最終話『夕暮れ時が終わらない』

 俺が大きなやらかしをしてしまった日から、数日が経った。

 捻挫した俺の右肩は未だに痛むが、その痛みを感じるという事は、俺が変わらずに、いつも通り右手もつけた時計を見ているという事だ。

 痛みが伴ったとしても、変わらない、変えられないものもある。


――そうして今日も、変わらないいつもの、大事な放課後。


 幸い、あれからヒバは特に何も気にせず接してくれた。ただ、あの日から少し筆に熱が入っている気がする。

「ずりーよなぁ、見抜けんかった俺等もまだまだだけどさぁ」

 あの後改めて俺の利き手の告白を聞いても、そのくらいの言葉を漏らしただけだったが、彼のその目は、もう秋口に迫っている太陽よりかはいくらかギラついて見えた。

「お前はさ、本当に楽観視して生きてるよな」

「んー、『まぁいっか』って思って生きた方が楽じゃんか。自分のやりてー事をやってさ。自分の好きな場所で、好きな人と一緒にいる。それがやっぱ、最高だよ」

 密やかな告白。ハヤは少しだけ顔を赤くしていたが、あえて何も言わずに絵を描き続けていた。それが答えだと言わんばかりに。


 ハヤが描くと言った俺の為の絵はあれから十日近く経っても出来ていない。何枚も完成した絵自体は見たけれど、彼女がそれを完成品だと認めないのだ。

「私が、満足出来ないから……」

 そういうところが、ハヤらしい。だから俺は教訓を込めて、自戒を込めてこういうのだ。

「満足する日なんて、来ないさ」

 今なら、微笑みながらそれを伝える事が出来る。

 実際、満足出来ていないにしても、俺が金になる絵を教え始めるとハヤはそれをすぐに習得し、近々どデカい賞金を狙いに行くようだった。

 自分の絵の完成度について満足は出来ていなくても、そこはそこ、割り切りなのだろう。金になるという自信だけははあるようで、ほっとする。


「最高傑作ってのは、死ぬまで更新され続けるんだからな。むしろ、死んでからだって更新される」

 ゴッホなんて、その最たる例だろう。


 俺は、カタリと二人の前の鉄柵に、俺の絵を置いた。

 利き手で描いた、全力の一枚。

 満足する事は無い、だけれど思い描いた全ての絵の中で、一番感情を込めた一枚。


――長らく、俺に足りていなかった一枚。


 楽観的な天才と、悲観的な秀才が、二人並んで、青空の下で筆を奔らせている絵。


「先生には私達がこう見えてるんですね……」

 ハヤがこちらを睨むようにして振り返る。

「そりゃまぁな。実に写実的、そうして感情的、だろ?」

 頬を赤らめる女の子の視線は、少しだけ左に寄っている。

 それは絵に対する恋なのかもしれないし、服を汚しながら絵を描く隣の彼への恋なのかもしれない。


 きっと、そういうものを一つずつ、この子達は気付いていくのだ。

「それよりもハヤ、俺への絵はどーした? 今日もダメか?」

 俺はハヤから返してもらった手巻き煙草ケースに入れてある、手巻き煙草に火を付ける。右手の痛みにこらえて、改めて作ったものだ。

 どうしてか、そうしなきゃいけない気がして、作っていた。

 

「だから、先生にこんなの出されちゃいつまでも私……」

「分かってねぇなぁ……俺はな! モネもマネもゴッホも好きだけどよ。お前らの絵が一番好きなんだよ!」

 その言葉に二人がバッと、目を見開いてこちらの顔を見た。

 ヒバあたりは筆を落として、ハヤは椅子をガタンと鳴らす程。

「……これがもし嘘を言ってるような顔に見えたんなら、お前らは一回顔洗ってこい。実際な、そういうもんなんだよ。人が描くってのは。AIだのが流行っちゃいるけどよ、人にしか描けねえもんがある。そういうもんなんだよ、きっとな」

