅くにやってきたときとは大違いだ。


 谷本は玄関から三十歩ゆっくりと歩いてから立ち止まった。この瞬間を数時間待ち続けていた。ホテルが平屋ではないことはさすがに理解できたが、まだ外から全体を眺めてみたことはない。一体どんな姿をしているのだろうか。


 谷本は回れ右をしてホテルの方を向いた。それは明らかに平屋ではなく、十階建てと呼ぶに相応しい高さの建物だった。底面は四角形でもなく百角形でもなく、十角形をしている。窓はそれぞれバラバラの高さに付いているが、内部の構造と同じように仮想のらせんを描けばすべてを綺麗に繋ぐことができる。


 十角柱に巻き付くようならせんを追っていくとやがては空に辿り着く。それは若緑色の鱗に覆われた勇壮な竜が昇って行く姿を連想させた。



   完

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