第二十一話『かけ』

 ハヤとは一応、仲直りが出来た。とはいえ教師と生徒の喧嘩というのもみっともない話で、というよりも生徒からの一方的な攻撃ではあったのだが、それでも仲直りをする事が出来てほっとしている。

 嫌われるのは、流石に堪える。嫌われても仕方ない人間だと思いながらも、それでも嫌われるのはいつだって怖いと思うような、弱い大人なのだ。虚勢を張り続けるには慣れたが、だとしてもこのくらいまでちゃんと成熟してきている子達に意味を持って嫌われたとしたならば、やはり堪える。その原因があったとしたら、大体俺の不手際なのからだろうけれど。

「じゃあ、明日からまた」

「ええ、よろしくお願いしますね。約束ですよ?」

 病院から見て、ハヤの家は俺の家よりも遠かった為、おそらくかかるタクシー代より数千円多く手渡して、自宅兼、借家の前で俺はタクシーを降りる。


――仲直りは出来た。けれど、呪いもかけられた。

 基本的に、利き手の左手を安易に使ってはいけないという俺自身の厳しい縛り。

 だけれど、彼女と約束してしまった左手を使って売れる、勝てる絵を描く事を教えるという約束。


 その二つは矛盾している。だけれど、両立させなければ俺とハヤの話はきっと進まない。

 俺が利き手を使うという事と向き合う行為、ハヤが俺から嘘を取り出したという行為。

 どちらも勇気が要る事で、どちらもいつか必要になることだ。

「いつか、いつか、話す気ではいたんだけどな」

 俺はぼやきながらポケットに入れてあったはずの部屋の鍵をまさぐる。

 左ポケットにも、まだ動かすと痛む右ポケットにも、鍵はなかった。

「あー……あ? そうか、中にいんのか」

 俺はあまりしない、自分一人だけが住んでいる家のチャイムを押す。

「はーい!」

 どちらの奥様でしょうかと言いたくなってしまうような高い声と一緒にトタトタという足音が聞こえてくる。来客用のスリッパなんて気の利いた物は靴箱の奥の奥だろう。だからこの声の主はこのそこそこに汚れた俺の家を靴下を履いたまま歩き回っていてくれた事になる。

「どちら様ッスかー?」

「覗き穴見りゃ分かんだろ……開けてくれ……」

 カチャリという音の後にドアが開き、苦笑しているココの顔が見えた。

「いやまぁ見ましたッスけどね。ちょっと老けました? 相当コッテリ絞られた顔してるッスよ?」

「ご挨拶だな……でも、今日は色々助かった。お陰様で決着は付いたよ」

 俺は靴箱からスリッパを取り出して今更ながらココに勧める。

「おっそ! いやまぁありはするんだろうなとは思ってたんスけど……」

「探してくれても良かったのに」

「もう探すのはししょーの家とあの子達の居場所だけで充分っスよ……まぁ勝手に家漁るのも気が引けますしね……」

意外だ。洗いざらい家の中は見られてるんじゃないだろうかなんて、失礼なことを思っていたのだが、ココもそこらへんのマナーはわきまえているらしい。というよりも、流石に元婚約者の名残が多いから、見るにも気を遣わせたかもしれない。」

 ともかく俺自身、色々迷惑をかけてしまった手前、ココについても、早々に帰ったヒバについても何かしらの謝罪以上の物でしてもらった事を返そうとは考えていた。

「とにかくまー! 私の良い女っぷりを見ましょーよ! というかハヤちゃんは帰っちゃったんスね、まぁ時間も時間か……」

 そう言いながらニヤつくココの後を追って、自室に入ると、驚く程に綺麗に整頓された部屋が待っていた。なんなら洗濯までされている。料理の用意すらされている。

「いや、凄いけどよ……そもそも此処までされるような事してねえだろ……」

「いーえ、この絵を貰うって約束したんで、このくらは安いもんッス」

 その絵にどれだけの価値があるのかは、ハッキリ言って分からない。ハヤ的に言えばハッキリ言って金にならない絵だと思っている。だけれど彼女にとっては、何か思う所のある絵になったようだった。

「ならいいんだけど、それにしてもほんと随分……」

 部屋を見渡す。煙草の吸い殻も無く、酒の空き缶も無い。ゴミ袋が二つ分、部屋の隅に置かれていた。

 ご丁寧に燃えるゴミ、燃えないゴミと絵筆で文字まで書いてある。

「今日こんだけ言って全無視されてるんスけど! 流石に良い女ッスよね?」

 どれだけその言葉に拘るんだと思いながら、逆にそこまで言われると肯定するのもなんだかなぁという気分になってくる。実際、良い女と俺が言うのも失礼な気がするが。間違いなく善人の動きをしている。そんな事は言うまでも無い。それでも彼女はそれを、言葉として欲しがっている。

「いやまぁ……良い女かは別として、助かったよ。というか何でこの綺麗さを自分の部屋で発揮出来ないんだ……」

 それでも少し照れくさく思って、言葉を濁す。結果出た感想が割とストレートに失礼な言葉だった事に言ったから気付き、俺も流石に疲れているのだなという自覚をやっと持った。

