ここにない
文長こすと
そこに書かれたことばは遵守しなければならない。何を差し置いでもだ。いいか、それが仕事と言うものだ。それが信用を培うということだ。
そうやって右も左もわからない内から吹きこまれてきたものだから、わたしはこんなどうしようもない感じになってしまったのでしょう。
少なくないお金と共に取り交わされた契約に書かれていることを確かめる。何をすべきかをことばにする。考えたことを数にして、ことばにする。全部、ことばにしていく。
「ここの伸び率は現状維持としているんですよ」とわたしは言う。
「それでは目標に届きませんよね。再検討してください」と机越しに向き合った相手は返す。
「ではこうやるのはどうでしょう。ここをこうして……これなら15年後の伸び率は現状から1.8倍」とわたしは言う。
「でもその根拠は?」と相手は返す。
「A社へのヒアリングです。将来の見通しについてこう仰ってましたから、その目標値を適用すると……」
「それだけでは薄弱ですよ。一企業がたまたま言っただけでしょう? 解説書にはどう書かれています?」
「解説書にはそんな細かいことまで書いてませんよ」
「それって、なおさら信憑性がありませんよね」
「何でもかんでも解説書の通りにやらないといけないわけではないんです。この方針で行くと決めて頂ければそれでいいんですけど……」
「他に参照できる指標はありませんか?」
「他になかなかないのでこの方法はどうかと申し上げたんです。これまでもお話している通りですけど、伸びを優先するなら強引な設定になってきてしまうのは仕方ないと思います」
「それではこちらも中で説明できないんです。もっと根拠を補強してください」
「根拠と言われても、そもそもその本局の言われるその目標設定が現実的なのか、という話もありますよね?」
「そこは動かせないので知恵を絞ってほしいと言ってるんです。御社にはそれを期待しているんですよ」
根拠ね。じゃあ、未来人でも探してきましょうか。パラメータ挿しまくったヤマアラシみたいな推計モデルでも作ればはったりがききますか。
つま先が折れたっていいから、思いっきり蹴り飛ばしてやろうかと思った。
おんぼろ小学校の忘れ去られた教室みたいな薄暗いぼろぼろの会議室の、ちょっと体重かけただけでギシギシうるさい無造作なダークブラウンの貧乏くさい打合せ机を。
そして、デスクワークしかしていないくせに鎧みたいに作業着を来たわたしを。
ついでに、何も決められず根拠がどうのこうのと繰り返すこの女を。
お互い年齢だって変わらないのにさ。腹割ってできることとできないこと、意味のあることと意味のないことを話し合えばいいじゃん。なんでそうしないんだろう。上長のおっさんが同席してる時は借りてきた猫みたいにしてるくせに。
「麻木さん」と女が言う。
「何でしょうか?」といらいらしてわたしが返す。
「こちらもなかなか先が見えないんですよね。上にもどうするか話をあげたいので、追加でケース別に算出してほしいんです」
「追加でケース別というのは?」
「あの、それをご提案ください。例えば施工順でも関連費用が変わってくると思いますし、整備範囲をここまで広げた場合とそうでない場合とか……一度網羅的に整理した方がいいと思うんです」
「今からですか? 算出条件は先週の打合せで確認させてもらったかと思うんですけど。佐田川課長もあの場にいらっしゃいましたよ」
「でも結局それをして頂かないと、個別の需要の伸びを突き詰めるしかないですよね。ストーリー自体を組み変えれば楽に伸ばせる可能性もあるんじゃないですか?」
「まぁ、それは……」
「明日までに一度案を整理してもらえますか?」
心の中でどれだけ吠えて暴れたって、わたしはいつも断り切れない。ださすぎる、と自嘲して溜飲を無理やり切り下げる。いいのかよ、明後日には別件の作業締切だってあるのに。
そんな打合せを閉じた後、事務所の寂れた玄関から外へ出た。来た時よりも膨らんでしまった宿題が後頭部にねばねばと粘菌みたいにまとわりついているようだった。
16時半。ぎりぎりだけどまだ戻れる時間だし、同時に戻らなかったとしても言い逃れできる時間でもある。
トレーラーぐらいしか通らない寂れた海辺の事務所は、その四方を空き地あるいは物流ヤードが取り囲んでいる。
海が近いのに、ここは潮の臭いが何もしない。
ちょうど、わたしがつくる計画と同じ。
生きてるのなら臭いがする。死んですぐなら腐臭もする。そういう全てがここにない。
きっと、ことばだけを守ろうとするからだ。ことばの先にあるはずのものは、忘れたふりや気づかないふりをする。そうする方が楽だから。それは自分のしごとじゃないから。あの女もわたしもそう考えている。貴重な人生の時間と心身の力を賭けて、それに自覚的だと悟られないためだけの芝居を延々と繰り返す。
だからこの乾き切って朽ち果てた枯れ枝のような何ものかの表面にガリガリと小石で落書きする程度のことが、さも立派なしごとかのように思い込んでいる。
そうして、「送迎」表示を灯したタクシーが玄関前の駐車場に入ってくる。私の目の前で後部座席のドアをぽすんと開けた。
乗り込んで、最寄りの駅を告げる。
同時にスマートフォンが震えて、あの女から「提供資料」と称したがらくたのようなExcelファイルが送られてきたことを知らせる。舌打ちしてスマートフォンを鞄に突っ込んだ。
バタン、と。
タクシーのドアがひとりでに勢いよく閉まって、車体ごと鼓膜と体がぐわんと揺れた。
たったのこれだけだ。この腹立たしい約2時間で、くたびれたわたしの感覚を確かに揺さぶった、嘘もごまかしもないものは。
すぐにタクシー車内の臭いが鼻につく。何度嗅いでも嗅ぎなれない、何かを覆い隠すような塩ビの強い臭い。
クルマ酔いになりそうだ。1秒でも早く、わたしはここから降りたい。
──了──
ここにない 文長こすと @rokakkaku
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