第二十話『右手の指切り』

 ハヤが話し出すまでの間、いつになく煙草を吸いたい気分だった。

 口寂しいわけじゃなく、ニコチンが足りないというわけでもなく、ただ単純に、ハヤが嫌いじゃないと言った手巻き煙草でも、ふかしていたいような気分だったが、それはきっと今彼女の手元にある。

「昨日言ってた絵、描き終わったか?」

「たった一人で描ける程、器用じゃないですよ」

 意外な言葉に聞こえた。というよりも、時間ではなく人数を答えたのが、不思議だった。

「一日の間違いだろ?」

「いえ。一人で合ってます。そもそも私は、一人じゃまともに描けないんですよ」

「だっていつも……」

 そう言って、少しハッとする。確かに彼女が、一人きりで絵を描いているという瞬間を見た事はない。


――だっていつも隣には。

 彼女は小さい溜め息と一緒に、空で手を動かした。

「私は、ヒバの絵や感情を、より分かりやすい形で表現しているに過ぎないんですよ。画風が存在しないんです」

 思えば、彼女の絵はいつも写実的で、正しい物を映し出していた。だけれどそれは、彼女の持ち味だと思っていたのだ。正確に描く、綺麗に描く、写真よりも感動する瞬間を切り取るというその才は、紛れもなく彼女自身に宿って、育てられた結果だ。

「それだって、実力はヒバと出会う前からお墨付きだろうよ」

「AIが描く絵って、流行ってるじゃないですか。そこら中からデータを詰め込んで詰め込んで、出力するヤツ。アレを思い浮かべてくれると、良いと思います」

 つまり彼女のその実力は、沢山の作品から情報を吸い取り続けた集合体だと言いたいのだろう。

「でも、それを人間がやるから、いいんだろうよ。事実認められているだろ」

「先生もさっき言ってたじゃないですか。私だって、私に認められなければ意味がないんです」

 それは、少し違うはずだ。だけれど俺は何も言わずに頷いた。気持ちは良く分かっているから。

 そうしてまた、その言葉によって、俺もまた一つ、手遅れな事に気付いてしまったから。


――だって、彼女には、明確に認められたい相手がいる。

 隣にいるあの少年に、彼女は認められるのを待っている。

 それと同時に、俺はきっと、兄貴や日晴ヒナリに認められるのを待っていたのかもしれない。


 軽い絶望と、小さな希望が、心の中で揺れ動く。

「炎天下の絵。私は分かりやすくヒバの真似をしました。結果、私の中でも珍しく少しだけ良い作品が描けたと思っています。だけれどそれは隣にヒバがいて、先生がサポートしてくれたから描けただけの話。私一人じゃ辿り着けないんですよ、あの程度の絵にすら」

 あの絵を、あの程度と評する彼女の頭を軽くチョップでもしてやりたくなったが、それはおそらく俺が利き手で描いた絵を見た時に彼女が俺の腹部をぶん殴った気持ちと同じなのだろう。

「それに、家に持ち込むと色が濁るので」

「厳しい家柄なんだろうなってのは、何となく」

 彼女はフゥっと息を吐いて、天井を見上げた。

「私が画展で貰った賞金、何処に行くと思います?」

「まぁ……普通は貯金が妥当だわな。つまりは違うって事か」

 彼女は自嘲気味に笑って、手のひらで蛍光灯の光を掴もうとする。

「消費者金融」

「……は?」

 思わず気の抜けた声が出た。そんな俺の反応が可笑しかったのだろう、彼女は小さくあははと笑いながら、天井に伸ばしている手のひらを握った。

「私はですね、二人のクズから生まれた。金の卵を産むガチョウなんです」

 言葉が出なかった。あの電話越しでの丁寧な口調は、今思えば怯えの感情にも思える。

 彼女が時々口が悪いのは生来の物だろうが、それでも両親をクズと呼ぶその声には、本物の嫌悪感が混ざっていた。

「両親は厳しいですよ? だって私がお金になる絵を描かなきゃ生き死にに関わりますしね。返済の目処はあと百枚とか? 賞金によってはまだかかりますかね」

「お前……そんな……」

 ならこの子は、この子の努力は、全て自分の為ではなく、強制されたものだったという事になる。


――秀才だと、思い込んでいた。

 事実、秀才ではあるのだ。ただその過程が、その家庭が、あまりにも歪すぎる。

「私の絵には、個性が無い。ただ何となく、見た物が描けたんですよ。それをあの人らに無理やり金になるように育てられただけ。絵が好きかも、もう分からなかったんですよ」

 彼女は強く握られた拳を、膝の上に置く。その手は、小さく震えていた。

「でも、ヒバの絵を見て羨ましいと思った。先生の絵を見て悔しいと思った。だからきっと、結果的に好きになっちゃったんでしょうね、描くという事が。ただ、あの場所でだけの話」

