第7話 風花丘に響く鐘
マムートの毛むくじゃらな太い足が丘の頂上を降りて行く。後ろから牽引される荷車に並んで腰かけた俺とネージェは、朝焼けが残る丘の向こうから吹く風を肌で感じた。ほんのり海の匂いがする。
「この辺りは南端の海から年中一定量の南風が吹く。すぐ近くを流れる運河の水害を防ぐのにも、風車はうってつけだ。ほら、見えてきたぞ」
昨夜、カーラ座長直々に叩きのめされたネージェが得意気に語る。俺的にはマムートのケツに逆さ吊りの刑でよかったんだけど、「一応客人だから」ってことで今回だけ見逃してくれた。カーラ座長って本当に慈母だよな。なんて優しいんだ。
荷車が丘を登りきり、雲間から朝の太陽がうっすらと顔を出す。細い指先が差す先には、川沿いに等間隔で並ぶ巨大な風車群と、季節の花に覆われた美しい丘陵の光景が広がっていた。
「わぁ……!」
「
十字の骨組みに帆を張った車翼が風を受け雄大に回る様子は、文句なしに心が躍る。旭光を浴びて蕾が開いた花々も、水面を風に撫でられてキラキラと反射する運河も、本当に綺麗だ。ここまでの困難な道のりを思い返すと、感動もより大きい。
「丘の上にある円形の城壁に囲まれているのがウェントゥスだ。かつては公領で城主が住まう立派な城もあったが、魔王が出現してからは南部防衛の要塞としての役割が主になった」
「魔王?」
気になるワードが出たので、思わず聞き返してしまった。だって物語でしか聞いたことのないような、あまりに漠然とした言葉だったから。
「セプテントリオではそう呼ばれる邪悪な存在が歴史上にたびたび出現し、数百年単位で復活を繰り返している」
「えっ、じゃあ今も!?」
「いや……百年前、魔王は勇者によって厳重に封印された。今までと違って、復活も容易ではあるまい」
「そうなんだ、よかった」
「だが、最近じゃあきな臭い噂もある」
「マルティスさん」
俺たちの背後に音もなく立った副座長は赤毛を風に
「噂って何ですか?」
「勇者パーティーの一人だった魔法使いが魔王復活を
「え、せっかく自分たちが封印したのに、なんで?」
「さぁな。魔が差したのか気でも狂ったのか、その辺は本人にしかわからん。だがその魔法使いは姿をくらましちまった。だからああやって検問を敷いて、王国中を探してるんだとよ。……って、何でこんなことも知らないんだ? ここしばらくこの話題で持ち切りだったってのに」
「こやつは王都の最新情報が半年遅れで届く超ド田舎出身なのだ。察してやれ」
「なるほど! 田舎の平凡男子が都会のご令嬢と身分違いの恋……良い、良いな! ますます応援したくなってきた!」
ネージェの助言を受けて、妄想はどんどん幅を広げていく。もうどんな設定になってるのか把握しきれてないんだけど。
上機嫌なマルティスさんはネージェの隣に腰かけ、薄い肩にどかっと腕を回す。無遠慮な仕草に、色も厚みも薄い唇がへの字に曲がった。
「だがよ、魔法使いは頭の上を光らせて生まれきたその瞬間から
城門を挟む壁に掛けられた緋色の大きな垂れ幕が風に
「しかもあの青い旗印はヴァレンティア部隊だな。王立騎士団の中でも精鋭中の精鋭だ。こりゃあ街へ入る前に下着まで剥かれちまうかもなぁ、ネージェ」
「ほう。ずいぶん詳しいではないか、副座長殿?」
「だって俺、元騎士だし」
「そうなんですか!?」
「十年以上前の話だけどな~」
だから役者なのに剣の心得があったり、俺の立ち姿から力量を見極められたりできたのか。どんないきさつをたどれば騎士が旅一座の舞台役者になるんだろう。もうちょっと詳しく話を聞いてみたいけど、マルティスさんは車輪が回る荷台から軽やかに降りて歩き出した。革のベストを着た胸が大きく膨らむくらい、清廉な丘の空気を吸い込む。
「お前ら、鐘を鳴らす準備はできてるかぁあああ!!」
遠くまでよく通る呼びかけに応じて、野太い雄叫びが一座の大行列から次々と上がる。前方を突き進むマムートを見上げれば、
「さぁて、三年ぶりの凱旋だ。ハルディン・デ・カンパーナが帰って来たと、ウェントゥスの連中に報せてやらないとね。――……
華奢な金のブレスレットをたくさんつけた腕が真っ直ぐ掲げられた。合図に応じて紐を持っていた男が手元を力強く引けば、天井に吊り下げられた鐘が大きく揺れる。澄んだ鐘の音が
『鐘が鳴ったら庭へ出よう』
『時計と帽子は家に忘れて』
『夢の続きは、起きなきゃ見れない』
鐘の音が合図だったのか、息の合った歌声がそこら中から聞こえる。設計図とにらめっこしていたおじさんたちも、この時ばかりは肩を組んで陽気に歌った。後方の荷車に乗る楽団はバグパイプを奏で、打楽器を軽快に打ち鳴らす。ネージェにべったりだったという踊り子たちも、旋律に乗って妖精のように華麗なステップで風車と花の丘を駆け巡った。朝焼けを透き通す彼女たちのベールが風を捕らえて、まるで一緒に踊ってるみたいだ。気分が高揚したマムートも長い鼻をくねらせ、伸びやかに高く吼えて朝を告げる。やがて城門の向こう側からも返礼の鐘の音が響いた。
残星が消えかけた
「ネージェ、俺さ……旅に出て良かったって、初めて思えたかも」
正直に言うと、自分が誰なのかわからなくたって、別によかったんだ。だって目覚めたら人気のない洞窟にぽつんといたんだから、きっと俺は普通じゃない。心配してくれる家族が近くにいるような場所でもなかったし。もしかしたらろくでもない奴なのかもしれない。だからネージェが星詠みの旅に誘ってくれた時、本当は少し怖かった。忘れてしまいたいほど酷い記憶だったら、どうしようって。
「失くした記憶のことばかり考えてたけど、今を生きてるこの時間も、これからの俺の記憶には変わりないもんな。
風の匂いも、夢みたいな光景も、賑やかな音楽も、いつかは全て記憶に変わる。馬車道を歩いて野垂れ死にそうになったことだって。だったら楽しい記憶は多い方がいい。誰だってそうだろう?
「記憶を失う前の俺にも、今みたいに忘れたくない景色があったのかな」
自分も知らない自分へ、初めて想いを馳せる。
どうしてあんな場所にいたのか。騎士だったマルティスさんに驚かれるほどの剣の腕前で、いったい何と戦っていたのか。今も隣にいるネージェが、自分にとってどういう存在なのか。
――今は早く、流星が見たい。
「吾輩も、おぬしが流星を見上げて泣いていた本当の理由が知りたい」
てっきり全力でからい倒されると思っていたのに。一緒に黎明の夢を眺めてうっとりと目を細めたネージェは、そう囁いた。
「泣いてた? 俺が?」
「ああ。それはもうピーピーのたうち回ってな」
「うそだぁ」
「クックックッ。どのみち流星を見れば思い出せる。自分の記憶と答え合わせをして悶絶するでないぞ?」
月白の長い髪を風に踊らせ、ネージェは楽し気に微笑む。
悔しいけど、忘れたくないって思うほど綺麗だ。
百年幻夢のネビュラスカ 貴葵 音々子 @ki-ki-ki
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