第十八話『歪む日常を歪めた日』

 酷い頭の痛みと、身体の倦怠感と、耳に響くチャイムの音、ドアを叩く音、声に目を覚ました。

 ハッキリ言って、喧しすぎる。チャイムはまだしも、ドアを叩くのと人を呼ぶのは近所迷惑だと思いながら、立ち上がると頭が酷く痛んだ。

「あいあい、聞こえてます……よっと」

 外の声は俺の気配に気付いて待ちに回ってくれたようで静かになった。

 俺は癖で左手に時計をつけようとすると、右肩に激痛が走り、思わずうめき声をあげる。

「ちょっと! 大丈夫ッスか?!」

「いや、ココさん声が……」

「デカいデカい……ココねーさん心配しすぎだぞ」

 聞き覚えのある女性二人と男性の声、だが知る限りこの二人セットともう一人に面識は無いはずだ。夢でも見ているのかと思った、というよりこの頭と肩の痛みは夢であればいいと思った。流石にアルコールは抜けていたが、今が何時なのかも分からない。

 それでやっと理解する。


――俺は仕事すらすっぽかしたのか。

 痛みに耐えながらつけた時計を見ると、時間はもう夕方近くになっていた。放課後すら過ぎている。

 流石にハヤヒバだっておかしいと思うはずだ。そこにどうしてココがいるのかは分からないが、とりあえず俺は申し訳程度に服を整え、ドアを開けて、何かを言われる前にすぐに頭を下げた。

「悪ぃ、深酒して寝過ごした!」

 なるべく、なるべく明るい声を出した気がしたが、三人の顔は驚愕に包まれていた。

「じゃなくって!! ヒバ救急車呼んで!」

「あー……マジで住所聞いとくんだったッス……」

 その二人の反応を見て、やっと俺がどのくらいの状況になっているのか気付いた。

「意識ハッキリしてますか?!」

 ハヤが泣きそうな声で聞いてくる。

「あぁ、昨晩に比べたらそりゃもうハッキリと」

「そりゃそーでしょーよ。良かったッスね……酒浸って痛覚鈍ってて、家入りますよ?」

 ココがタオルを手に俺の家の中に入っていく。中から「うわひど!」という声が聞こえて来たが、とりあえず無視して状況を整理しようと試みる。

 

 昨日は確かにみっともなかったという事は覚えている。絵もどこを以て完成させたか分からない。

 だが、救急車という言葉も聞こえた。という事はあの転んだ時にどこかしら悪くしたのだろう。さっきから酷く痛むから右肩をやったのは間違いない。だがどうしてそれを一目で三人は理解したのだろうか。

 電話が終わってこっちを何とも言えない顔で見ているヒバに、情けないながらも俺は自分の状態を聞いた。

「俺、そんなに酷いか?」

「ひでぇーな! まぁ無事そうで良かったけど!」

「というか! 良い歳して深酒で学校来ないとか! もう! もう!」

 可愛い教え子二人が、相変わらず接してくれる事が、何よりありがたかった。

「ほんと、いー子達に恵まれたッスね。私もいい女過ぎて参りますけど」

 そう言って、濡れたタオルでココは俺の顔をそっと拭いていく。

 流石に自分でやろうとしたが、左手を動かすのも少し怖く、右手は痛みで動かせず、されるがままにしていた。

「はい、馬鹿教師さんタオルを見るっスよー……こんないー子達を心配させんな馬鹿たれめ!」

 見せてもらったベージュタオルには、その色を打ち消すくらいの赤色が混ざっていた。

「似合わん色合いだな……」

「不名誉の傷には丁度良いッスよ。見た時はビビったッスけど、顔を軽く切ったくらいみたいッスね。ヒバくん救急車キャンセルしてー」

 心配そうに見ていたハヤが、小さく息を漏らしたのが見えた。

 教師というか、人間失格ではないだろうかと思えるような一幕。


「……悪い」

「ほんっとッスよもー! 私がどんだけ奔走したかと! 学校見つけ出して! この子達捕まえて! ししょーの家を聞いてもらって! いい女過ぎませんか?! ねぇいい女ッスよねぇ!!」