 空を見上げ、紫煙が立ち昇る風景。


 きっと、この子達の物語はまだまだ先へと進んでいく。

 その隣に立てるまで、きっと俺達の長い長い一日は終わる事がない。

 俺達という一枚の大きな絵が完成するまで、夕暮れ時は終わらない。

 暗い暗い、夜は抜けた。そうして朝が来てこれからやっと、俺の筆もまた奔り出すのだ。


 ハヤの絵はきっと、これからも綺麗な色彩に彩られている。

 それを俺は知っている。信じている。そうして憧れていた。


 ヒバの絵はずっと、自由に満ちている、感情で溢れている。

 それを俺は持っていない、だからこそ羨ましかった。


 俺の、舘真二という一人の人間の絵は、ではどうだろうか。

 それはきっと俺が、これから見つける物なのだと、そう思った。


「隣の芝生ってよ、本当に青いよな」

 要は生徒に嫉妬する先生という、みっともない構図。

 それでも俺は、自分の世界を、描く事にしたのだ。

「でもセンセ、芝生は虹色でもいいんだぜ?」

 こんな事を言うヤツもいる。

「うん。花畑だって悪くないですよね」

 こんな事を言うヤツもいる。

「じゃあ、俺の芝生はどうしたもんかねぇ……」

 そう言いながら、放課後が終わりかけるとたまに鳴る携帯に、三人で笑った。

『どーせそのうち右手治るんスよね? だから前祝いしましょー、二人も連れて来る事!』

 ココから届いたその文面を二人に見せながら、俺は苦笑する。

 コイツの芝生は、芝を全部抜いて小さなジャングルでも作っていそうだ。


「アイツ、飲みたいだけだろ」

「なんだかちょっと似てますよね、先生と」

 なかなかに心外な事を言われたような気がして、それでもほんの少し嬉しかった。

「じゃあ今日はこんくらいにすっかー! もうちょっとで合宿もあるしな! 俺、ココねーさんの料理好きなんだよな!」

 他意など何一つ無いヒバのその言葉に少しムッとした顔をするハヤに気付いたのはきっと俺だけだ。

 もしかしたらハヤすら気付いていないのかも知れない。

「ハヤ、お前料理は?」

「修行中……です。って何を!」

 密かに聞いて、前途多難のようにも見えたけれど、ヒバは胃袋を掴まれるタイプじゃ無さそうだから心配は無いだろうと、小さく笑った。

「悪い、でも俺は今日行くとこあるんだ。前祝いって言うのに悪いが、先行っててくれよ」

 そうして俺は時計を見てから煙草を消して、右手で花束を持つ。

 それを見て、何も察せない程の子達ではなかった。


――だって今日は、あの二人の命日だから。


 幸いというべきか、二人の墓はそこまで遠く無い。

 だからきっと、すぐに皆と合流は出来るはずだ。


 俺の婚約者だったという事もあったからか。無理を言って、日晴ヒナリは舘家の墓に入れてもらった。だから、二人は同じ墓の下で眠っている。

 綺麗にされているのは、なんとなく気づいていた。

 盆からそう長く時間が経っていない事もあったが、それでも日晴は兄貴の飲酒運転の被害者だ。俺の親あたりはそういうところを強く気にする。気持ちは、分かる。けれどずっと来られなかった墓だ。

「よ、久々。ずっと来れなくて、悪かったな」

 俺は、やっとの事で見つけたハーデンベルギアの花束を、そっと墓石の前に置いて、座り込む。

「話したい事がさ、沢山あるんだよ」

 時刻はもうすぐ夕暮れ時になる。


「しかしさ、花言葉を隠すなんてズルいよな。でもまさか、この俺が花束持ってくるとは思わなかったろ?」

 話したかった事が、沢山ある。

 墓前に、一本だけ手巻き煙草を添えて、火をつけた。

 

 線香の、代わり。

「ほら、お前が好きだった手巻き煙草。相変わらず作るのが下手だけど。あの匂いが好きだって言う教え子がいてさ。会わせたかったな」

 叶わない事。

「でも、香水の空き瓶くらいは……捨てるよ。俺は俺の幸せを、探してみる」

 願っていてほしい事。


「なぁ兄貴……あの日は喜んでくれたのか? それとも悔しかったのか? 結局俺らは、言葉が足りない兄弟だったよな」

 話せなかった事。

「でもさ、やっと俺は絵を描く事にしたんだよ。それに気付かされた。うんと年下の子達にな」

 叶えていく事。

「いつか会えたら、空の向こうの風景画、見せてくれよな」

 願っていたい事。


 そっと、右手の時計を外して、墓前に置く。

 あの騒動で、時計は壊れていた。時間を刻まない時計。まるで今までの俺のような時計を外す日は、あの日からもう決めていた事だ。

「やっと、時間が動いたよ。だからこれ、返すな」

 花束と、手巻き煙草と、時計と、一人の画家。


 俺は、やっと二人と、絵と向き合う事が、出来た。

「そうだ。俺さ、画号を変えるよ……名前は……」


 二人との独り言が終わって、ココの家に着くと、飯を食い続けているヒバと、もう既に酔っ払っているココと、溜息をついているハヤがいた。

「遅いッスよ! 主役!」

「事情くらい聞いてんだろ。つーか知ってただろお前」

 いつ会話したかは覚えてないが、おそらく何処かで俺はこの二人の命日を漏らしたか、受賞した画展の名前でも漏らしていたのだろう。だからこそ、急にこんな宴が開かれたような気がする。

