三章『境界のない海で』 その一

『先生の今日の下着の色教えて』

『朝の挨拶みたいにセクハラするのはやめなさい』

『授業中の先生を見てこんな色の下着つけてるんだぁって一日を楽しみたいなと』

『授業はちゃんと受けなさい、試験近いのよ』

 まったく、と電話をベッドに放る。慌ただしい身支度の最中に、戸川さんからのちょっかい。

 嬉しくない、わけでもないのだけど。

 こういうところが手遅れなのだろうか。前ならもっと微笑ましく思えたのに。いや生徒と個人的にやり取りしている時点で笑っていられないか。私はどこまで行っても、もう教師失格で反社会的人物で十歳年下の女子に手を出す犯罪者で不倫不貞淫行やりたい放題とべっこべこにへこんでいる。老後どころか日々が霞んで、今にも消えそうな中で息をしている。

 なんで生きているのだろう。なんで化粧をして、当たり前のように学校へ行くのだろう。

 鏡の自分は気まずそうにもしないで、淡々としていた。傷や痛みを知らないような顔をしていた。髪や肌がストレスで痛むこともなく、むしろ最近は以前より手間暇かけて見た目に磨きをかけようとしている。誰から注がれる視線のためになんて、考えるまでもない。

 私は、社会的な死を目前に控えながら、なぜこんな平然と化粧台の前に座っているのか。

 感情が先立って死んでいるのかというと、そうでもなく。

 放り投げた電話が震える。手を伸ばして、忙しいはずなのに律義に確認する。

『わたしの予想だと青』

「……………………………………」

 ここで、思いついたことを実行してしまうのが、私の感覚が完全に別物になってしまっている証拠なのだと思った。指先に焦げるようなチリチリしたものを感じながら、撮影して。

 戸川さんに送信する。

 シャツのボタンを外して、ほんの少し、下着が映るように撮った画像を。

「…………………………………………」

 額を中心に、顔が痛いくらい熱い。

『はずれ』

 一言付け加えてから、火傷のような痛みが頬にまで広まって後悔した。

 こんな自撮りをしたのも、送ったのも、もちろん初めてだった。

 嫌な汗がどんどん出てきて、途中までの化粧がきっと台無しだ。

『先生』

 戸川さんも言葉を失ったように、そんな反応だ。いい歳して、と猛烈に後悔する。

 あと、文字になると戸川さんの『せんせぇ』が硬くなって、胸を強く押してくる。

『えっちな戸川さんはこういうのが好きかと思って送っただけ』

 文字まで早口になっていた。

『えっちすぎるよ』

『こんなの、ヤバい』

『ヤバいよ先生』

『頭ぐるぐるする』

 立て続けに戸川さんの混乱が届く。取りあえず、好評? らしい。そこに安堵する。

 なんだかんだ、私は三十路も近い歳なので、なんというか……不安になるときもある。戸川さんは十代、花の盛りなのだ。肌を比較されるときっと、差がくっきりする。

『ゆーわくしてる?』

「ゆーわく……ああ誘惑ね」

『そういうつもりはないの』

『じゃあ先生がえっちなだけ?』

 否定したいけど、言い返すのが難しい自撮りだった。なんで送った、とまた後悔が増す。

『他の人には絶対送らないでね』

『送る相手なんて他にいるわけないじゃない』

『旦那さん』

『夫とは、こういうことしないから』

 どういうことだろう。そして、居座りが悪い。戸川さんと夫の話をするのは。

 戸川さんが夫をどう思っているのか、その辺は曖昧にして避けていた。どういう答えが来ても私は我が身を引き裂かれるような気持ちになるのだろうと、分かっているからだ。

『先生って、無自覚に悪い女だよね』

『悪い?』

『先生の下着当てテストを間違えたから、この自撮りで予習復習しまーす』

『やっぱり消して』

『やだ』

 よしゅう、ふくしゅう、と呟いて耳の端が裂けるように熱く、痛んだ。

 ああ今日学校に行ったら、教卓に立つ私を見て戸川さんだけが、下着の色を連想する。

 私は素知らぬ顔の中でその事実に、胸を震わせながらホームルームを進めるのだ。

「死んだ方がいい、死んだ方が、死んだ……」

 呪詛も息切れしたように弱い。これまでの自分との落差に涙が出そうだった。

 だけど前屈みに、深く、考え込んで。

 流れ落ちたものは涙なんかよりもっと、澱んでいた。

『戸川さんのは?』

 唾を飲むのも忘れて、喉をカラカラにしながら送る。

 戸川さんのなにをどう指しているのかぼやかす、卑怯な催促に顔を伏せる。肩を抱くように丸まって俯く。求めた自分の欲深さと汚さと浅ましさに頭痛がしてきた。死んだ方がいい、とまた思う。体裁を取り繕おうとする良心はまだ自分に残っていた。でも立て直すほどの元気もなく、ただ騒いでいるだけの無力な存在だった。苦しいからいっそ、完全に消えてしまえば楽になるのかもしれない。でも苦悩を捨てるような私を、戸川さんは認めるだろうか。

 ややあって、その戸川さんから返信が来て、それを見たとき。

 ひっと、奥歯に引っかかるような短い悲鳴が漏れた。

 血の塊が喉に詰まったように、息苦しさと動悸が襲ってくる。

 戸川さんから送られてきたのは、スカートを捲りあげて撮った画像だった。

 誰のスカートか、映っているのが誰の下着かなんて、考えるまでもない。初めて見る、戸川さんのスカートの奥。胸まで揉んでおいて見たことがないという歪な関係。いや歪なのか? 生の胸を見たことがあるのに下着は見たことないのは列に割り込んでいるかもしれない。

 その下着も、見覚えのあるデザインの青いそれだった。

『先生のとおそろい。探して買っちゃった』

「やっぱり……」

 戸川さんの家へ泥酔してお邪魔したときに履いていた下着だった。十代が着飾るには少し地味にも思えるそれが戸川さんのスカートに収まっている。戸川さんの、スカート。

 足。

 アイドルの観劇。

 フラッシュバックする。

 可愛げと下心の反復横跳びで吐きそうだった。

『誘惑してる?』

『わたしはしてる』

 これが画像でよかったと思う。悶々として頭が熱で膨張しそうなくらいで済む。

 目の前で実際にやられていたら、私は、戸川さんは、どうなっていたのか。

『ねぇ先生、今日も昼休みに行っていい?』

 なんてことないようなその一文に、息を呑む。

 昼休みに戸川さんが来るというのは、私たちの間で一種の確認となっていた。

 短い返事を打つだけで、親指が少し震えた。

『どうぞ』

『ん』

 昨日も、と思いながら、こんなやり取りをしてしまったら今日も、となるのは私もだった。

 そもそも、自撮りなんて送って始めたのは私だ。

 まるで誘ったようなもので、実際、そういうつもりがなかったと言えば、きっと嘘になる。

 十歳も年下の女の子と心通わせて、激しく求められることに喜びを抱く。

 その自分が確かに今、ここにいた。

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