第10話 龍の池のこと

 村の名はここでは伏せておく。関西の某県の田舎での話であるということだけ書いておく。仮に村の名を書いたとしても、不都合が起こるとは到底思えないのだが、何かの揉め事の種になってはいけないため念の為。

 この村には私の母方の実家がある。もともとO府の南端、ほとんどN県といっても差し支えないところで育った。駅の周りに若者が喜ぶようなものが何もないところだった。大学も自宅の近辺のところへ通った。旅行以外の殆どの時間をそこで過ごした。しかし大学卒業から就職を経てうまい具合に人生が頓挫した。まず最初にあるイベント会社に就職した。そこは百貨店の催事場を運営していた。ここでイベントの企画運営の仕事が出来る、華やかなことが出来ると考えていた。しかし実際は会場に運び込まれた資材の運搬を見守るであるとか、会場の受付、お客様誘導を行う、といったような案外地味な作業が殆どだった。幾人か有名人と会ったことがあるが、田舎の百貨店のため有名といってもしれている。面倒をよく見てくれた上司とも折り合いがよくなかった。色々と仕事に付き添ってくれるのだが、今時珍しい「見て覚えろ」という類の人物だった。色々と質問をしても「そのうち分かる。」しか言わない。違う日に別の指導担当に当たってまごついていると、怒号が飛んでくる。そういう日々を何日も過ごしていた。今思えば分からないなりに何かできたのかもしれないが、当時の私は着いていくので精一杯だった。

 当時は何かと思い詰めることの多い日々を過ごしていた。誰かに相談しようとも思えなかった。親族からしきりに心配されたが、辞めるという考えが浮かばなかった。あるときにふと通勤電車で大学時代の友人のAと会うことがあった。このAともう一人のBとの思い出が大学時代の殆どを塗りつぶしていた。

「おい、Cか? お前すげぇ顔してるぞ。何かあったのか?」

 Aは黒いポロシャツにジーンズを履いていかにも休日といった様子だった。彼はよくよく私の顔を覗き込んだ。

「おぉ、Aか。めっちゃ久しぶりやな。」

 私は力無く応えた。実際何もかも気怠かった。

「頬こけてるぞ。本当に何も無いのか? 病気してるんじゃないだろうな。」

 Aの質問の数々をのらりくらりとかわしていくが、いくらでも質問は湧いてくる様子だった。しまいにAがぽつりと言った。

「ははあ、さてはお前、仕事で疲れてるだろ? やめちまえよ。そんな仕事。金稼ぐために働いてるのに死んだら何の意味もねぇよ。」

 この辺りで電車が目的地についた。自宅から少し離れたやや都会の田舎だった。

「また連絡するから。もし仕事が辛いなら辞めろよ。命奪われたら何の意味もないからな。」

 そう言ってAが颯爽と去っていく。彼はG県出身で進学のためにO府に来ていたが、卒業後はそのままO府に住み着いた。今は不動産関係の会社で営業をしている。

 何故自分が悩んでいるのか分からなくなってそのまま出勤せずに駅に近い喫茶店に行った。そうして昼過ぎまでぼんやりとして店を出た。こんなことで身をすり減らすのが馬鹿らしくなった。それからすぐにその会社を辞めた。

 それからAの紹介で母校たるO大学に就職した。就職といってもバイトのようなものだった。庶務課の下働きで九時から五時までの勤務だった。庶務課といえば割合聞こえは良いが、言い換えれば雑用係である。しかも自分は一番の新参者であり歳も一番若い。おまけに仕事は殆ど無いときている。殆どの時間、私は講師たちの書類の印刷などの雑務に終始することになった。そんな生活が三ヶ月ほど続いた。業務中は多忙であったが、それなりに教授たちとも親交が出来たし、割合悪い仕事ではないと思えてきていた。誰も彼もしっかりと礼を言ってくれるし、働いていて気持ちよかった。

 ある日のことである。とある講師の連絡不行き届きが原因となり、過失を認めぬ講師と、不利益を被った私との間で諍いが起こった。思えば私も早く折れるべきだった。しかし、講師のあまりの物言いについ頭にきてしまった。そのうちに両者引くに引けなくなる。気が付くと教授たちの派閥争いが加わって、事態は泥沼の様相を呈した。結局、この争いは学長の鶴の一声で丸く治ったわけであるが、私は首を切られてしまった。ある教授はこう言った。

