第十六話『その色彩が絵になるまで』

 裏返したキャンバス、そこにはまさに今自分が、ココが立っているこの部屋が水彩画で描かれていた。

「……タイトルは?」

「淘汰」

 それもそのはず、その水彩画は酷く紙が歪んでいた。ところどころに、水が、かけられているのだ。

 前衛的というには、あまりにも発想の転換が強すぎるとすら思った。だがそれがココと『Sien』の決別のようにも思えた。


 描かれた部屋は、もっというと昨日までの、昨日以前の部屋なのだろう。昨日少し片付けたからか、今は少しだけ実際の部屋は綺麗になっているが、ゴミだらけ、酒缶が転がる部屋の真ん中に、真っ白なキャンバスがある。

 まだ何も描かれていない絵の中のキャンバス、そうして、はっきりと、痛々しい程にしっかりと描写された退廃した部屋の風景、戦う為の部屋だ。血が滲むような部屋だ。

 昨日した、何と戦っているんだという言葉を思い出す。

 

 彼女は『世界』と戦っていると言っていた。それはもしかしたら、あながち間違いじゃないのかもしれない。それぞれが見えている世界。ヒバにはヒバの独特な世界があるように、ココもまた世界を持っているのだと思った。それと戦っている、革命を起こそうとしている、反発している。

 彼女は、彼女自身の世界と戦っているのだと、そう思った。

 その理由は、そのしっかりとしたタッチで綿密に、此処まで酷かったのだろうかと訝しんでしまうような部屋の様子、それらに水をぶちまけた後があったからだ。

 所々残っている水が当たらなかった部分から、元は繊細なタッチだったという事が伺える。水によって淘汰されていく、ぼやけた彼女の今までの世界。

 だが、一部だけが綺麗に描かれている。もしかしたら水彩画にマスキングテープか何かを張って、他の色が入らないようにしていたのかもしれない。


――その絵の中心にある、キャンバスだけははっきりとした線で、綺麗に描かれていた。


 まだ、何も描かれていないキャンバスボードの上のキャンバス。だけれどそのボードの下には、ハッキリと『Sien』という画号が描かれているのが見えた。

「始まりの絵か」

「まぁ……そういう解釈になるッスよねぇ」

 彼女は俺の言葉を聞いて、少しだけ溜息を吐いた。言いたい事は分かる。分かるからこそ、言うべきだとも思った。

「でも、終わりの絵だ」

 彼女からハッと息を飲む音が聞こえる。

「終わらせて、始まらせた。お前の今までが全部詰まっていて、お前のこれからが全部詰まっていく絵だよ」

「伊達に、長く生きてないッスね……その通りッス」

 余計なお世話だと思いつつ、それをいうのは野暮だ。何故ならば彼女の声が震えているのが分かる。きっと怖いのだろう、この絵は彼女がが拘り続けた画風を捨てている。その必要があったのかは分からない。それでも彼女は、その縛りから抜け出すべきだと、判断したのだろう。

