第9話 暗い夜
一人夜道を歩くのは辛いこと、辛いこと。ことに手入れの行き届かぬ荒れ道である。うっそうと茂る草木は彼の不安を煽った。ときにほうほうと鳴く鳥の声もまた、より一層の恐怖を起こさせる。遠巻きにざっぶんざっぶんと波の音が聞こえた。湿り気のある木の匂いに混じって、潮の匂いがぼんやりと漂ってくる。
「自分は今どこにいるのだろう。」
先ほどから頭にあるぼんやりとした不安が言葉となって頭に浮かんだ。息はだんだんと荒くなる。もう何時間と歩いているのかわからない。目の前の木々が月明かりに照らされて、黒い怪物のようにさえ思えてくる。風で枝がさやさやと揺れる音さえ、何か得体の知れないものが囁き合っているようだった。
「クラムボンは死んだよ」
不意にCの頭に浮かんだ。宮沢賢治の小説の台詞だった。何故クラムボンが頭に浮かんだのかCにはわからなかった。だが今や、普段から浮かんでは消えていく意味のない言葉さえ、何か死などの不吉なものを運んでくるような気がした。
遠く離れた先に木々が開けているのが見える。目を凝らして睨んでみると、灯りの消えた家々が立ち並んでいるのが見えた。今となっては時刻もわからない。こんな時に限って電波時計を持ってきてしまった。こんな場所では電波時計は頼りにならない。携帯電話はとうの昔に充電が切れている。体感的に真夜中であることだけは理解できた。額から流れた汗が目に入った。もはや拭う気力も残っていなかった。黙々と何かの意志だけで足を動かしていた。
家々が近くに迫るとCは深い息を吐いた。家々の並びは小さな集落を形成していた。集落はそのまま海岸に繋がっている。遠巻きに聞こえていた波の音が先ほどよりも近くに聞こえる。波の音に混ざって犬の鳴く野太い声が聞こえた。それ以外は村全体が死んだように静まり返っていた。Cはゆっくりと小路に入った。古い家屋がCを取り囲んだ。まるで泥棒のようにゆっくりと歩みを進める。波の音の中にざっざっとCの足音だけが響いた。文明から遠ざかり、発展を忘れたようなそんな町並みだった。時折生暖かい風がCの背中を掠めていく。五分ほど歩いただろうか。Cの後ろから犬が吠えたてた。
「ひゃあ」
鉄砲で撃たれたように倒れ込んだ。近くの家の軒下に繋がった犬が余所者に怒りをぶつけているのが見える。Cはばたばたと瞬きするとゆっくりと起き上がった。体についた砂埃を手で払い、きょろきょろと辺りを見渡す。繋がった犬の横で壮年の男性がCを睨みつけていた。白いシャツと原色の下着を着た目つきの鋭い男性だった。火の付いていない煙草を咥えてじっとCを見つめている。
「すみません。」
訳も分からず謝罪した。男性はCを睨んだまま眉一つ動かしていないようだった。両者はじっと目を合わせたまま動かなかったが、Cが黙礼して浜に向かって歩み始めた。
浜に出るまで三分もかからなかった。浜の入り口に石碑が見える。月明かりを頼りにじっと石碑を見つめる。「新三」と「大魚」という文字が読み取れた。Cはようやくここが新三と大魚の物語の舞台となった村だと理解した。その昔、新三という酔っ払いの男が浜に打ちあがった大魚から大波が来るとの予言を聞き、村を離れて助かったという話である。Cはこの話を祖父から聞いたことがあった。予言を聞いた新三がどれだけ村の人間に逃げるように伝えても、誰一人彼の言葉を聞き入れるものはいなかった。村が海の中に沈んだ後、生き残った人々が生活を立て直したのだろう。
浜沿いにぼんやりと歩みを進める。寄せては返す波が視界の端に見えた。木製の小ぢんまりとした船と網が放置されている。この村の人たちの仕事道具なのだろう。いつから使われているのだろうか。暗い中でもかなり年季の入っているように見える。
海に目をやると、闇の中に地平線を混じり合っていた。ざっぶんざっぶんという波の音だけが浜辺を支配している。何か心惹かれるものがあって、ゆっくりと波に向かって歩みを進める。海が足に浸かると、水が靴の中に入ってくる。ふと両親の顔が頭に浮かんで慌てて引き返した。
靴下までぐっしょりと濡れていた。Cは近くの岩に腰掛けた。靴を脱いで靴下を脱ぎ捨てる。軽く絞ると水が滴った。深いため息を吐いた。湿った靴下と靴を履くと、またぼんやりと海を眺めた。視界の端に黒いものが見えたので目をやると、砂塗れになった海藻が打ち捨てられていた。一度視界に入ると、吸い寄せられるように目が離せなくなった。
