十ノ物語
辻岡しんぺい
第1話 新三と大魚
随分と古い話である。まだ日本人が奇妙な髪型をしていたころのことだ。
酔いどれ新三(しんざ)はもう太陽も高く上ったころに目が覚めた。昨日は酒を随分と飲んだが、不思議と気分は悪くない。もうこんな生活が2年ほどつづいているが、本人はこれで結構満足しているものだから、改める様子は微塵もない。回りの年寄や、女房連中が回りでぎゃんぎゃん騒ぎ立てているが、本人は一向、気にも留めず、毎日毎日酒ばかり飲んでいる。
この体たらくを諌めてくれるような女房もおらぬ。女房はちょうど2年前に死んだ。いつものように海へ牡蠣を取りに行って、仲間の海女に
「見覚えのある人がおるよ。誰だったかねえ」
そう言い残して深く潜り、夕方には浮かんでいる姿を見つけられた。女房のいたころは酒も飲まず、身を粉にして働いたものだが、ちょうどその日は、なんだかどうしても海に行きたくない心持になり、女房には行ってくると言い置いて、子供の頃よく遊んだ洞窟に隠れていた。無論、通りを歩けば誰かに見られるような狭い村。女房の耳には
「おしんさん、今日はどうしたんだい?」
という意地汚い問いかけが届かぬわけがない。もしそうなったら、新三はとことん謝って謝りぬこうと思っていた。ところが、その日のうちに女房に謝る必要が無くなった。いや、未来永劫謝る必要が無くなった。あの日から、たった一日、一時の気の迷いが、今の今まで延々と続いている。
なんのきっかけもないと昼まで寝ていることが多くなった。この日もやはり新三は、高々とあがる太陽を薄暗い家のなかから、恨めしそうに瞼を持ち上げてにらみつけた。
外はやけに騒がしい。女どもがぐずぐずと話している声が聞こえる。新三はぬっと玄関から顔をだした。太陽がやけにまぶしかった。
この頃は新三も遠慮も何も無くなってしまったから、極めて素直な感情でうるさいと怒鳴りつけた。
いざ彼らをみると年寄含め、4、5人の女たちがジッと新三を睨み付けていた。もはや女たちも遠慮がない。輪の中にいた猿のような顔の女が
「なによ」
と新三に噛みついた。
「寝てる暇があるなら、仕事しなさいよ」
猿のような顔の女が噛みつくと、他の者が賛同した。新三はたまらなくなって家の中にひっこんだ。しばらくは女どもが新三を罵倒する声が続いたが、しまいに思考の混乱故か、女の一人がわけのわかないことを言い出して、どっと笑い声がおこると、どかどかと足軽の行進のようにどこかに消えていった。暗闇の中、新三はものに憑かれたように虚空を眺めながら座っていたが、よろよろと立ち上がって再び玄関から顔を出した。通りは思いのほか静かであったが、浜のほうはいつになく騒々しい。
と、若い男が新三の目の前を横切っていった。
「おしんさん、みんな困ってるんです。ちょっと手伝ってやってくださいよ」
「あ?」
新三が応えた。
「龍があがったんです。人を食っていた龍が」
そう言い終わるか終らぬことには、男の姿は遠くに浮かぶのみであった。
この男、「新三さん」と随分気安いが、困ったことにこの男が誰なのか皆目見当がつかぬ。しばらく思案していたが、いくら考えても思い出せぬ。その間にさきほどにも増して浜が騒がしい。新三は意を決して浜の方へよたよたと歩き出した。
細いくねった道を抜けると、あけっぴろげた海が見える。薄汚い格好の男たちが寄り集まって思案していた。が、新三の姿をみかけると、その寄合の目は一斉に新三に向けられた。ざぶんざぶんという波音に交じって、輪の中からおしん、おしんという声が聞こえる。
新三は彼らのことなど一向構わなかった。さきほどの若者が言っていた「龍」が目の前に横たえていたのである。
いや、龍ではない。それはあまりに大きな鱶(ふか)であった。身の丈がおよそ4間ほど。近くに見える家が小さく見えるほどだ。体には無数の銛、槍、鉈、斧、その他、ありとあらゆる刃物が突き刺さっていた。無数の刃物には村人たちの怨念がこもっている。その下には大きな地図のように血の海ができていた。砂も血を吸いきれなくなったようで、近くに行けばぴちゃぴちゃと水たまりを踏むような音がする。新三はぴちゃぴちゃと音を立てながら鱶の傍によった。
まだ息があるようで、小刻みに口をぴくぴく震わせ、血を流し続けていた。真っ黒な目はうつろに光っている。
新三はじっとその姿を眺めていたが、柄にもなく
「お前も気の毒だなあ」
と言った。
「気の毒なんてことはない。同情するなら海に返してくれ」
鱶が応えた。新三は血の海に転げ込んだ。
どのくらい鱶の方を見つめていただろうか。
「どうしたお前、海に帰りたいか」
と新三が問う。鱶は何度も口をぴくぴくと動かしながら
