第十九話『別才の素質』

 俺は淀んでいる日常達を、足音にかき消されない程度の声で紡いでいく。

 ハヤ――早鐘は、時々静かに相槌を打っている。病院までは、まだ遠い。


 今まで隠していた事だ。大きな声で言いたいわけがない。それに、この問題の答えだって、何となく分かってはいる。けれど望まれた事なら、仕方ない。もうみっともない所を見せているのだから、取り繕うには遅い。半年という時間、この子達となんとなしの関係を貫き通せただけマシだったのだと、そう思った。

 少しでも悪例として、役に立てているならそれで構わないだなんて、今更意味も無い状況と相反した思考を持ち合わせている自分に、苛立ちが募る。


――俺はいつまで、良い人のフリをしたがっているんだ。

 責められるべきで、疎まれるべきだ。

 それでも、向き合わなくちゃいけない。理解されなくとも、俺がこの子達を、理解していくために。

 俺の名はこの世界に遺らない、言葉もきっと遺らない。けれどこの子達の作品にもしほんの一欠片でも俺の中の正しいような物が混ざってくれたなら、それでいいと思い続けた半年間だった。


 『一文字』を名乗って画展に出した作品の賞金は、全て実家に送りつけていた。

 実質俺は、右手で描いた俺の作品の細やかな収入と、彼女らの顧問というおこぼれのような職業で飯を食っているだけだ。


 日晴ヒナリを亡くした日の前日、俺の作品が画展で大賞を取った事を知り、大酒を飲んだ兄貴。

 その翌日、アルコールが抜けきっているかも分からないまま、止める日晴ヒナリを連れていく最中に、二人は死んだ。俺の受賞が、二人を殺したのだ。

「……何が、兄貴をそうしたんだろうな」

「……悔しかったんでしょうね、お兄さんもその画展、作品を出してたんですよね?」

 俺はそれに対して頷く。ココに話した時は、ただ聞き手になっているだけだったが、彼女の場合は違う。一つ一つの言葉に、ちゃんとした反応が返ってきた。それが正解かどうかは分からなくても、彼女なりの言葉で、向き合っている事が分かる。

「偶然だろ、あんなの。実際に抗議しに行った。何で俺の絵なんだよって」

「それをされた敗者の気持ちとかって考えた事あります? ああいう所での審議が主観的な眼ではなくて客観的な眼で動く場なんてこと、分かりきってるでしょうに……」

 言われて見れば、それも確かに分かる。それでも、それでも俺には納得出来なかった。

 兄貴のあの日の絵は、最高傑作と言ってもいいくらいに、俺が筆を折ろうかと思ったくらいに、光り輝く作品だった。だからこそ、それに抗うかのように、最後だと思いながら吐きながら描いた。結果的にそれが、ある意味での俺の遺作で、本当の意味での彼の遺作だ。

「恨んだりは、していないんですか?」

「恨まねぇよ、事故だ。辛いと思う事くらいは、そりゃ本音を言えば今もある、昔はもっとあったさ。でも事故だったんだ、それも、俺の受賞が発端のな」


 彼女の言葉達は、俺じゃ考えたこともない言葉だった。

 恨むだとか、悔しかったとは、どういう事なんだろうか。


――分からないからこそ、俺も向き合わなくちゃ、駄目なんだろうな。

 自分よりも一回りも歳が離れている子達だ。だけれど、俺の時間は兄貴を、日晴ヒナリを亡くした瞬間から歳を取ることをやめてしまっているのかもしれない。

兄貴の絵、見た事あるだろ? アレを描けるヤツが俺の絵を見て悔しいなんて思うわけねぇだろ……」

「……確かにあの人の絵は凄いと思います。思っていました。だけれど一文字先生の画風は少しだけ変わりました。違和感は薄かったけれど、今ならハッキリと分かりますよ、途中から描いてたのは先生なんですよね?」

 そこまではまだ言っていなかったが、見抜かれた。

 言わずに気付いたココの観察眼には驚かされたが、言うだけで気付けるハヤにも驚かされる。 

「あぁ……言われりゃ分かっちまうもんなんだな、お前らみたいなヤツには」

 だからこそ、やはり俺は凡才なのだと思った。限りなく本物に近くても精神的な贋作を見抜ける眼を持っている人の前では、俺は手も足も出ない。それを持っていた兄貴にも、勿論適うわけは無かったのだ。だけれど、唯一、俺は兄貴とは違って誤魔化す事だけには特化していた。


