第4話 鯉
これも随分と昔のことである。
ある村はずれに割合立派な寺があった。いる人間はといえば、住職たる和尚が一人に、若い生真面目な僧が何人かいるだけで、ほそぼそとつつましく暮らしていた。
ある日のことである。ゲタゲタと無遠慮な笑い声が寺中に響いた。和尚が慌てた様子で玄関に顔を出すと、中年の太った檀家が鯉の詰まった桶をもっていた。和尚はまず最初にそれを受け取った。そして二、三言なにか言って、男に負けず劣らずの大きな声でゲタゲタと笑ってみせた。
始まりは鯉であった。
肥った檀家が帰ったのを見届けると、和尚は桶を体で隠すようにして、そそくさと中に入った。なぜ和尚は罪人のようにそれを隠すのか。理由は簡単である。
口がすべっても、これから鯉を洗いにして食う、など誰にも言えるわけがない。
思えば例の厭らしい顔をした檀家と、道の端でぺちゃぺちゃと話したのが悪かった。ちょっとした法事の帰りに、やれ疲れたと石に腰かけた、そのときから過ちが始まったわけだ。
同行の弟子は荷物を持たせて適当にうっちゃってある。辺りの石を足先で蹴って遊んでいるようだ。和尚はというと、物も言わずに俯いていた。すると例の厭らしい男が、顔を赤くしておっちらおっりら歩いてくるのが見えた。弟子が和尚に小声でなにやら告げる。和尚は俯いて下を睨んでいた。
――やれやれ、あんなに酔って。俺はあれの相手をせねばならぬのか。ああ嫌だ――
和尚が心のうちでぽっちり呟いた。男は遠く機嫌の良い屈託のない笑顔で
「よう。ぼんさん。法事の帰りか?」
と叫んだ。
――ああ嫌だ。なにが「ぼんさん」だ。義理とかなんとかというのは、なんて嫌なものなのだろう。あんな男でもいざ仕事を始めたら、「親方」とか「親分」とか言われて。まったく世も末だな――
男が和尚の目の前に来ると、うすぼんやりとした酒の匂いが男の口からこぼれた。
――ああ嫌だ――
心の中で吐き捨てた。
「えぇ、今日はもう帰りで」
僧侶がにこやかに答えると、向こうは酒臭い嘆息を一つ。そして
「いいなあ。ぼんさんは。適当にお経読んだらそれで、銭もらえるもんな。あんたらは良いよ。釣鐘みたいな傘かぶって、路肩に立ってりゃ、誰かしら恵んでくれるもんな。」
和尚は笑ってすました。横では弟子が顔を赤くして俯いている。
「先に帰ってなさい」
和尚が目の前の男に向けたい感情を、弟子に向けて吐き捨てた。
「はい」
おずおずと帰っていく弟子の背中を見ながら、和尚は男の話を適当に聞いていた。適当に相槌を打つと男は延々と話した。
ここで間違いが一つ起こった。
男の口から出た「鯉の洗い」という言葉がどうにも耳に残ってしまったのである。
最初から男の話など聞いてはいなかった。ところが
「こないだ、鯉の洗いで何杯かやったが、たまらなく美味かった」
この一文が、和尚の頭の中で除夜の鐘のように延々と響き渡ったのだ。
和尚は弟子のいないことを良いことに、熱心に「鯉の洗い」について尋ねた。
もう少し若かったころは和尚も必死に仏典を紐解いていた。その頃の情熱が間違った形で蘇ったようだった。
まず鯉の場合は生きているうちに頭を叩いて失神させておく。それからざくりと刃を入れる。だとか、鯉の肉は固いから、冷たい水にくぐらせる前に、まずは湯の中を泳がせる。だとか、いろいろのこと聞いた。しまいに男の方から
「そんなに食いたいなら持っていってやろうか?」
「是非」
和尚はつい叫んだ。
遠くを歩いていた半合羽をつけていた男が振り返った。
かくて、今日、和尚が桶を受け取るに至ったのである。
和尚は水を溢さぬように細心の注意を払ってそろりそろりと進んだ。弟子に見つかるとばつが悪いので、素早く慎重に、桶を自室に運び込んだ。
そして自室で、擂り粉木のような固い木の棒を片手に、じっと桶の中の鯉と睨み合いをしていた。生臭い香りが桶からふわりと立ちこめた。
和尚にとってこの話は、弟子たちの耳に入ると非常に厄介である。ましてや殺生を禁じる僧侶が、弟子に黙って鯉の洗いに舌鼓を打とうなどとは、到底許される訳がない。弟子達に知れ渡ると、一通りではないだろう。
そんなことを考えていた。とどのつまりは臆病風に吹かれたのだ。
――なんて難儀な話なのだろう。目の前に食う物はあるのに食えないなんて。こんなことなら頭を丸めなけりゃよかった――