「そら帰りたい。ここは辛くてたまらん」
昨日飲んだ酒のせいか、新三には鱶が口を利くのを何とも思わぬようになった。新三自身、近頃、畳の上を小人が駆けていくのを見たところである。
「海に返してやろうか?」
新三が鱶の目をのぞき込むようにしていった。鱶はまた口から血の塊を吐き飛ばし
「頼む。俺だって死にたくはない」
「ちょっと待ってろ」
新三は鱶の巨体に手をかけ、ようよう持ち上げようとするが、どうあがいても持ち上がらぬ。しまいに鑢(やすり)のような皮膚のせいで新三の手の皮がずる剥けに擦り剥けてしまった。ごつごつとした指から血がにじむ。不思議と痛みはなかった。まだ酔っていたのかもしれない。
新三は息を切らせて額の汗をぬぐい沈黙した。
「いいよいいよ、もういいんだ。お前の気持ちだけで十分だ」
「そらあ、悪かったな。でもよ、お前が死ぬ前に一つ聞いておきたいことがある。お前は何者なんだ?」
鱶の目が少し落ちくぼんだ。
「俺は海のぬしだった。海じゃ俺にかなうやつはいなかった。北じゃ鯨を食ってやったし、南じゃ船を一つ沈めてやったこともある。人間なんて俺にとっちゃちょろい生き物よ。ところが、人間は生意気なやつが多くてな。俺たちみたいな大きな力を自分たちでなんとかなると思っていやがる。だがな、あいつらがいくら浜に砂を埋めても海の形はかわらねぇ。あいつらがいくら餌をまいても魚の数は増えねぇ。俺たちはそんなに都合良くできちゃいねぇ。だから俺はここで人間を片っ端から食ってやった。腹が減ってようが、減ってなかろうが、関係なかった。目についたやつは全員食った。年寄子供、関係無しだ。俺はなんでもかんでも殺してやろうと躍起になってた。思えば殺すことを楽しんでいたのかもしれんな。ここでこうして血まみれになっているのも当然の道理なのかもしれん。だがな、殺すことは楽しいのだ。憎々しい敵を殺す。これは楽しいのだ。お前らも魚を釣ったり、獣を撃ったり、虫を叩きころしたりするだろう。ほれみろ。殺すことは楽しいのだ。
白状するがな、俺はもともと人間だったのだ。それも大きいのと小さいのを腰にさした立派な身分だった。そのころから殺すことは楽しかった。夜、辻に隠れていろいろな人間を切ったっけ。それからな、あるときは長屋に火をつけてやったこともあった。子虫みてぇに逃げ出すのを切って切って切りまくったよ。だが、俺は大小さした立派な御身分。だれも俺を罰することはできなかった。皆泣き寝入りだ。ところがだ。その日はいつものように辻に隠れて太った婆を袈裟がけに叩ききった。満足して屋敷に帰り、一杯やって寝たが、翌朝、起きてみるとどうにもおかしい。俺は海の中にいたのだ。俺だってどう説明していいのかわからん。しかし、お天道様というのは見てるんだな。殺すのが楽しい俺には、人間の姿はいらねぇと思ったんだろう。こうして俺は今や畜生のご身分だ。
だけど、お天道様は俺が殺すのを楽しんだから畜生にしたのなら、俺だけじゃねぇ。みんな殺すことを楽しんでるはずだ。この村の人間だって俺を殺すことを楽しんでるだろう。なのに俺は畜生になって、お前らは畜生にはならない。お天道様も酷なことをなさる。
海の中じゃあ龍と言われていても、陸じゃあ蛆もたかりゃしねぇ。自分でもよくわかってるつもりだ。俺はもう駄目だな。しかし、お前の心意気には感謝しているつもりだから、一つだけいいことを教えてやろう。俺は死ぬ前にとんでもねぇくらい大きな波を呼び出してやった。今日から三度、太陽が沈んだ朝に足音高くやってくる。せめてお前さんだけでも逃げることだ」
こう言い終わるか終らぬころに、鱶が血をのどにつまらせた。力なくもがいていたが、やがて1度大きく痙攣し、
「こいつは地獄だ。そうだ地獄だ。」
そう苦しそうに呟くと、消え入るように息を引き取った。
それから新三は村の人間に大波を知らせて回った。酒を飲むことも忘れ、必死に必死に駆けずり回った。しかし、誰一人新三のことを信じる人間などいなかった。あの鱶は龍どころではなかった、本物の悪魔であったと主張したが、誰も信じなかった。挙句、鱶に旦那を食われた女が人を馬鹿にするなと殴った。
結局、彼らには新三の必死の姿など、酔っ払いの戯言にしか見えなかったのである。新三は絶望した。本当に絶望した。酒浸りの間に味わうはずだった全ての困難が降りかかってきたように思えた。
結局、新三は二度目に太陽が沈んだ晩に村を出てしまった。
それから、かの村が海に沈んだという知らせを風の便りに聞いたのは早かった。
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