第8話 現代のマヨヒガについて

 これは私の大学の頃の話です。私はO府の南の方のかなり田舎の生まれです。ほとんどN県といっても差し支えないような南端で育ちました。遊びに出ようにも近隣に面白いようなところはなく、時折書店で本を買うなり、近くの神社に散歩のついでに立ち寄るのが最大の娯楽でした。電車で三十分ほどでちょっとした都会に出られるため、そこで友達と遊ぶこともありましたが、遊ぶ楽しさよりも移動の面倒さが勝ったために、あまり遠くにいくことはありませんでした。

 大学も近くの大学に通うことにしたため、いよいよ自分の生活圏は限定的なものとなっていました。勿論、友達がいないわけではありません。私には仲の良い友人が二人いましたが、二人とも少しばかり変わったところがために、わざわざ都会に出て遊ぶということもありませんでした。遊ぶとなっても大学近くの居酒屋で酒を飲むなり、喫茶店で珈琲一杯を友に延々と話し込んで、灰皿に吸い殻の山を作るのが関の山でした。

 私がかの山に行く流れになったのは、その友人たちが原因でした。

「お前○○って山知ってる? たしかお前の家の近所だったよな」

 友人のBが思い出したかのように私にそう言ったのが原因です。友人のBは私の友人の中でもかなり変わった男で、当時は誰も形にしないのに映画の脚本を描くことにのめり込んでいました。

「お前って急に突拍子もないことを言うよな。」

 そう続いたのは友人Aです。彼は比較的おかしなところのない人でした。話しの通じる優しい人という印象でしたが、Bの悪戯で酷い目にあうと、思い切り殴りつけるところを何度も見ているため、田舎育ちの私としては怖いとよく感じたものです。

「知ってるけどどうした?」

 私は無愛想に返事しました。Bがさっきのように言うときは決まって何か思惑があるものです。私ももう一人の友人Aも随分と酷い目に遭って来ました。

「あそこに石碑があるらしいんだけど、手も合わせず思い切り蹴り上げたら化け物が出るっていう噂があるんだよ。一回行って検証してみないか?」

 Bがこう言うときは「行ってきてくれよ」と続けることが多いのですが、お誘いとは珍しいと思いました。お誘いなら別に良いと言うことで日取りを決めることになりましたが、Aの予定がどうしても合わないのです。どの日を聞いてもAはバイトだと言います。仕方なくBと予定を合わせようということになり、すんなりと日取りが決まり、ちょうど三日後ということになりました。


 当日の朝になってBから連絡が入りました。熱が出たため行くことが出来ないと言います。お前行ってきて話を聞かせてくれと言うのです。当然そんな馬鹿な話があるかと抗議しました。一人なら行かない、と。しかし行ってくれたら次飲みに行った時に奢るというので、私はそれならと納得しました。石碑を思い切り蹴り上げると化け物が出てくる、という話について私はあまり信用していなかったですし、そもそも石碑を蹴り上げる気もなかったからです。山に入ってある程度散策し、それらしい石碑の写真を撮ったら帰ろうと思っていました。石碑が見つからなかったら、それはそれでなかったと言えばそれで終わりです。どう転んでも飲み代は請求するつもりでした。


 木々の間から陽の光が差し込みました。思えばもう随分と長いこと歩いています。時折先客たちが通り過ぎると、誰ともなく挨拶を交わします。参道は思っていたより険しいものではありませんでした。昔の誰かが歩き固めた道は、後人の私たちの道のりを随分と助けてくれていました。ただ油断した頃に道が陥没していたり、湾曲していたり、雨も降っていないのに水溜りが出来ていたりと険しい顔を見せるのでした。

 もう一時間近く歩いたでしょう。目の前の木々が開けて一つの広間を作っていました。中央に石碑があるのが見えます。あれが例の石碑でしょうか。人の気配など全くありません。ただ何かの鳥が鳴く声が遠巻きに聞こえるのみです。私はつかつかと石碑に近寄ってじっと眺めました。苔に塗れて元の色がわからないほど薄汚れた長方形の石の塊でした。何か書き込んでいるのはわかります。しかし、それもわからないほど苔に覆われておりました。