 一見ココは、悠々自適に生きているように見える。だがそこには悲しみや苦しみも見える。絵の技術だって充分に高い。

 だけれど、昨日見た限りでは、彼女の絵は、本物の彼女の絵ではないように感じていたのだ。

「絵に水をかける時、泣いたか?」

「ん? 水じゃないッスよ。もっと目凝らして、近くで見たら分かるッス」

 そう言われて顔を近づけると、まだ乾いていない絵から、強いアルコールの匂いがした。


――コイツ、馬鹿だ。

「おい、今日飲む分がねぇだろうよ」

「いーえ? 山程あるのを飲みながら描いてただけッスからね。ちなみに大泣きでしたよ。悪い男っすねししょーは、女泣かせて」

 アルコールの匂いがする絵は、もう作品とは呼べないのかもしれない。


――だけれど、彼女の行動には、全て意味がある。

 ハヤやヒバが沢山の事を捨てて絵を描いているように、彼女もまた、生命を削って絵を描いているのだ。

「泣いたかどうか聞いたのは俺の興味本位。しかも俺が泣かしたわけじゃないだろ」

「さぁどうだか、昨日も泣かされましたしねー」

 とどのつまり、感受性が高いという事なのだろう。それは画家にとってはかなりの強みだ。

 特に、彼女がこれからこういった奇抜な画風で世界と戦っていくのならば、持って生まれた才能だと言っても良い。


――結局、彼女は才を持っている人間だった。奇才と呼ぶべきか。

 ただ、今までそれに気付いていなかっただけ。

 それに気付いた瞬間、彼女は和泉来転イズミココロではなくSienという画家になったのだ。

「それにほら、見えます、ツブツブ」

 食べ物を粗末にするなとはよく言うものだが、この子も相当な破天荒だ。

 塩が塗ってある。ということは、さっき想像した通り、かけられた酒はテキーラなのだろう。

「テキーラ飲みながら描いてんのかよ、馬鹿だなお前ほんと」

 そう言って、俺は彼女から貰った煙草に火を付ける。

「馬鹿って! ししょーが私をこうしたんスよ?! っていうか印先生の作品の時は外で吸ってたのに私の絵には煙草の匂いついても良いってんスか?! ぶっ飛ばしますよ!」

 えらいまくしたてられるが、本気で怒っているわけではないのが分かった。

 要は興奮しているのだと思った。

「だってまだこの絵、完成してないじゃねえか」

 そう言って俺は、胸一杯に吸い込んだ紫煙を絵に思い切り吹きかける。

「な? ライムが足りねえ」

 酒には俺もよく溺れていた、だからテキーラの原材料、竜舌蘭の『繊細』という花言葉を、俺は知っている。それに、その花が数十年に一回しか咲かないという事も。


 だからこそ、そんなこじつけをしたい程に、この絵は作品として成り立たずに、生まれた絵と表現出来ない何かなのだと、そう思った。

「これを作品かどうかは人の判断次第だが、俺から見りゃあ良い絵だよ、Sien先生」

「泣かない、泣かない、泣かないッスよ」

 泣かせるつもりはない。だけれど本当に正しく導けていたとするならば、これ以上嬉しいことはない。

「俺は、お前の人生を変えちまった。それが良いか悪いかは分からん。だけれどよ、この瞬間に立ち会えた事は、俺とお前だけのもんだ。年甲斐も無く、嬉しく思うさ」

「ぐ……ぐぬぅ。泣かない……泣がな゛いッスよぉ……っ!」

 そう言いながら、彼女はキャンバスから水彩画を取り外す。

「だって……まだこの作品は、完成してないッスから!」

 そう言って、彼女は白いキャンバス部分を残して、その絵をビリビリと破っていく。

 泣きながら、大泣きしながら、和泉来転イズミココロという自分を破いて、Sienという画家になる為に、絵を破いていく。

 涙をこぼしながら、残ったソレは、凄く、凄く小さな『絵』だった。

 周りはボロボロで、白いキャンバスに画号だけが入った絵。


――だけれど何故か、その絵の中のキャンバスが、物凄く大きく見えた。

 

 俺はしばらく煙草を吸いながら、嗚咽を漏らす彼女の、小さくて大きな絵を眺めていた。

「だばご……火ぃづがないッズ……」

「ほら、使えよ」

 渡した安いライターを見て、カチカチと頑張りながらも、涙はポロポロと流れている。

「づがない……づけでぐだざいししょー……」

 彼女は煙草を咥えたまま、こちらに顔を近づけてくる。

 俺はその頭を軽くチョップして、彼女から奪ったライターで火を付ける。


――煙草と煙草の間に、赤い火が壁を作った。


「あぢぢ!」

「今時漫画でもそんな付け方しねえよ、馬鹿たれめ。夢見る少女かってんだ」

 シガーキスを思いつくあたり、やっぱりこの子は突飛な想像の中で生きているんだろうなと思いながら、ぶーたれながら俺が渡したタオルで涙を拭いていた。

「アルコール臭い……」

「いや拭いたら洗えよ……」

 おそらくぶちまけたテキーラをそのタオルで拭いたのだろう。画家としての本質は変わっても人間としての本質は変わらない。それは仕方のない事だ。ずっとだらしがないのも仕方がない。