「うぉっほい! 割とサイテーな事言われてる気がするッスよ?! 余計なお世……」

「ただ事実ではある。でもまぁ……これについては、良い女というか良い画家だよ」

 そう言って、俺は綺麗に紙が張られた白いキャンバスを撫でる。そのすぐ横にはいつでも絵が描き始められるようにしてある絵筆達があった。

 バケツには水すら張ってある。つまりは昨日の今日すら、彼女は描けと言っているのだ。

「りーちゃんはなんか言ってました?」

 俺が褒めた事で満足したのだろう。彼女はテーブルの奥に座って、冷蔵庫から勝手に拝借したであろうビールをカシュっと開けて、料理の前に置いて、手招きをした。

 一本目は俺の方へ、そうして二本目は自分の方へ。

「りーちゃんって……ハヤが許したのか?」

「りーちゃんにしーくん。呼びやすいッスよ。別に文句は言われなかったッス。まぁ一日で友情が芽生える程度にはししょーのせいで走り回りましたからね!」

 彼女は料理に箸をつける前にビールをグーッと飲み干し「ぷっっはあ!」と見ていて気持ち良いくらいの飲みっぷりを披露する。

「それはほんと、何度でも謝るさ。ハヤとはそうだな……右手で指切りをさせられたよ。文字通り右手を切られた。これからは左手だけ使えってさ」

「へへ、やるじゃんね。これからは手加減出来ないっすよ? 天才達とぶつかりあいだ。しんどそ……」

 それに合わせて、俺もビールに口をつけた。思った以上に喉が乾いていて、俺もまた一気に飲み干してしまった。だが空腹なのも事実、まだ少し温かい料理に箸を運ぶ。

「しょーじき、自分はもうなんか疲れて食べる気しないっす。でもししょーは無理してでも食べてくださいね。丸一日食ってないんスから」

 彼女だって食べずに描く日なんてザラにあるだろうに、少し偉そうに彼女はそう言って、二本目のビールに手をつけようとする。そこでハッと気付いたように、彼女は後ろで結っていたポニーテールをほどいた。一本に揺れる茶髪が、ふわっと広がる。余裕が無かったといえばそれまでだが、それをするまで髪型が違う事に気付かなかった。そうして良く見れば、彼女は眼鏡もしている。

「あれ、ココって目ぇ悪かったのか?」

「んー……そこそこッスかねぇ。でも普段はコンタクトっすよ? 自分眼鏡つけると野暮ったくなっちゃうんで……」

 そう言いながら、彼女は眼鏡も外して、肩にかけていたポシェットから眼鏡ケースを取り出し、しまい込む。

「いや、そこそこ悪いなら付けといた方がいいだろ。別に似合ってないわけでも無かったぞ?」

「あれ、口説いてます? 良い女は辛いっすね……」

 俺はそこ言葉を無視して料理に箸をつけた。

 お互いに食卓を囲み、腹を満たしていく。昨日ぶりに流し込んだビールも、昨日より少し苦みが薄いように感じた。

「目はー……そうっすね、必要なんスよ、見えにくい瞬間も」

「と、言うと?」

 彼女は俺の部屋の壁にある、少し大きめの丸時計を指差す。

「私にはあの時計の時間が見えないんスよ。でも、それって目が良い人には逆立ちしても見えない景色なんスよね。それが結構好きなんス。ボヤケたししょーの部屋と、絵も見ときたいなって」

