第2話 落日の約束

 大友氏は猟銃を片手に野山を蹂躙していた。鳥、鹿、目についた生き物は人以外は片っ端から撃った。さりとて熊を一匹も撃っていない。今日は熊の影を見ることもなかった。それだけが今日の収穫の悔やまれるところである。もう少し自分の目がよければ、熊の一匹を見つけるのには、手間がかからなかったかもしれない。「俺も、耄碌したもんだ」力なくそう言って、具合の良い高さの石に腰掛けた。

 すると、向こうの草が揺れたように思えた。緊張感と期待感でもって、大友氏は銃を構えて息をのんだ。

〈たとえ熊であっても、決して撃ち損ずることはない。俺は今までに数限りなく熊を殺してきた。一度でも仕損じることはなかった。よもや、今日は気持ちも十分に整っている。熊を撃ちたくてうずうずしている。今日に限っては決して仕留め損なうわけがない。見ていろ、あの畜生め。数十秒とせぬうちに、心臓と頭蓋骨を粉砕してやる〉大友氏は心中呟いた。

 この男は昔から、野山を駆け回り動物を殺すことが趣味であった。

「俺はマタギだ。」

 大友氏はことあるごとにそう繰り返した。しかし、本来のマタギの精神と、この男の精神とは大きくかけ離れている。マタギの精神の根底にあるのは、自然への畏敬である。しかし、この男にはそんな非科学的なものは持ち合わせてはいなかったし、興味もなかった。どちらかといえば、大友氏は密猟者と呼ぶべきであろう。しかし、この男はマタギを前にして「俺もマタギだ」と言う。それを言うと、誰も彼も大友氏を睨みつけるばかりであった。

 もう一度草が揺れた。向こうには大きな影が見える。毛に覆われた額に、黄色く濁った目。岩のような巨体が蠢いていた。まさしくそれは熊そのものである。その巨体にはいかなる生物をも殺めてきた大友氏も流石に後退を考えざるを得なかった。が、この男の中にある、残虐な性質が首を伸ばすと、もうそれの虜となっていた。

 大友氏は再び銃を構えた。弾は随分前に装丁されている。それで心臓を打ち抜くか、頭蓋骨を粉砕するのである。巨体がこちらを一瞥したかと思うと、立ち上がった。そして大きく咆哮上げ、その赤い口の中で、太い牙を見せつける。かと思うと、こちらを凝視し、蚊の鳴くような声で二度目の咆哮を上げた。大友氏は一度目の咆哮に負けぬくらいの大声で奇声をあげた。巨体がぶるりと震える。目の前の熊がいっぺんに小さくなるように見えた。すると、震える声で「撃たないでくれよう」と懇願するのが聞こえた。目の前の巨体は猫のように丸くなるのみであった。

 最初は熊が発した言葉に一切の疑問も起こらなかった。しかし、落ち着いて考えてみると、実に奇妙である。長い間動物を殺してきたが、一度も動物の声なぞ聞いたことがなかった。時に懇願するような鳴き声をあげるものもいたが、それは大友の心に一切の憐憫の情を起こすことはなかった。

 なんとなく可笑しく思われて「なんて言ったんだ。よく聞こえなかった」と言ってみた。少しの間静寂が場を支配したが、「撃たないでくれよう」と震える声が静寂の中に響いた。大友氏はいよいよ自分が狂ってしまったものだと思って、愉快なことこの上ない様子であった。

「お前誰だ?」

「俺は鬼熊ってんだよ」

「なんだそれ?」

「妖怪だよ」

「妖怪?」

「そうよ。動物も年食うと妖怪になるんよ。」

「そんなもんか?」

「そうよ」

 何年も動物を殺してきたが、妖怪と出会ったのは初めてであろう。早速鉄砲で撃ち取りたいという感覚が彼を襲ったが、それを極力抑えるようにつとめた。しかし、幾分か抑えきれぬものがあると見え、引き金には常に指がかけられていた。

「なあ、頼みを聞いてくれねえか?」

「どんなもんだい?」

「俺は生きすぎちまったから、もうあとちょっとで死ぬ。別に悔いはない。やるだけやった。ただ、一つ。せめて最後に名前を残して死にたい。兄さんは三家別羆事件って知ってるか? 俺はあの時の熊みたいによ、一花最後に咲かしてみてぇんだ。わかるか?」