「自分もこの海藻もさして違いはない。文明と人の波に揉みくちゃにされて、自分もいつかこの海藻のように捨てられるのだ。そうならないためには、自分の中のいくつかの良心だとか感性を切り離す必要がある。自分が必要だと思っているものをいくつか忘れないといけない。それが出来るなら自分はこうはなっていなかっただろう。心労に押し潰されてあてもなく夜道を歩く自分はもはや、この海藻と同じなのかもしれない。」
Cはじっと海藻を見つめていた。ハンカチを取り出して目と鼻を拭う。そうやって五分ほど過ごした。やがて意を決したように立ち上がった。海藻を掴み上げると、寄せては返す波の中にそっと置いてやった。二度三度波の中で洗われて砂が落ちていく。海藻が見る見る元の黒を取り戻していく。やがてゆっくりと転がって闇の中に消えっていった。
「おい、何してやがる? お前、まさかここで死ぬつもりじゃないだろうな?」
ふとCが目をやると裸同然の格好をした男がふらふらと近寄ってくるのが見えた。遠巻きに見てもわかるほど泥酔していた。
「おい、なんとか言ったらどうだ? 口付いてるんならよ。お前も俺をいないものと思ってるのか? 馬鹿野郎が。おい、うんでもすんでも言ったらどうだ?」
男がCの横に立つと顔を覗き込んで思い切り怒鳴った。強い酒の匂いがぶわっとCの鼻先を掠めた。
「こうなりゃ俺は死んだも同じだ。地獄だ。地獄だ。」
Cが振り返って男の顔を眺めた。男はもうCを見ていなかった。じっと海を見つめていた。
「地獄だ。」
もう一度呟くように言った。Cはどうとも返事することが出来なかった。男と同じように海を見つめるより他になかった。
「すみません。」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。ふと男の顔を覗き見る。男はもういなかった。最初からそこにいなかったようだった。不意に恐ろしくなって村に向かって歩き出した。
「地獄だ。」
また男の声が聞こえたような気がした。
往来に出ると、変わらず家々は死のような静寂に支配されていた。
「せめてコンビニでもあれば」
ぼんやりと考えた。潮の香りに混ざって煙草の匂いがする。よく目を凝らしてみると、先ほどの壮年の男性が煙草を吸っているのが見えた。
「すみません。」
意を決して声をかける。壮年の男性がまたCを睨みつけた。
「この辺にコンビニってないですか?」
男が少し遠くを指差す。Cは丁寧に礼を言ってその方向に歩いた。
コンビニ、と書かれた看板が見えた。しかし店はもう閉店している。Cの思うようなコンビニではなかった。Cはまた先ほどの男性のところまで歩いて戻った。
「何度もすみません、この辺りにどこか泊まるところはありませんか?」
男はまたじっとCを睨みつけた。そしてまた少し離れたところ指差した。先ほどのコンビニのさらに向こうだった。
「まだやってますかね?」
Cが恐る恐る尋ねた。男はじっとCを睨みつけたままだった。
「ありがとうございます。行ってみます。」
またゆっくりと歩みを進める。浜を出たころから一日の疲れがどっと迫ってきていた。もはや身体を休めることが出来ればどんな場所でもよかった。
遠巻きに宿と書かれた看板が見える。光が漏れているのが確認出来た。Cは歩みを早くした。近づけば近づくほどぼんやりとした灯りが強く見えてくる。
「すみません。」
宿の中に入ると、Cは大きな声で叫んだ。綺麗な身なりの老婆が顔を覗かせた。
「あらあら夜遅くにご苦労様です。」
老婆の快活な声がCを元気付けた。
「遅くにすみません、今日泊めていただくことって出来ないですか?」
「構いやしませんよ。どうぞお上がりくださいませ。」
Cが丁寧に礼を言って上がる。老婆がCの靴を揃え直した。が、浜で海水に塗れたために水濡れになっていたのだろう。なんとも言えない顔で軽く笑った。
「明日の朝食はどうなさいますか?」
「お願いします。」
「こちらへどうぞ。」
顔を見ればもうかなりの歳なのかもしれない。しかし背筋もしゃんと伸びた品のある老婆だった。
通された部屋は小綺麗な和室だった。決して広くはないが、狭いわけでもない。文豪が何か書くために籠っていそうな部屋だった。