「これを思い切り蹴り上げるのか。」

 私は右足を持ち上げてみましたが、あまりにも罰当たりなことだとすぐに足を下ろしました。二、三写真を撮り引き返そうかと思いましたが、何だか不思議と惹きつけられるようなものがあって五分ほどその場で石碑を睨んでいました。鞄から母親が持たせてくれた茹で卵を引き摺り出しました。そしてぼろぼろと細かい破片をこぼしながらに殻を剥きました。昔から茹で卵の殻を剥くのが下手で細かい塵を沢山出してしまいます。その時もそうでした。一通り剥き終えると、大きな殻は木々の中に放り投げました。自然に返っていくだろうと思ったからです。表面に凹凸が出来てしまった卵を口に運びました。

 ぶわっと生暖かい風が頬を舐め回していきます。さして暑くもないのに額から汗が溢れ出るのがわかりました。どこかから動物の匂いが漂ってきます。猪かもしれない。私はそう思いました。というのもこの山、熊はいませんが猪と蛇はいます。辺りを見回してみてもそれらしい気配は一向にありません。

「おーい」

 遠巻きに呼びかけるような声が聞こえます。自分に向けられているのかの判断は出来ませんでした。

「おーい」

 声はなおも続きます。周りに人の気配がなかったため、私に向けられたものだろうと思いました。猪が近くにいるから逃げろと言ってくれるのかと。私が声の主に返事をしようとした時でした。木々が大きく揺れだしました。大きく曲がって全身を揺さぶっています。木々の揺れが山全体に派生して山にいる全てが揺れているようにさえ感じました。

「おーい」

 声が少しずつ近づいてくるのを感じます。鳥が木々の間から飛び上がっていくのが見えます。何かが草を踏みしめる音が聞こえます。私はもう一度辺りを見回しましたが、それでも声の主はどこにもいないようでした。

「おーい」

 気の抜けた声のようでしたが、声が大きくなるにつれて怒号のように山中に響きました。私は恐ろしくなって近くの草むらに身を隠しました。

「おーい」

 草を踏みしめる音が大きくなります。声は相変わらず怒号のようでした。

「おい」

 ぴしゃりと短い叫びが辺りに響きました。足音は石碑の前をうろうろとしているようですが、姿が全く見えないのです。私が捨てた卵の殻がぐしゃりと音をたて踏み砕かれました。

「卵。」

 石碑の前から突然呟くような声が聞こえました。姿は依然として見えていません。

「卵。」

 別の声が聞こえました。声の主はもう一人いるようでした。彼らは口々に卵、卵と繰り返しながらばりばりと音を立てて殻を口に運んでいるようでした。ひとしきり咀嚼する音が聞こえなくなると、また卵、卵と繰り返して辺りを歩き回っていました。

「そこにおるのんは誰?」

 声の主の一人が鋭い声で言いました。私の近くの枝を掴んで固まっていました。

「そこにおるのんは誰?」

 また別の声が続きます。

「見つかったら食われる。」

 私はそう信じて疑っていませんでした。

「そこにおるのんは誰?」

 そう言いながら近くの草むらを手当たり次第に漁っているのがわかります。姿は見えませんが、声と共に草むらが揺れているのがわかります。あと少しで私の方にも手が回るでしょう。私は恐ろしくなって草むらを飛び出して森の中に駆け出しました。

「そこにおるのんは誰?」

 声が叫びと共に私の後に続きます。声は再び怒号のようになって私の後に続きました。随分と走った気がしましたが、実際には三分も経っていなかったでしょう。目の前に小さな家が見えました。生垣に囲まれた小さな日本家屋でした。声はもう随分と遠くに聞こえます。私は門扉をゆっくりと押して中に入りました。戸を叩きましたが返事はありません。庭の方を見ても縁側に陽が当たっているのが見えるだけでした。

 私はもう一度玄関の戸を叩きました。それでも何の返事もありません。何の気無しに戸に手をかけてみると、鍵がかかっていなかったと見えてがらがらと軽い音を立てて開きました。遅れて心地よい鈴の音が聞こえます。

