三章『境界のない海で』 その二

 控えめに捲りあげたスカートと、その奥の下着と、戸川さんのしっとりとした足を凝視すると、心臓を直接殴られているように鼓動が激しくなる。下の歯が小刻みに震えるような、純度の高い興奮。十歳年下の教え子に欲情するどうしようもない人間の顔が、電話の向こうの鏡に納まっていた。

 自身への深い失望の溜息と共に、電話を置く。

「悪い女はそっちもじゃない……」

 私みたいなのはもう死ぬべきだ。心からそう思う。でも死なない。心からそう思っていないからだ。私のような人間を忌避しながら、私自身は死のうとしない。

 だって、学校に戸川さんが来るから。

 つまり心底酷いやつで、だから、死なない。

 途切れていた化粧を再開する。先ほどまで淡泊だった顔色は季節外れの紅葉めいていた。喚きたてる心臓を生徒みたいに静かにさせることができなくて、ずっと息苦しい。

 生き急いでいる、人生が残り少ないことを承知しているみたいに。

 そう、私はもうすぐ教師ではなくなるだろう。

 でも。

 道を踏み外さないと教え子の下着の色を知ることができなかったなら。

 今の私は、後悔しないかもしれなかった。



 少なくとも私のこれまでは、善良な生き方であったと自負する。それは関わってきた多くの人が健全とか、無難とか、色んな言葉で証明してくれるだろう。犯罪を人並みに敬遠し、否定し、真っ当という表現の上に乗って生きていた。

 その私が今や、立派な罪人だ。犯罪者なんてきっかけがあれば誰でもなってしまうので、思いもよらない人なんていないのだ。ああそれでも言われてしまうのだろう、思いもよらないと。まさか女子高生に手を出す女だとは思わなかったと。果たして誰がそう思えるのか。

 結局善良というものは、常識と感情がちゃんと繋がっているうえでしか成り立たないのだと知った。表面を取り繕う常識と、感情の流出先が完全に乖離していた。だって、常識的に考えて未成年の教え子に手を出すなんて人間の屑だと今もちゃんと理解している。

 だけどその理解は、こぼれ落ちる感情を掬いきることはできないのだ。

 朝のホームルーム中もそうだけど、教室で戸川さんの方を極力向かないようにしている。どうせ無意識に目で追いかけてしまうことがあるから、それくらいの方が釣り合いは取れているのだ。それにしてもお互い、よく平気に素知らぬ顔で同じ教室にいられるものだと思う。

 嘘つくのが下手そうと以前、夫に言われたことを思い出した。それは別に、夫の目が節穴だったわけではない。そのときの私は確かに、虚偽の申告が不得手だったのだ。

 私は今日もいつも通り授業をこなして、同僚と挨拶を交わし、放課後にやるべきことを纏めていく。この間、脳をまるで使っていない。焦点の合っていない目の中を、様々な情報が行き交ってそれを自動で処理している。透明な頭が首の上に乗っているようなイメージだった。

 考えなくても送れるくらいの教師生活だったのだ、基本。疎かにしていたわけではないけれど、慣れというのは時に残酷なほど行動を固定する。頭ではなく、肉体の記憶に頼るだけでもなんとかなってしまうのだった。

 そんな風に丸投げして、心はなにをしていたかというと、もちろん、考えていた。

 彼女のことだけを。

 お昼休み、鐘と喧騒に背を向けて、いつもの部屋へ静かに向かう。授業用の教材を机に置いて座り込むと、燃料が切れたように身体が動かなくなる。心の疲弊がじんわりと、指先にまで浸透していくのを感じた。閉じていた室内の蒸し暑い空気が、気怠さに馴染む。

 あの夜に戸川凛と出会ってからの心の躍動は、疲労と……充足を生み出していた。心はこれまでの人生で意識することがなかった高い場所へと連れ出されて、そこで……綺麗なものを見た。知ってはいけない、楽しいものを見つけた。

 下から、たくさんの声が戻れって騒いでいる。でも、連れてこられただけだから戻り方が分からない。不安はありながら、楽しいものに惹かれて中途半端に幸せになって、いつまでも高い場所にいてしまう。

 扉を控えめにノックする音で、目を覚ましたように顔を上げる。

 灯がともる。

 明るくを超えて、目の前が眩しくなった。

「どうぞ」

「お邪魔しまーす」

「……いらっしゃい、戸川さん」

 今日も戸川さんが、お昼ご飯を持って準備室にやってくる。その立ち姿を正面から見て、下着の色を思い出すと、隠し切れない火照りが目の下で点灯し始めていた。それを見透かすように、戸川さんがにまーっと唇を緩めながらいつもの椅子に腰かける。顔が上げづらい。

「ほんとはね、昨日も来たし今日は来ない予定だったんだ」

「うん……」

 お茶を入れようと立ち上がる。それから扇風機の電源も入れようと一瞥する。

 窓は開けない。絶対に、カーテンにも触れることはない。窓の先が三階から望める空だとしても、外部との繋がりに怯えていた。その心境はまさに、罪を隠そうとする犯罪者の思考そのものだった。

 小さな冷蔵庫の前でしゃがんで、用意しておいたペットボトルの麦茶を取り出す。

「でも、今日はせんせぇが悪いよね」

 傾けたペットボトルが指先から滑り落ちそうになるのを、慌てて掴む。

「いや……最初にあんな質問してきたのは戸川さんだし……」

「生徒がせんせぇに質問してはいけないのですかー?」

「訂正する。あれは質問じゃなくてセクハラ」

 遠くから睨みつけても、戸川さんは足を伸ばしたまま笑っている。

「じゃあ、せんせぇのえっちな自撮りは?」

「……朝もそんなやり取りした気がする」

 お茶を渡すと、人の胸元を不躾にじーっと覗いてくるものだからつい身を引く。

「あれ待ち受け画面にしていい?」

「いいわけないでしょ消しなさい」

「消してってあれせんせが送ったんだよ。消すのはせんせぇ」

 楽しそうに私の混乱を指摘してくる。それはごもっともだった。いやごもじゃない。

「保存した画像を消しなさい」

「してないよー」

「見せて」

「今持ってない」

 あの電話が今、戸川さんの手元にない。それはそれで怖い。

 意思があれば、人はなんでもできる。覗き、窃盗、殺人、不倫。

 その気になったら誰もが人を殺せる世界で、悪意を御して社会を形成している人間という生き物を、私は尊敬する。私は欲望に負けて、その社会に背を向けてしまった弱い生き物だ。

「こんな言い方もなんだけど、わたし、せんせの味方だよ?」

 教師はそんな道を外れそうな生徒を掬い取らないといけないのに、味方と言われて心に温かいものが広がる。この子は、私と一緒にいてくれる。私と一緒にいたいと言ってくれる。

「もっと信じてよ」

 戸川さんが私の頬に手を添えてくる。その指を撫でるように、手を重ねて。

「信じてる。信じてない人に、あんな写真……送らないから」

 私が怖いのは自分の罪ではなく、それが露見して戸川さんと一緒にいられなくなることだった。いずれ必ず訪れるとしても、少しでも先延ばしにしたい。だから、夫にも話さない。

 辞めなければいけない教師を続けている理由は、もう戸川さんしかなかった。

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