「ここ(この大学は)はバルカン半島みたいなものだから。」

 なるほどといたく感心したが笑っている場合ではなかった。 

 O大学を退職してからというもの、私は自宅に入り浸るようになった。もう何もする気が起こらなかった。あてもなく旅行に出てみたが色々あって旅行に出たことを後悔した。何日も自宅で毒にも薬にもならない日々を過ごしていたが、ある時に父親にこっぴどく叱られた。

「働かないなら飯を食うな。誰の役にも立つ気がないなら息を吸うな。」

 毎日のようにそう言われた。父親は機嫌が良くても悪くても呪文のようにそう言った。暴力を振われることはなかったが、それよりも酷いと思った。日々を過ごすうちにもう何も感じなくなっていた。母親は何とも言えぬ様子で私と父親の顔を交互に見ていた。母親にそんな顔をさせるのが申し訳なくなった。何も感じなくなった心にも大事なものは残っていたらしい。思い立ったが吉日と荷物をまとめて家を出た。

 家を出たのはいいがどうにも行く宛がない。友人たちの家に転がり込むわけにもいかず、隣県の祖父祖母の家を訪ねた。これが冒頭の村である。


 村の住民たちはこれまた揃いもそろって年寄りばかりである。あまりにも年寄りばかりなので子供の頃は「何か偉い人のはかりごとがあって、わざわざ年寄りをここに集めた。」と思ったものである。それほどこの村の年寄りの割合は多い。これは別に「偉い人のはかりごと」があったわけではない。若いものが「何の面白みもない村」に見切りをつけて、揃いもそろってこれまた「偉い人のはかりごと」の如く、都市部へ逃げ出していったためである。無論、若いものもごく少数ながらいないわけでもない。都会での戦争に敗れた、敗戦者どもがまさに片足を引きずるような思いで、ぞろぞろと逃げ帰ってくるのである。また、そればかりではなくて、出生地ではなくてむしろ、「人生に対して早々と見切りをつけた。田舎で静かに暮らしたい。」という人間もいる。その手のものはいつも、気が付いたら姿を消しているので、誰も気に留めていない。

 私はといえば、前述の二つのうちでは「敗戦者」と扱われた。しかし村では数少ない「大学に通っていた人」ということで村民からの距離を感じることが多かった。最初は何とかどこか近くのコンビニで働こうと履歴書を送ったが採用されなかった。出鼻を挫かれたような気がした。村にいる若者の殆どがコンビニに応募するため、競争率は恐ろしい高さだった。

 村長(正確には町会長と呼ばれる)は実に意欲的な人物である。裏山の頂を空から見ると、ちょうど頭頂部の脱毛の如く木々のないところがある。山頂部分が窪み、水がたまって池になっている。私は詳しいことは知らないが、なんでも底には太古の昔より龍が住まわり、干ばつに見舞われた際は雨を降らし、増長した人間がいれば懲らしめたりと、多くの伝説を残したそうだ。奇特な学者さんが二年ほど前に取材にきたことがあった。村長はこれを宣伝に用いて村起こしをと考えたのだが、結局、誰も村長の考えを聞くものは無く計画は頓挫した。村民は揃いも揃って村起こしよりも静かな生活を望んでいた。

 もとより私はこの村長という男があまり好きではない。目の細い白髪のはげ頭の男性で、妙に額が出ていて米国の怪物を彷彿とさせる。この男、普段はやけに無愛想で、往来で会釈すると「ぶらぶらと出歩きやがって、この穀潰しが」とでも言いたげな顔をする。ところが、役員会(町会の役員が集まって町会長を決める会議である。戦前は町会も村会という名で、村長の家の者が代々全要職を担当し、実質独裁制を敷いていたが、戦後、民主化のあおりを受け「村会」は「町会」へと名を変え、「村長」は「町会長」になり、役員決めも「役員会」による選挙制になった。しかし実質的には今も村長の独壇場である。)が近づいてくるとやけに笑顔を作って黄色い声で挨拶をするのである。私はこの声を聞くのが嫌で嫌でたまらない。