 ヒバの絵は自由で、晴れやかだ。自分で自分の絵の評価さえ付ける程に。

 だけれどハヤの絵は、いつも丸でなければいけなかったという事になる。

「家に帰って描く絵は、商品なんですよ。習慣って怖いですよね。煙草ケースを借りてみても、どうしても描けなかった。一人じゃ描けない。ヒバがいるだけでもきっと描けない。あの場所で、先生もいなくちゃ、描けない絵だったんですよ。それを今日、私は物凄く、物凄く楽しみにしていたんです」

 そこで始めて、ハヤがこちらを向いて、俺の目を見た。

「凄く、凄く楽しみだったんです。私にとっての創作は、あの場所でだけ存在するものだから。その時間をですね、先生は台無しにしたんですよ?」

 言葉を待たれている。

 それだけは分かった。

 ただ、あまりにも想像していなかった事実に、言葉が出ない。

「もう! ここで謝ってほしいんですけど! 深酒とか! 先生の絵の出来だとか! そういう事は先生が自分で解決すべき問題だって事は理解出来たんです。でも私から見た事実は一個だけ! 今日来なかった事を怒ってるんですよ!」

「……悪い」

「そうです! 悪いんです! でも、これでもっと良い絵が描けます。きっと」

 やっと、彼女は俺の謝罪を受け止めてくれた。そうして少しだけ微笑んで、握った掌を開く。

「私の居場所――あの屋上には、先生も必要なんですよ。ほんと、どうしようもない駄目教師でも、必要なんです。隠し事ばっかりだったのは、やっぱりちょっとムカつきますけど!」

「お互い様って言うには、少し趣旨も違ったしな」

 少しデリカシーが無いとは思ったが、お互いに隠し事を話したという事になる。

 それ以上に、彼女の状況が少し心配になっていた。

「親御さんは……何やってんだ?」

「あの人らは、何もしてないですよ? 酒飲んで食って寝てギャンブルとかですかね? 育てて貰う代わりに借金を払い終えたら家を出ていくって約束で、今は仕方なく家族やってますけど」

 ドライな感情、現状に慣れきっている、家族に対して冷めきっている。それを知った上でなら、彼女が何処か大人びているようで、だけれど時々我儘で、俺を悪意無く雑に扱っていたのも、少しだけ理解が出来る。少しずつ歩み寄っていた事にも、意味はあったのだ。

 丁度良い大人、もしかしたら俺は、彼女にとって誰かの代わりだったのかもしれない。

「俺に出来る事は、無いわな」

「無いですね」

 答えを知りながら聞き、思った通りの即答だった。


 俺が兄貴を偽って稼いだ金は、正直言えば持て余している金でもある。実家に送りつけているが、俺の両親は、その金を使おうとする人達では無いだろう。手付かずのまま残っているはずだ。

 だから、やろうと思えば彼女の現状を俺が善意で変えてしまう事は容易い。だが、俺が彼女の家の問題に踏み入ってしまえば、彼女の人生や精神性を壊す可能性が生まれてしまう。

 俺の問題は俺が解決しなければいけないように、彼女の問題は彼女が解決しなければいけない。

 それを、俺も、彼女も、お互いに理解している。


 その会話の最中に俺の診察の番が来て、ある意味丁度良く会話は途切れ、俺は診察に向かう。

 彼女は一瞬心配そうな顔をして俺の右腕を見ていた。俺は痛みを堪えながら、右手で軽く手を振って、診察室へ向かう。


「これは……打撲、ですね」

 少し怪訝そうな顔をする若い医者。夜間診療に打撲で来る患者も珍しいというものなのだろう。

 そりゃ血も出ていなければ触らなければ継続的な痛みも無い、腫れているだけと言えばそれだけだ。

 骨折はもっと強い痛みがあると聞いていたから心配はあまりしていなかったが、実際に打撲だとしても、中々経験した事の無い痛みだったのと、一応は腕の故障は画家の生命に影響すると思い、精密検査もしてもらった。

「やはり骨には異常無いですね。湿布お出ししておきます」

「はは……いやまぁ、画家なもんで……」

 苦笑しながら応えると、医者も納得したようで、少し申し訳無さそうに「お大事に……」と言われ診察室を出る。CTスキャンを受けに行く時にハヤが心配そうにこちらを見ていたが、医者よりも俺よりも余程深刻そうな顔をしていた。

