第十七話『日常』

 ココの家から帰ってすぐに、俺は左手――利き手につけている時計を靴箱の上に置いた。

「ありゃボンクラだと思ったんだけどなぁ……」

 一人の奇才を目覚めさせてしまったように思える。おそらくこれから彼女からの連絡はだいぶ少なくなるだろう。何故なら彼女は彼女の道を、未知を知ってしまったからだ。

 しかも、こと観察眼という点に於いて、行動力という点に於いて彼女は非常に優れている。書を捨てよなんて言葉が文豪の言葉にあるが、まさに彼女がキャンプ好きなのもそこから来ているのかもしれない。


――創作者にとって役に立たない事なんてない。

 そんな当たり前のことを、改めて噛み締めていた。

 自然の中で感じる一つ一つのざわめき、せせらぎ、囁き、その中に身を置く事によって得られ、研ぎ澄まされていく感覚。流動する水、風に揺れる木の葉、チリリと音を立てる焚き火の気まぐれな動き。


 それらをきっと見続けてきたからこそ、あの観察眼が芽生えたのだろう。

 ただ、出会って二日だ。だけれどその急激な変化にあてられて俺もまた高揚しているだけで、大層な物では無いのかも知れない、買いかぶりなのかもしれない。

 だが、確かに彼女がキャンプ用品店の店員の時から思っていた事でもある。

『客が何を必要としているか、何を探しているか』

 それを見極めるのも観察眼によるものだ。ならば俺が隠し通してきた利き手の違和感に気付く事なんて容易い事だったのだろう。

「観るに長けている……か」

 初めて見た時のココの絵のレベルが、デッサンとしてのレベルで言えばハヤやヒバを凌駕していたのは、ハッキリと分かっていた。それはまさに、正しく観るという事に時間を費やし、鍛錬を積んできたからなのだろう。

 だけれど彼女にはきっとその時点で、昨日の時点でそれしか無かった。

 それを俺は、偶然にも打ち崩しただけの話だ。

「せっかく仲間が出来たと思ったんだがなぁ」

 呟いて、俺はココの所で酒を飲んだにも関わらず、冷蔵庫からビールを取り出した。カシュっという心地良い音と、それを一気に飲み押す豪快な音を耳で受け止め、自分の駄目さを頭で受け止める。流石に飲み過ぎは良くない歳だと分かっているから節制はしている。というより食を忘れがちな自分はそもそもあまり強そうな見た目をしていない。歳を重ねる毎に痩せ衰えていくが、腹だけ出ているというのは、流石に避けたい。それでも、今日だけは飲みきった缶を床に置き踏み潰して、もう一缶。らしくない事をしていると思った。らしかった事をしているとも、思った。

「酒飲みながら書くってのも、また悪かねえだろ、兄貴」

 そんな俺を、兄貴はいつも怒っていた、今も絶対に怒っているだろう。

 だけれど今日は、今日だけは、ココと別れてから早足になるくらいにそんな気分が身体の中を走り回っていた。


 ココから貰った『ブラックジャック』に火を付け、俺は慣れない右手で煙草を持ち、咥えた。

「本気じゃないとは、言われたもんだ。なら、賭けてみるかね」


――利き手で筆を持つという事。

 酔ってなきゃ出来ないような事になっているのが、少し情けないと思った。


 描くのは、薄汚れた木製のテーブル。

 開いた酒缶と、火の付いた煙草が置かれた灰皿と、置かれたトランプ。

 まさにブラックジャックをプレイしている絵だ。

 相手の手札はもう、『スペードのA』と『ハートのQ』

 要は、既にブラックジャックが成立している状態。

 考えるべきは、自分の手札。一枚目はもう決めてあった。

 最弱の数字『2』と、次の札を取ろうとしている俺の手を、描こうとして、止めた。


――一枚は、当たり前なんだよ。

 ブラックジャックは21を作るトランプゲームだ

 『A』は1か11の役割をして、『J,Q,K』は10の役割、それ以外は数字通りの役割で、数字を足していく。

 ディーラーがいるならば別だが、個人で遊ぶ分には、互いに山札から合計の数字が21にするように引いていく。数が多い方が勝ちというゲーム。

 21になるまでは引き続ける事が出来るが、21を越えた時点でどんな状況だとしても負けとなる。要は駆け引きと度胸のゲーム。

 俺の絵の状況は、相手がまずAを引き、俺が2を引く。そうして相手がQを引いて21。


 相手は最強の手札、逆に俺の勝ち筋はほとんど見えないという、自虐的な絵。だけれどここから俺が新たにカードを引いてもバースト――21を超えるカードを引く事は無いから、一枚は引いて良い。ただそれじゃあ、つまらない。

「我ながら馬鹿みたいで泣けるね」

 俺は安定の二枚目を引こうとする手を描くのをやめて、自分の場に9のカードを描く。そうして、小さく紫煙を吐き、山札に手を伸ばしている様子を描いた。

 要はこの負け濃厚の手札で、足掻いている絵だ。無様でも『A』を引きに行こうとしている絵。

「まぁまだバーストはしねぇけど、このくらい卑怯でも許されんだろ」

 言いながら俺は、大きく煙草を吸い込んでから、ライムの香りのする紫煙を吹きかけて、絵の灰皿の煙草の先端部分に、自分の煙草を押し付けた。

 少し湿った紙に、ジュッと音がして、絵が汚れるのが分かった。それでも、それで良かった。

「奇才の贋作にしちゃ、ダサすぎんな」

 