「いや、それは本当に悪……」

「違いますよココさん、この場合は先生が悪い男ですよ」

 俺の言葉を遮って、ハヤが割って入る。

「お酒の臭い、嫌いです」

 なのに、ぐいと詰め寄られる。

「自分を顧みられない大人、嫌いです」

 冷たい目で見られながら、尤もな事を言われる。

「だから、悪……」

「悪いのは当たり前です。言葉が軽くなるのでやめてください」

 情けないが、黙った。至極最もな話だから。

「ココさんの事を私達に言わなかったのも、良くないです」

 それはどうだろうとは思ったが、黙ったまま、小さく頷いた。

「とにかく、何よりもこうなる可能性を私達に気付かせない大人が、私は嫌いです」

「駄目な大人なんだよ。取り繕い続けちまって、悪いな」

 みっともない言い訳しか、出来なかった。

「センセが駄目な大人なんはさ、知ってるんよな。まー俺は好きだけど」

 ヒバが会話に割って入る、あまりにも真剣なハヤとは違って、楽観を装っているように見えた。

「ハヤの言いたい事はさ。センセは自分の事言わなすぎって話、俺らにだって出来る事はあったんじゃねえのって思うだろ、なぁ?」

「そうです…………そうですよ馬鹿教師! 死んじゃってたらどうするんですか!! 私の絵もまだ見ていない癖に!」

 その勢いはヒステリックのようにも見える程、激情に溢れていた。


――私の絵を見ていない、か。

 まだ、この子は俺を教師として見ている、画家として見てくれているのだ。なのに今後に及んで、心配されるような人間じゃあないなんて思っている自分が、うんざりする程嫌だった。


 それでも、それを簡単に言葉に出して良い日々は、もう終わった。

 化けの皮も剥がれた、剥がされたし、自分で剥がしてしまった。

「……悪かったよ。昨日は少し。疲れたんだ。思い出達に、追いかけられてさ」

 暗に三人の事を言っているような気がして、思わず俺は首を横に振る。

「時々、あるんだよ。普段はセーブ出来てたんだけどな。昨日はあまりにも駄作を描いちまって、荒れた。大人げない」

 その言葉に、ハヤは俺の部屋にズカズカとローファーを脱ぎもせず土足で踏み入って、慌ててヒバも靴を脱いでその後を追いかける。

「馬鹿教師ッスね、ほんと。左手で描いたでしょアレ、痛い目見るッスよ」

 ココが隣で、溜息を吐いていた。

「私は言わないっていう嘘、不作為の嘘が一番嫌いなんスよ。だから人を見るんス。ししょーの手にも気付けたのもそのせい。言わないのが一番嫌い。だったら言われて傷ついた方がずーっとマシなんスよね。だから私はししょーに救われたんスよ。でもあの子達には、まだ受け止められるか分かんないッスよ」

「アイツらから見りゃ、あんなもんは駄作だ。お前から見たってそうだろ」

 ココが大きく大きく溜息を付いてから、俺の頭の傷らしき場所を叩こうとして、軽く別の場所をコツンと叩く。

「時に、余りある卑下は人を傷つける。私だって、ムカついてるんスからね? 私がやっと辿り着いた場所を、一晩で再現させられる人の作品が、駄作でたまるかってんスよ。つーかモデルの許可取ってないんスけど! そんなに私の事が好きだってんならまぁ、まぁでも?」

「いや、好きじゃねぇけどさ。お前が描いたもんのコピーだよあんなもん。テーマがそれならそりゃお前は出すだろうよ。昨日も言ったろ? 俺は贋作を描くするのが得意だって、昨日は俺の、俺が描く絵を描こうとしてアレになっちまったんだ。それは俺にとって、作品にはならねぇんだよ」

