二章『落ちていく星を見上げて』 その十五

 戸川さんの艶めかしいおねだりに、こっちの方がよほど汗まみれになっていた。

 こうなることは分かっていた。分かっていたから、来たのに。

「こういうのは……駄目で……」

 理性の切れ端がか細い抵抗をしようとして仰け反って、粘着力を失っていく。

 残った紙切れより柔らかい教師の輪郭が、最後に無駄な抵抗を試みる。

「せんせ」

 戸川さんの声が髪と耳を撫でつけて、優しく私の輪郭を握りつぶす。限界で、あるはずのない巣に引っ込むように身体が引こうとするのを、戸川さんが離さない。

「服、脱がせて」

「……あは」

 終わりだった。拒否する気なら初めから来ないという事実を直視して、諦める。戸川さんのシャツに手をかけて、喉の奥にぐるぐる回るものを抱えながら脱がせる。昨日と違ってシャツは肌に張り付くこともなく、簡単に脱がせることができた。そして、乳白色に光が差す。

 昨日と同じように上半身を裸にした戸川さんを、がんがんに、直視する。

 顔に血が集いすぎて、いくつか血管の切れる音がした。

 脱がせたシャツを力なく落として、ちぎれそうなほど重い肩を動かす。

 今日はタオルも用意していない。手のひらが直接、戸川さんに届く。

「せんせぇの手が、拭いてくれるよね」

 意味が分からないし、建前も取り除かれてしまう。これは、単に。

 戸川さんの身体を、触っているだけだ。ベッドの上で、教師の私が、教え子を。

 十六歳とか十七歳とか一切関係なくこれは、単なる性行為だった。

 私は戸川さんに欲情して、戸川さんはそれを受け入れている。もうごまかしようもなく、私は戸川さんの身体に興奮している。頭痛がするくらい、今の状況に強い刺激を受けている。教え子の、十歳下の女の子に。その子の胸を、掬い上げている。

 私は一体、誰なんだ?

 いつ死んで、生まれ変わって。こんな、ゴミクズの教師になった?

 昨日と昨晩と今目の前にあるものが重なって幾重にも線が描かれて、目が異常を来す。

「……あは、今日は、おっぱいばっか触ってるねせんせ」

 指摘されて、目の下が裂けたように熱と痛みを訴えた。

 犯罪。犯罪、犯罪、犯罪、犯罪と頭蓋骨に悲鳴がぶつかり続ける。その度に眩暈があり、そしてその向こうに十代の滑らかさがあった。それは私の乾いたなにかを満たすに足りる瑞々しさに溢れていた。私の手の動きに合わせて戸川さんの胸が形を変えるのを見たとき、あまりの刺激に思わず逃げてしまう。戸川さんは耳まで真っ赤にしながらも、そんな私を笑う。

「遠慮しないでいんだよ、せんせ」

 ほら、と戸川さんが逃げ出した私の手を軽々と取り。

 手のひらを、戸川さん自身が胸に導く。

 喉から短い悲鳴が漏れて、その後に訪れる手のひらいっぱいの感触に、耳鳴りがした。

 止まれなかった。熱の輪がぐるぐる回り続けて、私を動かしている。

 血のような蜜が頭と胸にどろどろ流れ込んでくる。人の身体を触っているだけで、知らない感情と感覚が次々に湧いてくる。これほどに、自分の内側に流れている血を感じ続けたことはなかった。流れ続ける血液の奔流こそが、人間のすべてを握っているのかもしれない。

 教え子の胸を貪る指にはめた結婚指輪を見て、ざぁっと血の上を薙ぐものがあった。でもそれはなにかを押さえ続けるほどの力はなく、あっという間に再び元通りになる。

 変わる、動く、形が、変わる、動く。

 自分にもあるはずの胸には一切感じないものが、脳の変貌を促す。

 私は、戸川さんの胸を弄る度に一度死に、そして生まれ変わっている。

「…………っ、あ」

 戸川さんが堪えきれない声を漏らしたのを聞いたとき、やっと、警告が灯った。

 これ以上に行っては、駄目だ。この時点でもう完全に駄目なのだけど、それでも。

 どこかで自制をかけないと、人生の破綻が早まるだけだった。

 戸川さんの胸から、腕をちぎるように離す。欲望の糸が粘ろうとするのを、なんとか、ひきちぎる。

「戸川さん、シャツを、着て」

 ベッドに落ちていたシャツを突き出す。

「ちゃんと拭いた、から」

「……うん」

 戸川さんが、一度大きく身を震わせた後にシャツを着る。まだ完治していない病人の服を脱がせて、私は、とんでもないことをしてしまった。シャツを着た後でも、その奥にあるものが見えている気がして、まともに顔をあげられない。

「せんせぇ」

 戸川さんの甘えるような声が、カリカリと心に爪を立てる。

 服を着てもまだお互いの距離は目と鼻の先だった。

「せんせぇのおっぱいも、触らせて」

 戸川さんの目が、抱えた欲求に応じて鈍く光っていた。私の足に手を乗せて、一歩、前進してくる。前に詰めるような距離なんてないのに、更に身体を押しつけてくる。

「わたしだけなしとか、ずるい」

「ずるい、ずるとは」

 私のことでしょうか。ズルしてるけど。こんな子の胸を、思う存分触ったけど。

 教師の立場を利用して。死ね。死んでしまえ。

「今日のことは、忘れるから」

 戸川さんが嘘をつく。

「忘れるなら、いいよね?」

 戸川さんは今、嘘をついている。

 こんなの忘れるわけがない。肉体そのものに刻まれる経験なのだ。

 でも。

 私が触ってこれほどの動悸が訪れるなら。

 逆だったらなにがやってくるのか、と脳が重みを増す。

 なにより、戸川さんもまた私の身体を求めているという欲望に、あてられる。

「服、の上から、なら」

 それがなんの譲歩になるのか分からない、遠回りな受け入れ方だった。

 戸川さんの手がすっと伸びて、でも途中で止まる。私の顔を見てわなわなわなと、下唇が波打っていた。そして、ベッドの上を四つん這いで移動して、私の背後に回り込んでくる。

「後ろから……?」

「せんせぇの顔見ながら触るの、恥ずかしいし……」

「…………………………………」

 私もそうすればよかった。でも後ろからだと、戸川さんの胸の動きがしっかり見られなかったかもしれない。死ね。

 微かに空いているのに、戸川さんの心臓の動きを背中で捉える。

 脇から生えてきた二つの手が、一瞬、震えを帯びながら立ち止まって。

 戸川さんの指が、私の胸に触れる。また一つ、日常を繋ぎとめていた綱が切れた気がした。

 血が雨として降り注ぐように、耳の上で熱い音が跳ねる。戸川さんの指と声が「ふぁ……」と頼りなく震える。今渦巻いているものは、昨日私が通ったものと同じなのだろう。見下ろすと、教え子の華奢な指が私の胸元をしっかりと触っていた。

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