 自分自身、目は良い方だったので考えた事のない感覚だった。

 確かにボヤケていて始めて見える物もあるのかもしれない。

「やっぱ、凡才じゃねえよ。お前は」

「じゃあ何だってんスか。天才だとか抜かしたらぶっ飛ばしますからね?」

 トン、とビールをテーブルに置いて、彼女はボヤケているだろうその両の眼で俺を見つめる。

「言うならば、奇才だよ。アイツらとは明確に違う。お前もボヤボヤしてらんねーぞ」

「ボヤボヤさせた本人が言う言葉じゃないッスけどね! でもまぁ、そう言ってくれるのはまんざらでもないッスね。奇才、奇才かぁ……」

 彼女は何かを考えるように、ポケットから煙草を出して火を付ける。

「まさか禁煙なんて言わないッスよね?」

「……好きなだけ、どうぞ」

 食後の一服を楽しんでいる彼女を尻目に、俺は昨日描いた俺の中での"失敗作"を、ヒバから貰った時に学校から拝借してきたケースに移し替える。

「あ! ちょっと待ってください! その絵ってもう私のモンッスよね? 好きにしていいんスよね?」

「まぁ……煮るなり焼くなり……破るなり……」

 正直、未だに自分の昨日の絵には満足出来ていない。だけれど昨日の彼女の絵に影響されたのは間違いなく、ビリビリに破かれるという可能性すら脳裏をよぎった。

 そのくらい、彼女のあの行為は覚悟に満ち溢れた物だったのだ。

「破りにもしませんし、煮て美味しくなるもんでも無いッスよ……」

 そう言いながら、少しだけ覚束ない足取りで、彼女はケースに入れようとしていた俺の絵の前に立って、深く煙草を吸う。

 そうして、紫煙を吐き出しながら、その煙草を、彼女側の灰皿の絵の煙草に押し付けた。

「でも焼きます。これで完成ッスね。満足満足!」

 その発想は無かった。だからこそ、奇才なのだとも思った。

 俺が俺の灰皿の煙草に火をつけて作品を汚したという行為が、彼女のシンメトリー的な行為によって、意味のある作品へと押し上げられた。

「はぁ……こういう事を簡単にやってのけるもんな、お前らは」

「いや、まぁなんか。片方だけって気持ち悪いじゃないっスか」

 明らかに感覚によるもの、だけれどその感覚は、少なくとも俺から見ると持つものの発想だった。

「それで? タイトルとかあるんスか?」

「無いな。あっても何十何番とか、そんなのじゃないか?」

 それを聞いて不満そうな顔で、ココは俺の絵をジッと見る。ボヤケたその視界からは、一体どんな風に見えているのだろうか。

「私が引いたのはブラックジャックに見えたんスね。一方ししょーのは割とゴミ手だ。でも、まだ勝てないって決まったわけじゃ、ない」

「まぁ……じゃないとつまらんだろ。そもそもの題材がつまらん、ならせめて発想の一つくらいあっても良いんじゃねえかなってさ」

 絵の中の俺とココがプレイしているブラックジャック、絵の中の彼女が引いたカードはAとQでブラックジャックが成立している。一方俺は最低の数字の2と、中途半端な8、ブラックジャックを引き当てる為には残り三枚のAを引く必要がある。それでやっと引き分けの状態だ。

 だが、そこには一応物語がある。

 絶望を感じつつも、希望を引きに行くという分かりやすいテーマ。

「この絵のししょーは、A引けるんスかね」

「引けねぇよ?」

 即答すると彼女はブハッと吹き出す。

「自信満々に言う事じゃないッスよ!」

「でも実際に引けるイメージは湧いてない、だから希望だとかそんな安易な名前をつける気もしなかったんだよ」

 彼女は笑いながら、それでも俺の絵から目は外さない。そうして、一言だけ、小さく声に出した。

「かけ」

「ん?」

「タイトルッス。ひらがなで『かけ』」

 絵を描けと言われたのかと思い少し焦ったが、どうやらタイトルの事のようでホッとした。

 とはいえ彼女が帰ってから俺がやる事を言われただけなので、焦るのも変な話なのだが。

「まぁ……無難だな。賭博だとして、何を賭けているのかは描いていないが」

「だからひらがななんスよ。欠品の欠けかもしれないし、賭け事の賭けかもしれないし、描けって言っているのかもしれない。事実、描きに走った子がいたじゃないッスか」

「欠けていたりーちゃんとの関係は修復して、描けと言われたかのようにしーくんは家に走った。ししょーが失敗作だって言ったとしても、この絵は意味のある絵なんスよ。出来がどうこうだけで語るのは、野暮すぎるッス。そうして私を奇才って呼んでくれるなら、私はそれに賭けてみますよ」

 言葉遊びが過ぎるが、それもまた少し心地よかった。それがココの良い所なのかもしれないと、思った。決して彼女が愛するのは絵だけでは無いのだろう。酒を飲み、煙草を吸い、奇行も起こすが、キャンプなんかもする。きっと本あたりも好きなのだろう。根っからの表現者、絵に関わらず、何か持っている人間なのだろうと思った。


「『かけ』か」

「ししょーの言う失敗作も、見様によっちゃ、考え方によっちゃ私とりーちゃんやしーくんを繋いだ『架け橋』にもなるんスよ」

 ココは改めて眼鏡をかけて、俺の絵を見て笑い、俺がつけた煙草の跡をそっと撫でてから、ケースに仕舞った。

「上手い下手が全てだったら、この世の芸術は終わってるッス。まぁ、そもそもししょーのコレはムカつくくらい上手いんスけど。まぁ悔しいもんで、いつだって評価するのは他人で、自分は満足出来ないんスよねぇ……」


――彼女の言うソレは、多くの創作者にかけられた呪いだった。

「言い得て妙だよ。満足出来る日なんて来ない癖にな」

「来たら終わりッスよ。一生血反吐吐きましょ」

 言いながら彼女は改めて、こちらを見て笑った。

 流石にこれは言えなかったが、彼女のその笑顔は、彼女が今日ずっと言われたがっていた良い女というか、随分と幼気に見えて可愛らしく見えた。

 まるで子供が、クリスマスプレゼントを見つけた時のような、そんな笑顔。

 出来れば、包装紙を開いた後に出てくる物が彼女が望む物であったならいいなんて事を思いながら、流石に二十歳を越えているとはいえ、時間が時間だったので彼女にタクシー代を渡して見送り、俺は白いキャンバスに座る前に手巻き煙草を一本だけ作って、それに火をつけずに咥えながら、左手で絵筆を持った。

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