「助かった。」

 内心そう思いました。ここに匿ってもらおう。事情を話せば家主も納得してくれるだろう。一つの疑問もなくそう思いました。恐らく金持ちの少し変わった人が、ここに篭って生活しているに違いないでしょう。私は玄関に座り込んでいましたが、それもおかしい話ですから「すみません」と叫びながら靴を脱いで家に入りました。台所と思われる場所に行くと茶が湧いているのが見えます。私は近くにあった湯飲みにそれを注いで飲み干しました。火のような熱さが喉を伝いましたが、それでも心の底から安堵したような気持ちになったのを覚えています。

「そこにおるのんは誰?」

 遠巻きに声が聞こえました。体が固まって動けなくなりました。声がまた少しずつ近づいてきます。

「そこにおるのんは誰?」

「そこにおるのんは誰?」

 二つの野太い声が少しずつ近づいてきます。私は逃げ出そうと玄関に走りました。しかし、門扉の開く音が遠巻きに聞こえます。慌てて引き返して屋敷の中を見渡しました。どこにも身を隠す場所などありません。ふと近くにあった押入れの中に身を隠しました。

 玄関の戸を開ける音が聞こえました。

「そこにおるのんは誰?」

 声ははっきりと聞こえます。べたべたと足音も続いて聞こえてきました。彼らは屋敷中を徘徊しているようでした。

「お茶飲んだんは誰?」

 台所の方から聞こえました。先ほど私が茶を飲んだのが彼らにもわかったようです。

「お茶飲んだんは誰?」

「そこにおるのんは誰?」

 声は屋敷中に響き渡り、扉という扉を開いていく音が聞こえます。私のいる押入れが開かれるのも時間の問題でしょう。私は体を震わせて南無阿弥陀仏と小さな声で唱えておりました。

「そこにおるのんは誰?」

 押入れが開かれてはっきりとした声が聞こえました。視界の端に屋敷の中の景色が見えます。しかし彼らの姿は依然として見えません。

「そこにおるのんは誰?」

 もう一度声が聞こえました。扉は開け放たれたままです。声は変わらず続いていますが、少しずつ遠のいているように聞こえます。そこで私は初めて気が付きました。私に彼らの姿は見えていませんが、彼らにも私の姿が見えていないようなのです。

 友人のBが言っていたのを思い出しました。

「俺たちに幽霊は見えないけど、幽霊にだって俺たちが見えてる保証はないからな。向こうも俺たちを怖がってるかもしれない。」

 目の前にいるのが幽霊かどうかはわかりません。しかし見えていればとうに捕まっているはずです。

「そこにいるのんは誰?」

「お茶飲んだんは誰?」

 変わらず声は虚空を打っています。

 私はゆっくりと押入れから這い出しました。音を立てないように慎重に立ち上がり玄関に向かいます。畳の間を抜けて板の間に入るとぎいっと軋む音がしました。しかし幸い声の主は庭の方に移動しているようで私には気が付いていないようでした。

 玄関に目をやると私の靴がきちんと並べて置いてあるのが見えます。入るときは並べた記憶がありません。あの化け物たちが並べてくれたのでしょうか。ぼんやりとそんなことが頭を過ぎると、また畳の間から

「そこにおるのんは誰?」

 という声が聞こえました。私は慌てて靴を履き玄関の戸に手をかけました。なるべく音が鳴らないようにゆっくりと戸を開けると、また心地よい鈴の音が聞こえます。その時ばかりは心臓が止まるかと思いました。

「そこにおるのんは誰?」

「お茶飲んだんは誰?」

 声はまだ遠巻きに聞こえてきます。私はゆっくりと玄関を出て門扉を開けると、物も考えずに一足飛びに下山しました。


 Bにはこの話はしませんでした。何故か誰にも話したくなかったのです。私は山に行っていないことにしました。それから何年も経って、田舎の祖父宅に帰省した際に、祖父と酒を飲みながら不意にこの話をしました。

「それは迷家(マヨヒガ)や。昔はよく色んな人が迷い込んだもんでな。迷い込んだら食器を一つ持って帰ってきたらえぇねん。それで金持ちになれるというたもんや。今はもう誰も迷って入り込まんようになったから、色々と変わってしまったのかもしれん。そこにおるのんは誰? って言うてたんやろ。それはきっと誰かに来てもらって自分のことを思い出してもらいたかったのかもしらんな。」

 そう言って祖父は酒をぐいと口に運びました。

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