 相手の姿は、誰をイメージするべきだろうか。それはきっと、ココで良い。今日は、今日だからこそ、ココで良いのだと、そう思った。

 彼女の口元は、意地悪に笑わせる事にした。どうせそうするだろうから。

 そうして今日着ていたココの服を思い出す。思えば絵を描くにしては随分と難儀な格好をしていたなと今になって思う。白地に小さい花のワンポイントが散りばめられたブラウスだったような気がした。絵の具が飛んだら駄目になるだろうに、彼女の拘りか何かだったのだろうか。

 花の種類は分からなかったので何となく白地のブラウス、彼女の長い茶髪を少しだけ垂らした。

 そのままでは随分と綺麗に見えて、少し憎たらしかったので酒の染みをつけておいた。


 俺は久しぶりに振るう左手に違和感を覚えつつも、馴染むその筆先を動かしていく。

 出来上がった頃には、朝方で、空いた酒缶は五本。吸った煙草は一本だけ。 

「これが、俺の本気かぁ……?」

 描き込んでいく。想像力を、足して、足して、最初は面倒になったココのブラウスの花模様も創っていく。いつのまにか絵のココの服につけてやった染みは、本当の酒の染みになっていた。


 ココのブラウスに描かれていた花、それは決してハーデンベルギアでは無い。だから、存在するかもわからない、彼女の花を描いた。

 降る花を受け取る資格なんざ、俺には無いのだろうと、持ち帰って立てかけたままのヒバの絵のケースを見る。

「優しい馬鹿ばっかで……困っちまうよ」

 

――俺はまだ、墓参りにすら行けていないのに

 それを告白出来ずに、飄々としている自分を、その腕を、へし折ってやりたかった。

 断罪のように兄貴の絵を模倣して、兄貴ならこう書くだろうという兄貴の贋作を装う事で、心を落ち着かせてきた。それがバレなかったから、生きているという幻想を創り出した。

 

――俺の手は、汚れている。

 それでも、それでも絵を描く事を辞めることが、どうしても出来ない。

 こんなにも、こんなにも悔しい。昨日のココという才に気付かぬ前の彼女を見て少し嬉しくなった自分が、卑しい。後ろから見ているハヤとヒバの才能を認めながらも、羨んでいるみっともない自分が、悔しい。

「これが、これが、俺の本気……なのかよ」

 いつの間にか、涙が溢れていた。

 

 みっともない、一人の大人。

 いつまでも、いつまでも、絵に縋り続けて、人から逃げ続けた、格好つけの凡作。


 それが、俺という人間なのだ。

「偉そうな事ばっか言ってよ、何も、何も……」

 俺の絵が、人を二人殺した。賞を取った絵だって、たまたま上手くいっただけの絵だ。あんなのは、偶然に過ぎない。だけれどそんな偶然が人を殺した。なのに俺は絵を描く事を、絵を描く人間を、嫌いになれない。


 自分の事は、これだけ嫌いでも、自分の作品に、どれだけ満足出来なくても。

「馬鹿……みてぇだよなぁ。兄貴」

 そうだよって怒って欲しかったのだ。そんな辛い事やめなよって、後ろから心配そうに語りかけてくれる声があったかもしれなかったのだ。だけれど結局、それらは全てもう、過去の事だ。

 酒を控えていても酒があること、手巻き煙草をやめても道具一式を揃えている事。


 絵を、描いている事。


 何もかもが、無様に思えた。

「俺にAエースは、引けない」

 

 急にスマホの音が鳴り出す、気付けばもう朝だ。

 どうやら電話らしい、誰かは分からないが、喧しかった。

「誰だよ」

「うわ……電話越しで酔ってるの分かるのも珍しいッスね」

「るせえな……大人には色々あんだよ」

 ココの声はハツラツとしていた、そりゃあそうだろう。自分の才が芽生えた後は彼女のような性格なら晴れやかだろうなと思う。それが素直に良い事だと思いながらも、何処か後ろめたい気持ちが、言葉にトゲを纏わせてしまっていた。まだ、俺はちゃんと酔っている。それもみっともないくらいに。


「ってことは一晩中ッスか……自分にも覚えがありますけども」

「やめとけやめとけ……馬鹿みてぇだよこんなもん。お前はもう飲まなくても良いの描けんだろうよ」

「いや……ししょーだって飲まなくても描けるでしょうよ……」

 俺の心までは、その観察眼でははかれない、

「誰が描いてるって言ったよ」

「描いてなきゃ……そんな声出ないッスよ」


 昇る陽の光が、鬱陶しかった。

 カーテンをしめようと立ち上がった時に、しばらく座ったままだったのと、酒を飲んでいたからか、俺は思い切り足を滑らせ横に転ぶ。


――バキっと、何かが折れる音がした。


「ってぇなクソ……」

「ちょいちょいちょい! 何か洒落になんない音鳴ってますけど?!」

 俺はココの声にも反応出来ず、這いつくばるようにカーテンの元まで行って、痛む腕でカーテンを閉めて、大きく息を吐いた。今の衝撃で、酔いが一気に冷めたらしい。だけれど、動き回る事をアルコールは許してくれなかった。

「……眩しかったんだよ」

「はあぁ?」

「だから、眩しかったから、カーテン閉めたんだよ。それで、朝からどうした」

 チグハグながらも、まだ取り繕っている自分にうんざりだった。化けの皮は今ので剥がれただろうに。

「いや、普通にありがとうございますを改めて言いたかっただけなんスけど……」

「俺は何もしちゃいねぇよ。精進しろ奇才。俺ぁ寝る」

 電話先で何やら声がしたが、これ以上話すと、もっと駄目になりそうで、俺から電話を切った。


 カーテンの下、俺は横になる。

 転んだ拍子にバケツも引っくり返していたのだろうか。身体が濡れている事が分かる。

「煙草、つけとかないで良かったな」

 そんなことを呟きながら、俺は痛む身体と、回らない頭を無視するように、アルコールに身を任せて、目を閉じた。

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