 この村長の龍による村興しも失敗して、ある程度月日がたったころである。俄に電話が鳴った。前述の友人Aからであった。

「おい、C、久しぶりに遊ぼうぜ。」

 急の申し出に私はぶっと息を吹き出した。

「出し抜けにどうしたんだ? 俺今田舎にいるんだよ。ごめんな。大学は首になってな。」

「知ってるよ。別にいいよ。あそこはあそこで色々あるみたいだから。田舎か? 田舎って○○?」

「そうそう。婆ちゃん家がそこだから。」

「それなら俺らそっち行くよ。泊めてくれよ。」

「泊まるのはいいけど、今俺らって言った?」

「うん。Bも一緒に行くから。」

 このBというのも大学時代の友人だった。彼も少し変わった男だった。Bに心霊スポットに行こうと誘われて酷い目にあったことが何度もある。卒業してからはたしか家電量販店で勤めていたはずだ。

 正直なところ彼らに会うのは恥ずかしいものがあった。今までの人生で選んできた選択が全て間違っていたと突きつけられるような気がした。だが断る理由もない。もちろん適当な理由をつければ断ることも出来たのかもしれない。しかし、今回のことはおそらくAが私のために企画したような気がした。顔を合わせて話すことで私を元気付けようとしているのかもしれない。Bも恐らく私の事情は知っているだろう。Bは少し変わったところのある人物だが根は悪人ではない。むしろ繊細なところのある気弱な人間だ。私のことを詰ったりする事はないだろう。そう思ってざわざわする胸を無理やり押さえつけた。


 旧友たちが私の家を訪ねたのは連絡から一週間後だった。それまでの間今まで通り天井を睨んで過ごしていた。念の為祖母に友人たちが泊まりにくる旨を告げると、冷たい目で笑っていた。祖父に相談すると友人たちは離れに止まってもらうようにと言った。そこで何年も使われていなかった離れの掃除に着手した。祖母の努力の成果か離れはかなり整理されていた。掃除自体はさほど時間はかからなかった。

 Aから連絡を受けて車で最寄りの駅に向かうと、バスのロータリーで見覚えのある影が二つ見えた。黒いポロシャツにジーンズ姿のAと、黒い下品な英語のプリントされたシャツに半ズボン姿のBだった。Bはかなり髭を蓄えていて記憶と幾分か違って見えた。彼らの前で車を止めて外へ出た。友人たちは大声で私を迎えた。

「C、久しぶりだな。やっぱりここ何にもないな。」

 Aが大笑いして叫ぶ。Bも横で静かに笑っている。

「この辺コンビニないか? 煙草が無くなりそうなんだ。」

 そう言ったのはBだった。

「この辺にコンビニなんてないぞ。何言ってんだ。……ちょっと車飛ばすか。」

「ついでに酒も買おう。多分朝まで飲むだろうから。」

 彼らの姿を見て幾分か歳月を感じた。Aは前よりも豊麗線が深くなっていたし、でこも広くなっている。Bは前まではなかった髭を生やしていて、鋭かった目つきはかなり柔らかくなっていた。Bが着ている下品な英語がプリントされたシャツは彼が大学時代から着ているものだ。今やもうかなり色褪せて黒い色も白く擦り切れたようになっていた。

 大学時代の頃の記憶がどっと湧き上がった。色々な記憶が頭の中を駆け巡った。目がいつもよりも濡れているような気がした。

 彼らを乗せてコンビニに寄り、自宅に向かった。祖父母宅の庭に車を停めるとひとまず友人たちを母家に案内した。玄関を開けると祖父母が揃って顔を出した。私は祖父母に友人たちを紹介した。

