第7話 イケノサカの怪

 これは少し古い話である。戦前の話だ。私の祖母の父、つまり曾祖父さんの体験した話である。母伝いに聞いた。

 N県のある地域は今となってはしっかりとした地名を与えられて広く普及しているが、戦前はイケノサカと呼ばれていた。文字通り池と坂しかなかったためである。私の祖母の実家はイケノサカで養鶏場を営んでいた。話を聞く限り、当時としては比較的裕福だったのかもしれない。戦中は何かと不自由なことも多かったと聞くが、祖母曰くN県には歴史的な遺産が多いため空襲されることはなかったらしい。

 実家が養鶏場だったために、祖母は鶏肉を食べることが出来ない。養鶏場の人が鶏肉が苦手というのもおかしな話と感じるかもしれないが、父親が鶏を絞める様子を目の当たりにしてしまったらしい。幼少期の記憶というのはいくつになっても強く残っているもので、未だにチキンも唐揚げも、視界に入ると嫌な顔をする。

 余談ながら祖母は蛇も苦手である。テレビに映っているのを見ても悲鳴をあげて顔を覆い隠すほどだ。理由は少し記憶が曖昧になるが、祖母が子供の頃、近所で若い奥さんが高熱を出して倒れたという。長いこと熱にうなされていたのを家人が献身的に看病していた。家人が家の用事をしていると、天井の梁を伝って蛇が入ってきた。するすると梁を滑り、奥さんの真上まで来ると、身体を垂らして奥さんの目と鼻の先まで迫ったそうだ。奥さんと目が合い睨みつけていたという。家人が追い払おうと一歩踏み出すと、蛇はまたするすると上っていき、梁を伝って逃げてしまったそうだ。奥さんの様子を窺うと支離滅裂なことを叫んでばたばたと暴れまわったという。それ以来、その家の奥さんは発狂して戻ることはなかった。祖母にとって蛇はただの爬虫類ではない、何か恐ろしい存在だと感じているのかもしれない。

 これも余談ながら、祖母が唯一嫌がらない蛇の話がある。戦後建てられた祖母宅には神棚があって巳さん(ミーサン)と呼ばる神様をお祀りしていた。商売をしていたのでその兼ね合いもあったのだろう。引っ越しの際にその神棚も一緒に引っ越しさせるために神社の方に来ていただいて御祈祷をしていただいた。当時は祖父、祖母、叔父の三人家族であった。神棚を車に乗せて新居に向かっていたそうだ。

「こんな大層なことしてるけどこんなん何の意味があるねん。」

 叔父が吐き捨てるように言うと、祖父と祖母が慌てて否定した。しかし、叔父はしきりに神様なんていないと言い続けていた。そうこうしているうちに新居に到着する。神様などいないと公言した叔父が真っ先に車を降りる。祖父祖母が続く。荷物を下ろして門扉を開けると、細長いこじんまりとした庭が目に入った。小さな木がいくつかあるだけでまだ殺風景な庭である。歩くのに一分もかからないほどの小さな庭であるが、祖父祖母には誇らしかった。

 叔父が勇ましく庭に一歩踏み出すと、庭の奥で白い蛇が顔を覗かせた。小さな子蛇ほどの大きさだったという。新しい住人の顔を見もせずに、ゆっくりと彼らの前を横切ったそうだ。祖父たちは叔父に「な、いるって言うたやろ?」と得意げに言ったという。

 祖母曰く、巳さんというのは本来巨木の幹のような太く大きい姿をしているが、その姿だと怖がらせてしまうから、小さな姿に化けて「いるよ」というのを伝えに来たのだそうだ。

 余談が長くなってしまった。

 祖母は戦後の混乱を生き抜いて、スーパーの小分け用のビニール袋の生産工場を切り盛りしながら、祖父と共に子供三人を育て上げた。


 前述の通り、祖母の父は養鶏場を営んでいた。近くで誰かが病気をしたら、保存していた卵をいくつか箱に入れてお見舞いに持っていくと大層喜ばれたという。

 その日も近所で祝い事があるということで、届け物をするために近所の友人宅へ向かっていた。今のように車もなかったため、リアカーを引いてゆっくりゆっくり荒れた道を進んでいた。イケノサカの名の通り、池と坂ばかりの殺風景な田舎である。今のように狭い土地に家を敷き詰めるような様子ではなかった。坂をいくつも超えて少し息を荒くしながら進んでいると、道なりに池が見えたという。太陽の光が池の水に反射して綺麗な光を放っている。ふとリアカーを置いて池を見ると、澄んだ水が池の底を映し出していた。思わず息を呑んだという。視線をあげて池の中央を見ると蓮の花が一輪咲いているのが見えた。薄い色の花びらの間から、鮮やかな花托が黄金色に輝いているようであったという。小さな蓮の花が宝石のように見えた。

「あれを取りにいきたい。」

 曾祖父さんは強くそう思ったという。しかし今はお使いの途中。あそこの花は宝石のようでたいそう価値があるように思えるが、だが今は人が待っている。曾祖父さんは必死に考え込んだ。なにしろ今より娯楽の少ない時代である。一輪の花の美的価値は今よりもずっと大きい。考えあぐねた結果、今はひとまず届け物を先に終わらせようということになった。

 友人宅に着くと祝い事の真っ最中であった。荷物を渡して辞去しようとすると、友人がしきりに食事をしていくよう勧めてくる。蓮の花のことが頭にあったが、せっかくの祝いの席を白けさせるようなことはしてはいけない、と思った。

「よばれるわ。(※奈良の方言でご飯をいただくの意)」

 と曾祖父さんは快活に答えた。少しばかり赤飯とご馳走を食べた。

 今度こそ辞去して帰りの道を急ぎに急いだ。もはや何の迷いもなかった。荷物のないリアカーは来た時よりもずっと軽く感じた。小走りに荒れた道を進むと、先ほどの池が見えてきた。

「これでやっとあれを取れるぞ」

 荒い息と共に池の前にリアカーを止めて池を見ると、全身の血が凍りついたように固まった。

 目の前にあったのは真っ黒に汚れた殺風景な沼があるだけだった。恐る恐る沼を覗き見るが、底など見えるはずもない。次第に陽も落ちてくる。遠巻きに烏の鳴く声が聞こえる。曾祖父さんは足早に帰路を急いだ。

 帰路、曾祖父さんはよくよく考えた。

「自分はさっき赤飯を食べた。だから助かったのだ。」

 今となってはあまり聞かない話だが、祖母曰く、赤飯には不思議な力があると信じられていた。不思議な力で邪悪なものを遠ざけることが出来ると言われていたそうだ。曾祖父さんは友人宅で赤飯を食べたから助かったが、食べていなかったらどこかへ連れて行かれていたかもしれない。

 奈良の田舎、イケノサカでの出来事である。

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