「朝食は八時からです。下の食堂へいらしてください。風呂場はもう閉まってしまいましてね。朝には空いてますからまたいらして下さい。それではごゆっくり。」
老婆が丁寧に戸を閉めて部屋を去る。もう波の音も聞こえないほど静かであった。Cは押し入れから布団を引き摺り出すと、やや煩雑に布団を敷いた。着ていたものを脱ぎ捨てていく。そして身体を横たえて思い切り伸びをした。何をするにも大義だった。
とろとろと眠りにつくまでにそう時間はかからなかった。
二時間ほど眠っただろうか。なにしろ時間を確認するものが何もない。突然の大声で目が覚めた。外は変わらず暗闇に支配されている。
「うおお」
大声は隣室からだった。喧嘩をしているのだろうか。Cはぼんやりとした頭で考えた。大声は変わらず聞こえてくる。中年の男性たちの野太い声である。
「乾杯」
今度ははっきりと聞こえた。それから歓声があがり、くどくどと取り止めのない会話が繰り広げられる。それら全てが大声だった。一度気になりだすともう何をやっても頭から離れない。布団を被るなり人差し指で耳を塞ぐなりしてみるが、何も意味をなさなかった。なんとかして辛抱しようとするものの、歓声はどんどん大きくなる。Cは人殺しのような目で立ち上がった。先ほどまでぼんやりとしていた頭も今は随分とはっきりしている。脱ぎ捨ててあった服を着て急足で部屋を出た。隣からは依然大声が漏れている。
Cは隣の部屋の前に立つと、部屋の戸を思い切り二度叩いた。声が急に小さくなった。しかしすぐにまた声が漏れ出た。
「お前が出ろよ。」
「嫌だよ。俺、飲んでないんだぞ。」
「じゃあ素面のお前が出ろよ。俺らはもう駄目だ。」
「お前らがうるさくするからだぞ。」
ぶつぶつと声が聞こえる。少しすると戸が開いた。眼鏡をかけたよく禿げ上がった男が扉の影から現れて何度も頭を下げた。
「ごめんなさいね。うるさくしちゃって。もう終わりますから。本当に。ごめんなさい。」
部屋の奥から酒とつまみの混ざった妙な匂いが漏れ出してくる。奥から声がした。
「一緒にやりましょうや。いいでしょ、いいでしょ。」
目の前の男が頭を掻いて目を伏せた。
「いや、本当にごめんなさい。もうかなり盛り上がっちゃって。あの、あいつらもああ言ってますから、よかったらどうです?」
不思議と悪い気はしなかった。何故だか嬉しさすら感じた。身内とどこかの店員以外の人と久しぶりに話したような気がする。Cは微笑して頷いた。
部屋の中は随分と散らかっていた。酒の缶がいくつも塵箱に積まれていた。つまみの袋が取りやすいように広げられているが、肝心の中身が散らばって畳の上に転がっている。
小太りの男と、痩せた病人のような男が真っ赤な顔で酒を飲んでいた。Cの姿を見るや否や大声で歓声をあげた。もう何が起こっても嬉しい様子だった。
「ごめんね、うるさくしちゃって。まだ酒あるから飲んでいって下さいよ。」
「お兄さん、大学生?」
「いえ、もう卒業してます。」
「今、何の仕事してるの?」
「フリーターです。」
Cがなんとも言えない顔で笑うと、眼鏡をかけた禿げ上がった男が小太りの男を小突いた。
「誰にだって事情があるんだよ。しつこく聞くな。お前だって若い頃は長いことプータローしてたじゃないか。」
小太りの男が頭を掻いて「すみません」と言った。
「人生何が起こるかわからんよ。こいつだってそうだよ。この骸骨みたいなやつね。○○、お前、随分と痩せたよな。」
「癌でーす。」
痩せた男が笑って踊るような動きをした。そして酒の缶を口に運ぶ。飲んでいるのかどうかわからないほどの量を口に含んだ。
「お兄さん、なんだってこんな田舎に来たんだ? ここは石碑以外何もないだろう?」
禿げ上がった男が優しく尋ねた。
「特に理由もないですよ。少し疲れてしまいまして。あてもなく歩いてました。」
「お兄さん、生まれは?」
「O府です。」
男たちが揃って大きな声を出した。
「随分と遠くから来たね。ここまで歩いてきたのか?」
「そうですよ。何も考えずに歩いてたらすぐですよ。」
「お兄さん根性あるよ。なかなかの大人物だ。どれ、お兄さんのちょっとした人生の休憩に乾杯しようじゃないか。」
そこにいる一同が乾杯した。Cも続いた。
「皆さんは村の人ですか?」
「違うよ。こんな所、頼まれても住まねぇよ。ここは石碑以外何もないからな。着いてからびっくりしたよ。」