「いつもCがお世話になっております。こんな田舎ですけどゆっくりして行ってください。」

 祖母が深々と頭を下げた。祖父が玄関に降りて突っ掛けを穿いて歩き出した。

「A君とB君にはこっちの離れに泊まってもらうからね。うちは狭いからこっちでゆっくりしてな。」

 祖父が豪快に笑って離れを指差した。少し前までぶつぶつと文句を言っていたようには到底思えなかった。

「オバケとか出たりしないですよね?」

 Bが少し笑って囁くように言った。祖父の顔が少し引き攣っているように見えた。

「オバケは出ないな。」

 そう言ってゆっくりと母家に戻った。確かに傍目にみれば随分と古いように見える。灯りもついていないから、どんよりと薄暗くて薄気味悪い。AがBを軽く小突いた。

「失礼だろ。泊めてもらうってのに。」

「ごめんごめん。」

 彼らを離れに入れるとそれぞれが荷解きを始めた。私は小ぢんまりとしたリビングに座ってぼうっとしていた。先に荷解きを終えたのはBだった。

「お待たせ。にしても随分と綺麗だな。オバケなんて言ってごめんな。」

「いいよ。外から見たらちょっと気色悪いから。お前、髭どうしたよ?」

「ああこれ? ちょっと気分を変えようと思ってな。似合うだろ?」

「お前電気屋さんじゃなかったっけ? 髭いいのか?」

「辞めたんだよ。というより辞めさせられたんだけどな。」

「え? じゃあ今何やってるんだよ。」

「今は実家で米農家やってるよ。今日は休みもらってきてな。」

 遅れてAが顔を出した。

「さてと、これからどうするよ?」

 一同面食らったように顔を見合わせた。揃いも揃って酒を飲むくらいしか考えていなかったからだ。

「酒飲むにはまだ早いだろ。今から飲んでたらすぐ潰れるぞ。」

「この辺、何にもないからなあ。」

 私がため息まじりに言うと、Bが低く笑った。

「あるじゃないか。龍神伝説の池。俺あそこ行ってみたいよ。」

「出た。」

 Aと私が示し合わせたように言った。Bが学生時分から何一つ変わっていなことの証明のようだった。

「あそこの石碑蹴り上げても化け物なんて出てこないぞ。」

 私が指摘するように叫ぶ。学生時代ではいつものことだった。

「そんなことするか。手でも合わせたら何かあやかれるかもしれないだろ。」

「お前も随分と大人になったな。」

 Aが続いた。私も深々と頷いた。

「お前ら、気を付けろよ。変なことばっかり言ってたら悪いのが寄ってくるからな。……何というか昔みたいに散歩してみたくて。」

 私が承諾するとAも続いた。実際それも悪くないと思った。


 山への道中、遠巻きに村長の禿げ上がった頭が見えた。離れたところからでもこちらを睨みつけているのがわかる。

「ああ、C君」

 村長の黄色い声が聞こえた。そろそろ選挙が近いらしい。

「これはこれはC君の友達ですか?」

「そうです。大学の頃の友達でね。」

 村長が言い終わらぬうちにAが快活に答えた。

「C君と同じ大学ですか。素晴らしい。そりゃあ皆さん、賢そうな訳ですな。何もない村ですけどゆっくりしていってくださいね。」

 黄色い村長の笑い声が通りに響いた。AとBは黙ってそれを見つめていた。ひとしきり笑ってからぼやぼやと独り言を言いながら足早に歩き出した。何を言っているのかわからなかったが、何か文句を言っているのはわかった。

「人が水不足で大変なときに」

 それだけがぼんやりと聞こえた。

「お前のところの村、そんなに大変なの?」

 Bがこちらに顔を寄せて言った。ぼんやりと煙草の匂いがした。

「なんで?」

「だってあの爺さん、水不足がどうとか言ってたけど。」

「知らない。今初めて聞いた。俺外出ないもん。」

 三人とも何か考え込むように歩き出した。ついに山道が見えたときにBが煙草を吸っていいかと言った。Aと私は承諾した。Bの煙草から煙がぼんやりと流れていく。ゆっくりと山の中に溶け込んでいくのが見えた。

「あの村長、変な人だよな?」

 だしぬけにBが言った。

「そうだな。めちゃくちゃ変な人だと思う。いつも嫌味言ってくるから嫌いなんだよ。」

「俺も嫌なタイプだな。」

「一緒に内見行ったらめちゃくちゃなこと言ってくるタイプだな。」

 Aが皮肉のこもった笑みを浮かべて言った。

「懐かしいな。K府のD山登ったときみたいだな。」

「あれか、山姥探しに行ったやつな。」

「山姥よりちょくちょくいた蛇の方が怖かったな。」

 やがてBが煙草の吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。誰が何か言うともなく三人揃ってぼんやりと歩きだした。