「言われなきゃ分からない話です。だからこそ頭に来るんですよ。だって私達が早々に児童の画展から抜け出して、大人も混じった画展でずっと勝てずに、負けて負けて、そうして高みに存在していたあの絵は、先生の絵の方なんですよ? 八年前ですよね。本当の『一文字先生』が亡くなったのって」

「それは……俺が兄貴の描く絵の癖と、何がウケるかってのを、それこそ馬鹿みたいに調べ上げた結果の、データで描かれたもんだよ。悪かったな、そんなもんがお前らの上にあって」

 ハヤは、本当に悔しそうな顔をして、俺の顔を睨む。

「この八年、誰も見抜けなかったんですか? 『花火』からです、変わったの。見るからに明らかじゃないですか。でもまぁ、仕方ないですよね……」

「仕方ない、とは?」

「私は先生の絵がどういう物だか、たった今まで知りませんでした。だけれどアレからの八年、賞を取り続けた先生の、一文字先生を模倣した絵が先生の絵だとするなら、それが正当な評価だったって事でしょう? ネームバリューはあったとしても、本当に憎たらしいですよね、そりゃ偉そうで結構ですよっ」

 そういう事は、考えた事が無かった。ただ、ネームバリューに縋っているのだろうと思っていた事はある。だけれど、正当な評価だと思った事など一度も無い。

「若い頃の俺は、画展を舐めてたからな。兄貴の絵が賞を取るのは当然だ。俺とは違ってあの人は天才だったからな。でも俺はいいとこ佳作止まり、埋まらない差が存在したんだよ」

「お兄さんと、いくつ違うんですか?」

 未だ苛ついた雰囲気のハヤが、静かに質問してくる。

「八歳だな。俺が生まれた時にゃあの人はもう児童の画展で賞を取ってたって聞いたよ」

「八歳?! ばっっかじゃないですか! 先生、それはちょっと、もう本当に先生……」

 怒りの目が憐れみの目に変わったのが見えて、ハヤは大きく溜息を吐いた。

「隣の芝生は青いって言葉、知ってますよね?」

「あぁ、お前らの事だろ?」

「貴方とお兄さんの事ですよ!!!!」

 彼女が周りの歩行者の眼も気にせず、ダンと足で地面を踏みつける。

「いや、お前らはちゃんとそれぞれが完成した芝生だろ。俺と兄貴は乾ききった地面と芝生だからな?」

「主観的すぎでしょう?! これだけ言っても分かりませんか? 八歳下の弟に一回でも自分の作品を上回られたんですよ?! そんなもん画家としては悔しいどころの話じゃないでしょう。結果として酷く悲しい結果を産んだにしても、まだその方が深酒の理由としては納得できますけど!」

 

 その言葉のあまりの熱量に、俺は黙り込んでしまった。

「あれだけの作品を一晩で仕上げた人が、何グダついてんですか! 大人のいざこざなんて知りませんけれど、私は少なくとも一人の画家として断言出来ます。先生は落ちこぼれでも凡才なんかでもない。あの絵を描いた人が、あの部屋に溢れる程あった努力の証が、証明してるんですよ。その後に及んで卑下するのは、私達画家にとっては嫌味でしかない。だから、だから頭に来るんですよ。ヒバも、ココさんもきっとそうです。ヒバは今家で必死に絵を描いていますよ。ココさんは先生の絵を片っ端から見てるでしょうね。みっともないけれど、我慢出来なかったのは私だけ……、何が、何が凡才だって言うんですか!」

 涙が滲んでいるのが見えた、そうして、病院も見えてきていた。

「それでも、俺は俺を凡才というのを辞める事は出来ねぇよ。俺が俺を認めてやらんと、そこには行けねぇんだ。だからお前らの方が、俺から見りゃさ、ずっと、ずっと上にいるんだよ」

