危ないので眼鏡をかけよう

烏川 ハル

危ないので眼鏡をかけよう

   

 休日の夕方。

 沼田ぬまた信貞さだのぶが駅のホームで電車を待っていると、十両編成の列車が入線。停車した車両の扉が開き、彼は乗り込もうとしたのだが……。

 窓に貼られたピンクの表示が気になり、ふとその足を止める。「女性専用車両」と書かれていたのだ。


「色々と面倒な時代になったものだな……」

 小さく独り言を口にする。

 女性専用車両なんて、沼田が子供の頃には存在しなかった概念だ。

 男性の乗車を禁じて、女性のみが乗ることの出来る車両。ただし「男性の乗車を禁じる」といっても強制力はなく、またそのような運行方式は特定の時間帯に限定されているという。

 基本的には、通勤や通学で混雑する時間帯だけのはず。平日に限った話であり、今日みたいな休日は無関係。いちいち表示を剥がしたり貼り直したりするのが大変だから、窓に付いていただけだ。


 そう考えたものの、それでも沼田は「女性専用車両」に乗るのを躊躇する。

 もしかしたら運用時間の話などは無視して、いつであれ「女性専用車両に男性が乗ってきた!」というだけで騒ぎ出すような女性が今この瞬間、中に乗っているかもしれない。

 だから彼は、わざわざ一つ隣の車両に乗り込んだのだが……。


 ザッと見たところ、車内はいていて、混雑時の半分も乗っていなかった。

 いているシートもたくさんあり、その一つに座れば、一息ついた気分になる。しかし、改めて車内の様子を見回すと、沼田は妙な違和感を覚えた。

「なんだ、これは……?」

 自分以外の乗客が、全て眼鏡を着用していたのだ。


 目がいいのは、沼田の密かな自慢だ。遠くも近くも、裸眼ではっきり見える。同年代の友人の中には、元から目が悪かった者だけでなく、早くも老眼鏡を使い始める者も出てきていたが、沼田には一切必要なかった。

 近頃は子供にも眼鏡が増えてきたようだ。スマホやテレビ、パソコンやゲームなどで目を酷使するせいだろうか。沼田にしてみれば「これだから、最近の若い者は……」と言いたくなるほどだった。

 しかし、心の中でそんな苦言を呈している場合ではなかった。最初に「自分以外の乗客全員が眼鏡」というだけでも異様だったのに、次の駅でも、さらに次の駅でも、その車両に乗り込んでくるのは眼鏡をかけた人間ばかりだったのだ。


「なんで私が、こんな目に……」

 眼鏡に囲まれて座っているのは、ただそれだけで、何となく居心地が悪い。もちろん眼鏡そのものに罪はないのだが、まるで自分が異物であるかのように感じてしまう。

 その感覚は大袈裟な、独りよがりな被害妄想ではないのだろう。実際に沼田は目立っていたらしく、乗客の何人かが彼の顔を――特に彼の目がある辺りを――見ながら、何やらヒソヒソと声を交わしていた。


 幸い、沼田の電車移動は、わずか三駅の区間だけ。体感時間としては何倍にも感じた十数分ののち、彼は背中を丸めながら、逃げるようにして列車から降りるのだった。


――――――――――――


 駅の改札を出ると、既に辺りは暗くなり始めていた。

「日が落ちるのも早くなったものだな……」

 季節の変化に想いを馳せて、沼田は呟く。

 しかし「季節の変化」みたいな風流よりも、彼の頭を占めるのは、先ほどの車内の様子。降りた後でもつい考えてしまうほど、あの眼鏡だらけは異様に思えたのだ。

「なんだったんだ、あれは……?」


「やはり社会の変化が原因なのだろう。目を悪くする環境の増加……」

 ぶつぶつ呟きながら、住宅街を歩く沼田。

「……まったく、けしからん話だ。これでは眼鏡メーカーが儲かるだけではないか。若者の未来は、日本の未来は明るくないぞ!」

 もしも周りに誰かいれば恥ずかしくて、彼もそんな言葉は口に出来なかっただろう。

 しかし実際には、誰一人として歩いていなかった。まだ寝入るには早すぎる時間なのに、誰もが家にこもっているようだった。

 これはこれで、なんだか不思議な気もする。ちょうどその点に思い至ったタイミングで……。

「け……。う……」


 後ろから人の声が聞こえてきて、沼田はハッとする。非常に聞きづらい、くぐもったような声だった。

 慌てて振り返ったが、人の姿は見えない。数十メートルくらいの距離まで、曲がり角もない一本道なのに、影も形もなかったのだ。

「なんだ、今のは……?」

 声はすれども姿は見えず、というのは、昔から怪談などでよくある話だろう。お化けや幽霊のたぐいだ。

 しかし、そんなものが実在するはずはない。ならば、空耳だったのだろうか。あるいは、どこかの家で視聴中のテレビの音声が、ほんの一部だけ、外まで聞こえてきたのだろうか。

 まるで何かを振り払うかのように、軽く頭を左右に振ってから、沼田は再び歩き出した。


「けん……め……。う……やま……」

 また声が聞こえてきたのは、それから数歩も行かないうちだった。

 先ほどよりも若干音量が上がっている。つまり近づいているらしいが、振り返ってもやはり誰も見当たらない。

 さすがに怖くなってきたけれど、あえて気にしないことにする。無視するかのように、沼田は前に向き直ったのだが、まさに瞬間。

「健康な目……。うらやましい……」

 同じ声が、今度は耳元から聞こえてくる!

 しかも大きく、はっきりと!


「誰だ!? 姿を表せ、卑怯だぞ!」

 自分でも空元気からげんきなのは承知しながら、怒鳴りつけるみたいにして叫ぶ。

 同時に沼田は、三度みたび後ろを振り返ったのだが……。

 今度も何も見えないかと思いきや、そうではなかった。

 人の姿は相変わらず見当たらないものの、もやもやした影のような存在があったのだ。人間大のサイズで、頭や手足に相当するような出っ張りも見えていた。


 驚く沼田に、それは覆い被さってきた。

 その瞬間、目に激痛が走り、沼田は叫ぶ。

 これまでの彼の人生で最大の悲鳴だった。

「ぎゃああああっ!」


――――――――――――


 沼田は近所付き合いに疎く、だから知らなかったのだが……。

 彼が住んでいる辺りでは最近、何者かに襲われて失明するという事件が頻発していた。その被害者は、視力の高い者ばかり。

 近隣住民の中には、裸眼と間違われて襲われては大変と考えて、コンタクトレンズから眼鏡に切り替える者も出てきたという。




(「危ないので眼鏡をかけよう」完)

   

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危ないので眼鏡をかけよう 烏川 ハル @haru_karasugawa

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