 偶然だと言われると恥ずかしいが、ココならそのくらいやりかねない。


「えー? 何がッスかぁ?」

 明らかに適当な返事、これは知っていたと見える。

「はぁ……もう潰れねえからな」

 とりあえず貰った酒に手を付ける。ただ、俺が命日だという事で酒を飲むのは分かるが、彼女が酔っ払っているのは珍しい気がした。

「主役より先に酔うなよな……」

「……嬉しかったんじゃないかなって、思います」

 ハヤが、ココには聞こえないようにそっと呟く。

「あー……いまいちピンと来ねぇのは、まだやっぱ俺は俺を認められてねえんだろうなぁ」

「ほーだぞ! へんへーの事、一番認めへるからな!」

「こら食べながら喋らない! しかもなんか良い事言ってない?!」

 絵を描いていなくても相変わらずな二人を見て少しホッとしながら、俺はグイと酒を煽った。


「あぁ……確かにな。久々に美味く感じる」


 暮れなずむ夕は、そっと夜を運んで来る。

 それでも朝は来る。それは意味の無い朝かもしれない。


「今この瞬間が一枚の絵だったら……マルだな!」

「もう……やめてよね。さっきの私達の絵、思い出す。ほんと、先生はズルい」 


 夜が怖いなら、それを飛び越せば良い。

 夕暮れ時のまま、ずっと止めておけば良い。

 夕暮れ時が終わらない世界は、きっと幸せだ。


「ま、結局は年の差でしかねぇよ。才能は段違いだ。お前らは全員。今に俺なんかの事は追い越すさ」

「それでも年の差は変わらないんだからなー。センセが頑張ったら追いつくのめんどいぞ」

「それでも、追いつきますけどね」

「が、頑張っ……がんばる……ッス……ね゛!」

 

 涙出る夜も、一人きりの夜も、堪えきれない夜も、きっと来る。

 向き合う日は必ず来る。夜と手を繋げる日は、きっと来るのだ。

 だけれど、それが怖いから、その為に俺達はそれを忘れる為に描き続けているのかもしれない。


 時には酒と共に、紫煙と共に、描き続けているのかもしれない。

 その一枚の絵を、夕暮れ時に描き始めたのならば、ひっそりと夜が来て、また朝が来て、一周回って夕暮れ時になっても、まだ完成されていないのならそれは地続きの夕暮れ時。


「なぁココ、筆借りるぞ」

「どうぞぉ……いぐらでもぉ……」

 こうやって、俺の為に泣いてくれる人もいる。

「先生が描いている所、直に見られるんですか?!」

 こんな俺を、認めてくれている人だっている。

「ちなみに俺も先生の絵、ゴッホよりモネよりマネよりも好きだぞ! 二番目だけどな! シシ!」

 こんな事を、サラッと言ってのけるヤツもいる。当の一番目に好きな画家は気付かずにキョトンとしていた。

 そのあたりに鈍いのが、また可愛い奴らだと思える。


「それじゃ……何描くかなぁ」

 今までも口にしてきた台詞の意味合いが、少しだけ違うように聞こえた。

 口に、火がついていない煙草を咥える。それを見て、ハヤが小さく笑った。

「火、つけましょうか?」

「うんにゃ、今日は……今日もいいんだ」


 だって、火はずっと、消えかけていたってついていたのだから。

 筆を折らずに描き続けている限り、 俺達の大事な夕暮れ時は、終わらない。

 

 失敗して、許して、嘘を吐いて、怒られて、悲しんで、羨んで、逃げて。

 それでもまだ、小さな希望のような物と向き合えたなら、いつかの昨日から、ずっと今日は続いていくのだと、そう思った。


 筆が奔る。


 日々が奔る。


 感情が奔る。


 命が、奔っていく。


 それがどうか、あの空の彼方にも、届きますように。

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夕暮れ時が終わらない けものさん @kern_ono

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