「誰に認められたとしても、ですか?」

「あぁ、そうだな。俺が俺を許せない。俺が俺を形容出来る日がもし来たら、そうだな。別才とでも呼ぶべきなんだろうな。少なくとも騙されてはいたんだろ? 俺の絵に」

 彼女は目尻に溜まりかけていた涙を拭って、しっかりとこちらを見て、頷いた。

「ええ、騙されましたよ。最低な気分です。でも、言いたい事は分かりました。右手がしばらく使えなくなりそうで、良かったですね。これからはもう、逃げられませんよ?」

 

――もう、逃げる気なんて無いさ。

 そう思いながら、俺達はもう夜間診療に入りはじめている病院の裏口から、事情を説明して常駐している医者を待った。

「俺の話は、もういいか?」

「まぁ……大体は、ムカつくのは事実ですけれど、そこに理由があるなら飲み込まなきゃいけない事くらいは、分かります」

 彼女はまた小さく溜息を吐いてから、少しだけ距離が離れて座っていた俺に、少しだけ近づく。

 それを以て、彼女なりの許しとしてくれたのだろう。


――だったら、次はそっちの番だ。

「なら、次はこっちの番だ」

 フゥ、と息を整えてから、彼女はこちらにもう少しだけ寄る。

 遠すぎず、近すぎない、適切な距離から、ほんの少しだけ、寄り添った場所で、俺達は次の話に、移って、一つずつ一つずつを確認して、理解しようとしていく。

「えぇ、聞かれなかった事が意外だったくらいです。ヒバには大体話してる事ですしね。なんでもどうぞ」

 その言葉は少し意外だった。同年代だから話しやすかったというか、いつも一緒だからこそ異性であっても話しやすかったのだろうが、そんな個人的な話をする仲だったというのは、何とも意外だ。

 そういえば俺は二人の連絡先すら知らないのだった。俺の知らぬ所で二人がやり取りをしていてもなんらおかしくはない。要は俺は二人にとって、屋上でだけやり取りが出来る人間だったのだ。

 そうしてあの屋上は、二人にとって絵を描く場所、そう多い言葉が交わされないのも、ある意味間違った事じゃあない。

「お前が、そんなに必死な理由を教えてくれないか。いつも何かに焦ってるように見えるんだよ」

 その言葉に、ハヤの眉毛がピクリと反応した。いきなり聞くには、デリカシーがないと言われるくらいに直球の言葉を投げてしまったのだろう。

 だけれど、俺の中にあるハヤの焦燥感は、ずっと痛いくらいに伝わっていた。

 俺はハヤヒバを前途有望だと信じ込んでいる、疑うつもりはこれからも一つもない。ただ彼女がさっき言っていた主観的な話と、隣の芝生は青いという話。

 それを思えば、何か彼女なりに問題がある事くらい、改めて明確に分かる。


「その前に、ちょっと電話、失礼しますね」

 どうやら今日は夜間診療が混んでいるようで、俺の順番はそう近くないようだった。

 ハヤは自宅に電話をかけ、理由を丁寧に、いつもの彼女とは思えないくらい丁寧で、何処か怯えているような口調で説明している。


――家の、話なんだろうな。

 その動作だけで、何となくそんな雰囲気を察する事が出来た。

 電話を終えたハヤは、大きく深呼吸をしてから、ペチと自分の頬を叩いた。

「ん、これで大丈夫。家くらいは送ってくださいね」

「そりゃまぁ、教師として当たり前。だろ?」

「そのくらい言えるようになったなら、いいです。じゃあ、私の話、してもいいんですか?」

 この後に及んで、彼女もやはり人間で、何処か俺とも似通っているのだなと思った。


――そうだよな、皆、怖いんだよな。

「あぁ、してくれ。これはさ、俺からの頼みだよ」

「長い話になりますよ?」

 そう言って、足跡の鳴らない病院の中。

 許された教師と、少しだけ距離を詰めてくれる事を選んだ生徒は、もっとお互いと向き合う為に、言葉を交わしはじめる。

「終わらなければ、明日でも、明後日でも」

「先生が学校に来てくれたら、いつでも」

 その嫌味が、何処か心地良いと思いながら、俺はハヤが話し始めるのを、機嫌が良いのか癖なのか分からないが、左手と膝で顎を抑え、彼女がブラブラと動かすローファーを見ながら、言葉をじっと待っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る