 何か言おうとしているココを尻目に、ハヤがキャンバス片手にこちらへと近づいてきて、唐突に俺の腹部を思い切りぶん殴った。

「何処が駄作か、説明してください」

「若いって凄……私は踏みとどまったんスからね、そこらへん覚えておいてくださいね?」

 腹部に痛みは無かったが、それを抑えようとした右腕に衝撃が走り、俺は二人の言葉にも応えられずその場でうずくまる。

「えっ、いやそんな強くしてな……」

「違う、そっちじゃないんだよ」

 俺は左手で、軽く右肩を触る。軽くても、痛みに顔が歪んだのが分かった。

「打撲か……折れたか」

「そういや昨日バキって音してましたけど?!」

 その言葉に、ハヤの顔が青ざめていく。つまりは俺の利き手が右では無く左だったという事に、少なくとも彼女は気付いていないのだろう。それにしても腕を怪我するのは画家としては大問題なのは俺でも分かる。俺もやっと少し、焦り始めていた。

「床に折れた太い筆があったぞ。それじゃないか?」

 俺の家の中で話を聞いていたであろうヒバがトテテと靴下のまま外まで出てきて、部屋の中に入ってそれを持ってくる。

 確かに俺が使っている中でも一番太く、硬い筆、それを肩でへし折っていたとしたら、この痛みも納得出来るだろう。

「救急車って事は無いにしろ、どちらにせよ今日は病院ッスかね……腕の怪我は画家にとって洒落にならんッスよ」

「それも、そうか……」

 俺は自分の部屋に財布を取りに戻り、ポケットに突っ込んで、着の身着のまま外に戻った。

 ジトッとしたハヤの視線と、少し困った顔のヒバ、溜息を吐くココの三人の誰が口を開くか、三者三様でそれぞれを伺っているようだった。

「私は、部屋ぁ片しとくッス。お代はその"駄作"で良いっスよ。モデル料も含めて」

「俺は……帰って絵を描く。センセはだいじょーぶだしな、それが分かりゃいいし、あと……まぁいっか」

 俺はココの好意に甘え、部屋の鍵を渡す。

「ハヤはセンセについてけ。俺はすぐに描きたい。センセもずるい。次は俺だからな!」

 ヒバは意味深な事を言って、背を向けて早足、というより駆けて行った。

「じゃあ、ししょーとハヤちゃんは病院ッスね」

「いや……一人で充分……」

 何故か一番気まずい雰囲気の俺とハヤをセットにされて、一瞬焦るが、逃げの言葉を言いかけた俺にハヤは引き下がらない。

「でしょうね! でも私が充分じゃないんで!」


 おそらくは、お膳立てなのだろう。

 きっと、必ず来る日だったのだろう。

 そうして、此処が分岐点なのだろう。


 ヒバもハヤも、ココも、きっと凄い画家にはなる。

 それは間違い無い。けれどその軌跡に俺という人間が残るかどうかの、分岐点。

 俺はそこに、残るべき人間なのだろうか。

「なら、歩いて行こう。閉じてりゃ夜間診療でも、受けるさ」

 そんな事も俺自身、未だ分からないまま、静かに歩き始めた。


 しばらく、靴音だけが響く。

 彼女の足跡は、土足で俺の部屋に入って、俺がぶちまけたバケツの水を踏んだのだろう。

 少しだけ濡れていて、そうしてすぐに乾いていった。

 

 だけれど、簡単には乾かない物、時間をかけて吸い込ませ、隠し続けた不作為の嘘という名の水を吸い込んだ彼女は、何も言わずに、俺の言葉を待っている。

「俺の利き手な、右じゃないんだ」

 返事は無い。だけれど、それでも、俺は選んだしまった。

 向き合わなければいけないと、思ってしまった。

「長い話に、なるからな」

「……どうぞ」

 彼女のその言葉と一緒に、夜が近づいてくる。

 俺と彼女の足音は静かに、そうしてそのうちに彼女の足音も乾いた音を立てながら、俺達はあえてゆっくりと、病院に向かって歩いていった。

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