和尚は擂り粉木を片手に深いため息をついた。一度振り上げてみるが、ため息と共にゆっくりと下す。また振り上げてみるが、深いため息を吐いてゆっくりと下ろした。何度か繰り返していくうちに和尚は擂り粉木を放り投げた。そうして亀のようにゆっくりと首を伸ばすと、しげしげと桶の中を覗き見た。
じっと息のある鯉たちを見詰める。長いこと見つめていると、鯉の小さな表情の変化が目に着いた。よく見れば柄も顔立ちも、何もかもが一匹一匹違うように見えてくる。どうにも彼らを打ち据えてばっさりと刃をいれるのが、しのびなくなってきた。殺して食うのに気が進まぬようになった。
そこで長いこと考えた結果、鯉たちを庭の池に放り込むことにした。
もともとこの池自体、弟子たちからの評判が良くなかった。
「なぜ、見た目の美しさを求めるのですか?」
だとか
「こんなことよりもっと、やるべきことがあるのではないですか?」
そんなことを口々に言った。――あぁ、嫌だ。若いのが半端に学を持つと始末が悪い。俺の若い頃はもっと物分かりの良い、真面目なものだった――
和尚は眉間に皺を寄せながら慎重な足取りで鯉たちを池に放った。
弟子たちが鯉の存在に気付くのは早かった。
「なんですかこれは?」
「一体どういうおつもりなのです?」
弟子たちは誰も彼も順番に和尚に詰問した。一方、和尚は笑ってすました。厄介なときはいつだってこうしてきた。
鯉を池に放り込むまでは苦しい葛藤であった。しかし終わってみれば、和尚はなんだか、古い家屋を掃除した後のような、すっきりとした晴れやかな気持ちになった。
それから幾日か経ってからのことである。池に鯉が増えたこと以外は変わりなく、毎日が過ぎ去って行った。べつになんのこともない。ただの日常である。
門を叩くものがあった。
弟子が応対して、いよいよ扱いきれなくなったとみえて、和尚のいる間に通された。和尚は珍しく真面目に写経をしていた。
「ウンウンウンウン」
と怒鳴るような唸り声が聞こえてくる。和尚は振り返って目を見開いた。
――なんだこの男は――
持ち上げていた筆から墨がずずっと紙に垂れた。
男は恰幅のよい中年の男性で、やぶ睨みの目と、深くしわの刻まれた眉間を持っていた。
「あの、どなたさまでしょうな?」
和尚が努めてにこやかに訪ねた。男は左右を見て囁き声で
「俺は間違いなくコイだ」
と宣言して鼻息を荒くした。
――ああこの人は変な人なんだ。気がふれている人なんだ。しかしあいつ、なんだって俺のところまで通したのだ。適当に追い返してくれれば良いものを――
それから住職は相手の気を逆立てないように丁寧に、なるべく端からは思いやりのある人間に見えるように接した。
「どこから来られたのですか?」
和尚が訪ねた。
コイと名乗る男は、黙って庭まで出て、鯉たちのいる池を指差した。
それから誰が何か言うこともないまま、この奇人が住み着いた。
皆、狂人と常人との間の一線をなんとなしに保ちつつ、それでも決してコイを無碍にはしなかった。
それにコイという男はなんだか愛嬌があったのだ。
いつぞや、コイが弟子の一人と部屋を清めていると、ぶつんと音がする。なんだと思って弟子が見てみると、障子の一枚に大きな穴が開いているのが見えた。
「こら」
弟子が言った。
するとコイは眉間に妙な皺を寄せて真っ赤な顔で、弟子を睨み付けた。コイという男は目や口が殆ど硬直している代わりに、眉間が非常によく動いた。彼を知る人物はコイの眉間を見て、表情を判断した。
このときのコイは怒っているのではない。困りはてて思考が止まっているのだ。
そんなとき、弟子はコイと二人で和尚のところへ行って、謝ってやったものだ。それで、障子を張り替えていると、皆嫌な顔一つせずに手伝ってやっていたので、和尚もなんだか関心していた。
なんとなく、理屈で説明できないが、不思議な愛嬌が、コイという男にはあった。
それからは妙なことが続いた。
コイという男が来てしばらくしてから、寺に恐ろしいほどの金が集まるようになったのである。立派だがなんとなく暗かった寺は、瞬く間に綺麗になり、村の若い衆を雇って、増改築が繰り返された。例のいやらしい檀家も何度か雇った。けれども、しまいに偉そうに文句を言うようになったので、頼まなくなった。男から金が無くなると、吸い込まれるように寺に金が集まった。
やがて増改築がある程度ひと段落すると、畏くもかの地に帝が、御行幸有らせられた折、寺の前を通られた。ありえないことだが、そんなことがあった。
すると
「囲いから頭を出している銀杏の木がたまらなく良い」
とのお言葉を賜り、それと共に金一封を賜った。無論、中身は一封どころではない。