 子供の頃、何度かこの山に登ったことがある。小学校低学年の頃だろうか。当時は父親とよく登った。思いの外険しい山道で父親が息を切らしている姿を今でも覚えている。私は子供だったから幾ら登っても疲れた記憶がない。父親の前を走っていって後ろから

「おい、遠くに行くな」

 と怒鳴られた覚えがある。

 当時の父親は自分にとって不思議な存在だった。幼少時の記憶の殆どは母親が占めている。何かあれば頼るのは母だった。そして夜になると突如不思議な男が現れる。それが父親だった。父親は時折饒舌になるが口数の少ないことの方が多かった。実際山に登った時も我々は黙々と歩いた。こないだから父親が繰り返した

「働かないなら飯を食うな。誰の役にも立つ気がないなら息を吸うな。」

 という言葉が久々の会話だった。今になって思えば父親がそう言うのも無理はないのかもしれない。父親は仕事に対して実直な人間だった。スーパーの奥で延々と惣菜を拵える仕事を何十年と続けていた。職場で諍いがあったとしても淡々と仕事を続けた。父からすれば私こそ不思議な存在なのだろう。これが良いことなのかは私にも分からない。

 父のことを疎ましく感じることも多かった。しかしある程度大人になると父親のことを昔よりは尊敬出来るようになった。


「おい、あれが龍の池か?」

 Bが熱っぽい声で叫んだ。私は無感動にそうだと応えた。

 木々が開けて陽の光が差し込んでいるのが見える。光は泉に反射して目が眩むような光を放っていた。

「ここに龍神様がいるわけだな。これはこれは。」

 またBが叫んだ。そして昔のように少し顔を下に向けて微笑を浮かべていた。私とAは顔を見合わせた。Bがこんな顔をするときは何か悪戯を考えていることが殆どだった。

「B、もういい歳なんだから子供みたいなことするなよな。」

 Aがため息まじりに呟いた。Bの歩調が少しずつ上がっていく。Aも私もBに続くような形でゆっくりと歩いた。次第にぼんやりと白い石碑が目に入った。

「ああ、あれが。」

 私が荒い息に混じって呟いた。

「あれってなんだ。」

「あれ、昔はなかったんだけど、村長が村起こしで作らせたんだよ。昔はこんなの無かったんだから。」

「へぇ。」

 Aが無感動に同意した。思えば山道もここまで手入れされていなかった。まさしく獣道だった。草の間から化け物が顔を見せても何ら不思議ではなかった。猪が出る、蛇が出ると噂が回って山道に足を踏み入れるには子供の私には相当な覚悟が必要だった。こんな気軽に登れるようなものではなかった。祖父が教えてくれた山の不思議な話も、今となっては遠い昔のように感じる。不思議なものたちもどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。

 Bに遅れて私とAは石碑の前に立って手を合わせた。石碑には昔、祖父から聞いた龍神伝説の謂れがつらつらと書き連ねられていた。ざっと目を通しているうちに村長の顔が浮かんで目を逸らせた。

「この池に龍神様がいらっしゃるわけだな。」

 じっと池を覗き込んでBが言った。私はまたそうだと無感動に返事した。彼は懐から煙草を取り出して火をつけた。

「お前、こんなところでよく吸えるな。神社の中で煙草吸うのと一緒だぞ。」

 Aの鋭い声と共に鼻先に煙草の匂いが掠めた。私はぼんやりと池を眺めていた。波も何もない穏やかな池であった。時折鯉か何かが暴れたと見えて、ぼんと音が聞こえて水面に波紋が広がる。