小太りの男性が勢いよく答えて大笑いした。眼鏡をかけた男性が理性的に続く。
「ちょっと取材でね。ちなみにお兄さん、月刊怪奇スペシャルって知ってる?」
一度も聞いたことがない名前だった。Cは務めて眉間に力を入れて思い出すようにした。
「知らなくてもいいよ。大きな本屋にしか置いてないからさ。今度帰ったら注文してみてね。」
「ああ。」
痩せた男が下を見て嘆息を漏らした。
「くだらねぇよな。俺だって本当はさ、書きたいこと書いて評価されて、一端の作家みたいな顔してみたかったんだよ。それがよ、ちょくちょくよく変な坊さんに会って妖怪説法とかいう訳の分からないこと書かなくちゃならねぇ。嫌だ嫌だ。生きるって本当に嫌だ。」
Cは何度も頷いて痩せた男の顔を覗き見た。心なしか目が潤んでいるようだった。
「飯は食わなくちゃならないからな。どうしようもないよ。この世に生まれた以上、どうなっても黙って歩くしかないからね。嫌だと言っても辛抱強く歩くしかないのよ。」
禿げ上がった男が呟くように言った。小太りの男は先ほどから何も言わなくなっていた。視界の端に小太りの男がうつらうつらと身体を揺らしているのが見えた。
しばらくの間沈黙があった。部屋には痩せた男が鼻を啜る音が響いていた。
「やっぱり何が起こっても辛抱強く歩くしかないんでしょうか?」
沈黙が破られた。口火を切ったのはCだった。
「当たり前よ。お兄さんは多分もう知ってると思うけど、世の中には良いことと嫌なことがあって多分嫌なことの方が多いんだよな。でも腐っても仕様が無いからね。辛抱強く歩くしかないよ。足を動かしてりゃ前に進むんだからさ。」
眼鏡をかけた禿げ上がった男が思い切り笑ってCの背中を叩いた。何故だかCの背中が熱くなった気がした。
しばらくして酒の席はお開きになった。小太りの男に続いて痩せた男もすぐに眠りに落ちた。禿げ上がった男としばらく話していたが、もう話すことも無くなった。
Cは自室に戻って布団に包まった。先ほどの禿げ上がった男性から名刺でも貰えばよかった。名前すら聞いていなかった。明日の朝にでも聞いてみよう。そう目を瞑りながら考えていた。
鳥の囀りが聞こえる。暗黒は一つの太陽によって取り払われていた。Cは大きく身体を伸ばした。そして昨日着ていた服をもう一度着た。靴下はまだ濡れていたが、贅沢を言っている場合ではなかった。朝食の時間だろうか。それも分からない。窓から外を眺めると往来が見える。陽の光が建物に差し込んで地面に影絵を描いている。
「ここを出る前に隣の部屋の人に挨拶しておこう。出来ることなら名刺でも貰ってまた連絡してみよう。」
Cはそう思って部屋を出た。隣の部屋の方に向き直ると、息が止まった。目の前には荒涼とした白い壁があった。Cの泊まっていた部屋は角部屋だったのだ。
昨日の老婆がこちらに近付いてくるのが視界の端に見える。
「おはようございます。朝ご飯の支度が済んでますよ。」
凛とした声が響いた。
「あの、昨日僕以外に誰か泊まってなかったですか?」
「いえいえ、昨日はお客さんしかお泊まりでなかったですよ。久しぶりのお客様だったから嬉しかったですよ。」
老婆がにこやかに答えた。Cは息を吸った。重く冷たい息である。彼は死人のような足取りで部屋に入った。昨日の記憶は夢に違いないと無理にでもそう考えた。
その時である。壁の向こうから大きな喝采が起こった。
「乾杯」
途端にCは部屋を飛び出して、一息に玄関まで走った。老婆が怪訝な様子で顔を見せると荒々しく宿代を押し付けて飛び出した。
村は陽が差してもなお死んだように静まり返っていた。穏やかな朝であった。
あれから何度かあの村を探したことがある。記憶を頼りに同じ道を歩いて、同じように浜の音を聞いた。しかし何度行っても村には辿り着けなかった。村と思われる場所には砂浜と例の石碑があるのみだった。
時折無性にあの禿げ上がった男性に会って話してみたいと思うことがある。男性の言っていた雑誌について調べれば事ははっきりするのかもしれない。しかし未だにその勇気は無い。
思えば今も暗い夜道を歩いているような感覚がある。もうずっと歩いているのかもしれない。
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