また、とある豪族が訳あって逝去した折に経を読んだのは彼らである。
ある程度金が集まると、寺は再び増改築を繰り返した。立てては打ち壊され、立てては打ち壊された。
結局、境内に銅製の巨大な仏像をたてることでようやく落ち着いた。
これはめでたい、よろこばしいことなのかもしれない。しかし誰にもそんな気はおこらなかった。この仏像を作り上げるのに、何百人という人が家族を失ったからだ。結局、和尚は鯉を殺しはしなかったが、人は殺した、例の檀家はそう繰り返して酒を煽ったという。
和尚たちは考えられる限りのありとあらゆる栄華を尽くした。もはやその頃には、人のよい住職や、厳格な弟子達は栄華と傲慢に塗りつぶされていた。
この頃には、コイという男も、なんだか浮世離れした、薄気味悪い狂人の男のようにしかみえなかった。彼らがコイと話すときは、殆ど表情のない顔で話していた。いつからか彼らはこと、コイを邪険に扱うようになった。
ついにあるとき、和尚が庭の池で悠々と飛び回る鯉を一匹網で捕まえた。何の躊躇も無かった。そして見栄えの悪い鯉の洗いをこしらえて食べてしまった。
そのときのコイの怒りっぷりは凄まじい物だった。寺中を叫んで走り回り、壁という壁に身体を打ちつけた。やぶ睨みの目は血走り、怒りに震え、体は真っ赤に燃え上がるようであった。
コイは弟子たちが止めるのを跳ね除けて、寺中のありとあらゆるものを破壊した。しまいには向かってくる弟子を放り投げた。口から泡を噴き出しながらありとあらゆるものを破壊した。弟子たちと揉み合っているうち、コイたちは巨大な仏像の前に転がり込んだ。和尚があぐらをかいて座っていた。ぎょっとコイを睨みつける。コイは弟子たちに押さえつけられていたが、弟子を順番に吹き飛ばした。皆壁に強く打ち付けられた。なかには頭から血を流すものもいた。コイは和尚の前に仁王立ちに立ちはだかった。
「なんだ。お前、破門だぞ。そうだ。破門だぞ。」
和尚が叫んだ。が、コイは取り合わなかった。
コイが和尚の頭を強か打ち据えた。和尚が頭を抑えてのたうち回る。コイは和尚を持ち上げて仏像に向かって放り投げた。どんと鈍い金属音がコイの荒い息の中で響いた。
「げえっ」
奇人が叫ぶ。彼は仏像の前に躍り出た。和尚は仏像の足元で動かなくなっていた。
「げぇっ」
再び叫ぶ。誰の耳にも届く悍ましい声であった。コイは仏像の前で手を合わせた。そうして意味のわからない言葉を呟いた。一瞬の間であったが、その場にいるコイ以外のものには誰でも永遠のような時間が流れた。仏像の目から赤い涙が溢れた。和尚の足にたれると、赤黒い煙があがった。和尚が悲鳴をあげて亀の子のように這い出していく。
どんどんどんと鈍い音が寺中に響くと、豪華絢爛を極めた寺がどろどろと溶けて、ぼろ屋根を抱えていた昔のようにすっかりと荒廃しきってしまった。
本堂で人々を見下ろしていた仏像は、ぱんと言う破裂音と共に、蒸気を発しながら、ドロドロに溶けて床に流れ出した。溶けた銅は津波のように弟子たちに押し寄せる。彼らは全速力で走りに走った。彼らが寺の外へ出ると、液状の銅が蒸発して、瓦礫の山以外の全部が消し飛んだ。
通りに出た僧らはその光景を唖然と眺めていた。
コイが瓦礫の中から姿を現した。そして僧たちを睨みつけた。
「うげっ」
一つ叫ぶと僧たちが軽く震えた。
コイは本堂だった場所の中心で、二度三度何か囁いた。すると体からはうろこが溢れ、頭部からは角が突出し、見る間にその姿は龍へと変わった。あっ、と声をあげる間もなく、雲を突き破って天へと昇っていった。
また、瓦礫の山がぞぞっと動く。弟子たちが軽く震えて瓦礫を凝視した。瓦礫の山が持ち上がって和尚がゆっくりと立ち上がった。
「うげっ」
和尚が呟くと、弟子たちがまた軽く震えた。和尚の目はやぶ睨みの目へと変わっていた。もう何も物を言うこともなかった。弟子たちは和尚の姿を呆然と見つめていた。
そのとき、彼らは遅れて全てを理解した。彼らは再び何もない頃に戻ったのである。
池であっぷあっぷと息をしていた鯉たちも気付けば、どこかに姿を消していた。
皆が和尚を静かに見つめるなか、和尚は座って静かに経をよみ始めた。一人の弟子がそれに続いた。もう一人、二人と続いた。気が付くとその場にいる全員が続いていた。
続くより他になかったのである。
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