 

 湿布を張って、その上から包帯を巻いてもらい、ハヤの元へ戻ると、彼女はそれを見て少し不安げな顔をしていた。

「折れてたらこれじゃ済まんよ」

「なら、不幸中の幸いって事ですね。良かったというべきか、なんというべきか」

 少し難しい顔をしているハヤは、いつの間にか年相応の高校生の顔に戻っていた。

 そこには悲壮感も、苛立ちも見えない。

 

――ただ、年相応の、少し意地悪で我儘な表情が浮かぶ。


「さっきの、先生に出来る事の話なんですけど……出来る事、ありますよ」

 彼女は少しニヤリと笑って、俺の左手の時計を見る。

「右腕が治ったら、時計は今度から右手につけてください」

 つまりそれは、俺に利き手を使えという事だ。

「時計をつけ変えるくらいならまぁ……利き手の事はバラしてるしな」

「じゃなくて! 左手で、私達に教えて下さいって言ってるんですよ!」

 途端に、話が面倒な方向に進んだ。何を言おうが、ヒバとハヤの実力は天才的な物に違い無い。

 俺が教えられる事が精神的な物だけというのは、俺自身が分かりきっている事なのだ。

「いや、技術として俺はそもそもお前らに勝ててないんだっつの」

「でも私の賞金かっさらってますよね?」

 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。ただそれは兄貴のネームバリューと俺の唯一持つ特異性に寄るものだ。教えろと言われて教えられるものだとも思わない。


――だけれど、彼女になら。

 

「先生が診察してもらっている間、私が苛立った理由を考えてたんです。多分それ、同族嫌悪だと思うんですよ。先生程では無いけれど、私も先生に近い性質を持っていると思うんです」

 俺が言おうとしていた事は、もう理解しているようだった。

 画風の模倣と見せかけの激情によって賞を取る俺と、金になる絵を描く為にあらゆる物を吸収し、自分をAIにまで喩えるようなハヤ。

 俺ら二人は、根本こそ違えど、そうして理由も全く違えど、その本質は何処か似ている。

「……分かった。けれど、あくまで『一文字』の賞を掻っ攫うのはお前の絵だ。俺みたいにはさせない」

「先生に勝つ為の、あそこから抜け出す為の指導をしてくれるのなら。何だって……」

 その表情の真剣さは、彼女の日常の苦しさを何より物語っていた。

「ああ……分かったよ。俺をインプットしろ。その代わり、絶対にお前の中のお前と混ぜろよ。何度でも言うからな、俺の二番煎じには絶対になるな」

「じゃあ、指切りしましょうよ」

 彼女はグッと左手を前に出した。必然的に俺は、包帯が巻かれている右手を出す事になる。

 しかし意地が悪いなと思いながら、痛みを顔に出さないようにしながら小指を出した。

「指切りげんまん、嘘吐いたら……」

 彼女はそこで一旦言葉を止め、少し考えていた。

「嘘吐いたらどうするんだ?」

「いいです、何にもしません。でも、指は切りましたから!」

 その言葉の意味が、何よりもハッキリとした約束だった。


 彼女は、俺の右手の指を、言葉で切った。

 だからこそ、もう俺は偽る事が出来ない。

 指切りという行為そのものがもう既に、嘘を辞めるという儀式だったのだと、そう思った。

「あぁ……切られたなら使えないな」

「でしょう? じゃあ、帰りましょうか」

 彼女は少し嬉しそうに立ち上がり、大きく伸びをした。

「ほれ、タクシー代と、飯代。流石に歩くのはもう怠い」

「それもそうですね……流石に今日は頂いておきます」

 彼女が金に厳しい理由も、家族が金にだらしないからという理由だったのだと考えると、何ともいえない気持ちになった。だが、知れて良かったという気持ちは大きい。

「じゃあ、俺の家までは一緒に、少し多めに渡しとくから、余ったらお前の為に使え」

「それは……」

 少し嫌がる素振りを見せたが、俺の顔を見て、彼女は小さく頷いた。

「お前にくれてやったんだ。お前の親にくれてやったわけじゃない。ただ問題になりそうなら好きにしろ。じゃあ、帰ろう。流石に疲れた」

「こっちの方がですけどね!」

 そう言いながら笑っている彼女を見て、心から安心した。

 

 俺が、救われてしまっている事に、少し罪悪感を覚えながらも、それを返す為に、俺も俺と向き合う為に、そう思いながら、俺はそっと、彼女が見ているのも承知の上で、ぎこちない動きで、『兄貴の形見の時計』を、利き手の左手から、右手へと付け替えた。

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