「わかるとも、わかるとも。俺にだってそういうのはある。で、俺はどうすればいい?」

「山降りたところにある家知ってるか?」

「ああ、吉田さん家か。」

「そう、そこよ。今日の四時ごろにでもあの家を襲うから、俺が家中の人を食い殺したら、ちょうどいい頃合にあんたが来て、俺を撃ち殺してくれ。」

「撃っちまっていいのかい?」

「いいとも。人を襲えば、どの道殺されるのが道理だ。それなら、俺のことをわかってくれたあんたに撃たれたい。」

「承知した。俺は必ずお前を撃つ。」

「約束だぞ。絶対守ってくれよ。」

 そういって、鬼熊は颯爽と姿を消すと、後には大友氏が鉄砲を構えるのみであった。

〈あの畜生めは面白いことを言う〉

 彼は心中呟いた。彼の心の中にある決心が固まりつつあった。それは一度固まれば揺らぐことのない強い決心であった。


 時計が四時をうった。鬼熊は野山を揺らし、爪を見せ付け、咆哮高らかに、吉田家の周りを回って見せた。それは檻に入れられた虎が世話しなく駆け回る姿に似ていた。鬼熊にとっては、最大級の威嚇行為であった。しかし、この鬼熊がいかに気弱な生き物であるかを知っている人がいれば、この光景は滑稽千万に映ったであろう。

 鬼熊はついに心を決めた。二本の幹のような足で立ち上がったかと思うと、その太く鋭い爪で屋根を一閃した。見事、屋根瓦は風に吹かれたように散っていく。そしてついにその巨体を穴の中に埋めた。重力の巨大な熊は吉田家に滑り込む。と、腹が梁の辺りでつっかえた。少しばかりもがいてみたが、なんということはない。ひょいと腹を引っ込めて見れば、思いのほか容易く進入出来た。

 まず、家の中で吼えてみた。それから、家具を投げ捨て、床を踏み鳴らす。壁にぶち当たってみれば、瞬く間に大きな穴が開き、その身が投げだされるかと思われた。

 とにかく、家中を一周してみなければなるまい。一人でも犠牲者を出さねば、恐らくは明日の朝刊の一面を飾るのは到底無理だ。ドアと呼ばれるものは構造がわからぬから、とりあえず吹き飛ばして前に進む。台所には美味そうなものが山ほどある。たとえば西洋から伝わってきた、チィズと呼ばれる食べ物。がっと口に入れると鬼熊は悶えた。味覚と嗅覚を封じられたかと思われるほど、強烈な匂いが押し寄せたのだ。どこか奇妙な味だったが、落ち着いてみれば非情に美味である。

〈こんなものがあるなら、もう少し生きてみてもいいのかもしれないな。〉

 鬼熊は腕を床に振り下ろし、目をぱちぱちと瞬かせた。そして一つ唸ってからゆっくりと深く息を吐いた。

 窓から往来のほうに目をやると、どこにも人通りがないのがみえる。

 戸を破り、ガレエジと呼ばれる駐車空間へと躍り出る。と、突然に「撃て」という鋭い叫びが聞こえた。その瞬間である。四方八方から、鉛の玉が放たれ、鬼熊の巨体に突き刺さった。長らく生きた熊の物怪は瞬く間に肉塊へと変わった。

 大友氏は何十人と猟師を後ろに従え、この妖怪の死をほくそ笑むように凝視した。

「ほら、俺は言ったでしょう。四時ごろに馬鹿でかい熊が来流って。実際来たわけですからね。僕のことちょっとは熊撃ちとして認めてくださいよ。」

 猟師の一人が大友氏に鋭い目を向ける。大友氏は構わず続けた。

「一応吉田さんには避難してもらったからよかったものの、俺がいなかったら死人が出るところだったんですからね。」

 その日は夕陽があまりにも赤かった。痛いほど目にこびりついた。

 鬼熊は薄れ行く意識の中で

「人間とは約束をするべきでない。」

 そう今さらながらに悟ったのである。

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