「龍神様、龍神様」

 間の抜けた声が山中に響いた。Bの声だった。

「お前何してるんだ?」

 私がまた間の抜けた声で尋ねた。

「龍神様に挨拶してるんだよ。せっかく来たんだから挨拶していかないと。」

 微笑を浮かべながら、鼻息荒く主張するBの姿を見てAも私も大笑いした。そして我々もBに続いた。

「おい、おい、龍神様、ご挨拶に参りました。」

 いい歳をした大人たちが子供のように叫んだ。ひとしきり叫び合うと皆一様にその場に座り込んだ。学生時分に揃いも揃って馬鹿なことをしていた記憶がどっと湧き上がった。

「C、C。龍神様来るかな?」

 Bの子供のような声を聞いて皆大笑いした。Bはまた次の煙草に火をつけていた。

「仕事行きたくねぇな。」

 黄色い声が響いた。叫んだのはAだった。

「そういえばお前さっき何お願いしたんだよ。」

「内緒だよ。」

「誰かの役に立つ気がないなら息を吸うなって親父に言われてな。俺は息を吸うにはどうしたらいいんですかって聞いたよ。」

 誰に言うともなく呟いた。誰も答えられなかった。

「別に息くらい吸ったらいいだろ。誰かに決められることもないし。」

 Aが池を眺めながら言った。そして立ち上がって池を覗き見た。

「どうした?」

 Bがゆっくりと起き上がってAに続いた。私もそれに続いた。三人とも何も言うこともなく池を覗いていた。

「龍神様、龍神様。」

 私がまた叫んだ。AとBの二人が私の顔を覗き見た。

 ぶくぶくと池が沸騰するように気泡が押し寄せた。池底から地を揺らすような音が聞こえてくる。金属を擦り合わせたような鈍いが高い音だった。気泡の量はさらに増える。池全体が気泡に覆われて煮えくり返っているようだった。

 我々は肩を寄せ合って互いの腕にしがみついた。Bの咥えている煙草の匂いが鼻についた。

 異音はさらに大きくなる。山全体が揺れているようにすら感じた。

 どっと水が盛り上がった。生臭い匂いが立ち込める。持ち上がった水が重力に従って下に流れていく。蜥蜴のような巨大な怪物が姿を表した。水の間から雄鹿のような角が見える。蜥蜴のような生き物はこちらを睨みつけてしばらくの間沈黙していた。水の流れる音と唸り声が聞こえる。Bの煙草の匂いと生臭い魚のような匂いで目がくらくらするようだった。巨大な蜥蜴は不意に二、三息を吸い込んだ。そしてぶっと息を吹き出した。おそらく「くしゃみ」だろう。我々は一メートルほど吹き飛んで倒れた。蜥蜴のような生き物は一つ大きな息を吐き出して顔を振るった。そしてまた一つ大きく息を吸うと、ぐっと身体を伸ばしながら天に向かって大きく息を吐いた。まるであくびのようだった。蜥蜴の息はそのまま空に凝固して大きな雲になった。一つまた一つ、雲は瞬く間に空を覆った。巨大な蜥蜴はひとしきり息を吐き終えると頷いた。こちらに鋭い目を向けて一礼した。我々も一礼した。そしてお互いにばつが悪そうに地を見つめていた。しばしの沈黙が場を支配した。蜥蜴のような生き物がふっと息を吐いて身体を持ち上げると、とぐろを巻いて天へと昇っていった。

 我々は呆然と池を見つめるより無かった。

「あれ、煙草は?」

 Bの間の抜けた声が聞こえた。

「さっきのあれで吹っ飛んだんだろ。」

 Aが震える声で応えた。ぽんと頬に水滴が垂れた。私は空を見上げた。また一つ水滴が頬を突く。ぼうっと空を見上げるうちに、ぽたぽたと次から次へと水が空から溢れ出た。

「あれが龍神様か。」

 誰かが呟いた。自分でないのは確かだった。Aが立ち上がった。Bもそれに続いた。我々は示し合わせたかのように山道を駆け降りた。

 途中何度も転倒したが不思議と痛みはなかった。

「お前らがやったんか。」

 我々の姿を見るなり村長が叫んだ。

「お前らのおかげや。ありがとう、ありがとう。龍神様はほんまにおったんや。」

 村長が我々を抱き寄せて叫んだ。顔は雨と涙に濡れていた。村長のこんな姿を初めて見た。ようやく村の水不足の深刻さを理解した。

「赤飯炊くぞ。今日は赤飯や。」

 我々は村長を強く抱き返した。


 誰かの役に立とうとした記憶はなかった。しかし気が付くと誰かの役に立っていた。色々と考えたがそんなものなのかもしれない。

 今はAの口利きでまたO大学の庶務課にいる。随分と勇気のいる話だったが、今のところ大きな問題は起こっていないし、諍いの合った講師とはまだ会っていない。

 父親とは年に二回、盆と正月に会う。今のところ仲良くしてもらっている。

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