――ずっと、この手で描いているのも、仕方が、ない。

「ん、じゃあ帰るよ」

「っと待ったぁ!」

 いい感じに逃れられそうになったのに、そこらへんの図太さはしっかりしているようで、呼び止められてしまった。

「ご飯食べましょ! 感情ブレすぎて食わないと眠気来ないッス!」

 自分の利き手について詰め寄られるかと思ったら、そんな提案で思わず俺は苦笑した。

「実際、本物のライムは無いのか?」

「生モノは、怠いッス」

 そりゃあそういう性格なのは分かるが、それでも料理するくらいの食材は有るようだったし何より冷凍するという手も無いわけではない。勿論質は落ちるが。

「カットしまくって冷凍すりゃいいだろ。お前なんてまさに塩とテキーラとライムでやってそうなイメージだけど」

「自分、酒に時間かけたくないタイプなんで、塩たっぷりのライムシロップをチェイサーで良いッス」

 雑すぎる、だけれどそんな良く分からない、いわば邪道な飲み物を生成しているあたり、この子はやはりどこかネジがぶっ飛んでいる気がした。


 余っているテキーラと、かなり塩気の強くシロップの甘さをだいぶ打ち消している謎の塩ライムシロップを飲みながら、例によって適当な炒め物で腹を満たした。食事というより酒のつまみだったが、そのあたり文句を言う筋合いはない。美味しかったのは間違いないのだから。

「っでぇ! っ手ぇ!」

 やはり来るよなと思っていた質問に、俺はサラリと答えた。

「俺が、殺したんだよ。婚約者――日晴ひなりと兄貴をな」

「……は?」


――だから、俺の手は汚れている。

「勿論実際に殺したわけじゃねえよ。実際は、俺が珍しく画展で有名な賞を取った時の話だな。兄貴の運転する車が、事故ったんだ」

 完全な自損事故、運転手の兄貴も、日晴ヒナリも即死だった。

 兄貴はその日えらい酔っ払っていたらしい。日晴ひなりも止めたらしいが、それでも俺の所へ行くと言って聞かなかった。その酔っていた理由は、未だに家族には聞けていない。怒っていたとも喜んでいたとも、風の噂で聞いた。

「賞は取り下げて貰ったよ。日晴ひなりに身内は無かったし、密葬だったから世間にもバレないまま、俺の大事な二人はあの世に行ったんだ。未だに生きている俺に会う途中でな」

「いや、いやいやいや、ししょーのお兄さんって一文字先生ですよね? 全然普通に画壇でかつや……く……」

 その時、彼女の顔が青ざめるのが分かった。

「一文字という画家は生きていても、俺の兄貴――舘真一は死んでいるんだよ」

「じゃあまさか一文字って……」

 これ以上は、何も言えなかった。彼女が口外するような人間ではないことは、何となく分かっている。

 それでも、認めるわけにはいかなかった。

「俺に言えんのは、ここまでだよ。少なくとも俺は本気を出してないわけじゃあ、ない。それぞれの画風に対する贋作者としての才能があった、それだけ」

 ほぼ、事実を言ったような物だ。


 兄貴が死んだのに未だに兄貴の名前で絵が創り続けられている理由。

 俺が利き手の左手で絵を描かない理由。

 それは、兄貴の利き手が右手だったからだ。

「……辿り着けるとでも?」

「それでもお前は、今この瞬間にいる一文字を先生と呼んだ。それが答えだ」

 左手で描くならば、俺は従来通り、ある程度の実力を発揮出来る。それが絵を描くという行為に於ける凡才の限界であったとしても、実際に兄貴と日晴ヒナリが死んだ日に、俺は芽吹きかけたのだ。

 だけれど、その花は自分で踏み潰した。自損事故だったお陰もあってか、大々的な報道もなく、画壇のお偉いさんが何人か知っている程度の話だ。

「……それが、ししょーの呪いですか」

「それでも、右手で描いた絵で、お前を泣かす事は出来たけどな」

 そう、そのくらいまで鍛錬は出来ているのだ。

 

――だけれど、そこに魂があるかは、分からない。

 未だに俺が『一文字』という画号で描く時は、利き手の左手を使わなければどうしようもないのだから。その方が当たり前だが、良い絵が描ける。

 だが、それを俺自身の絵に使うのが、何故か許せなかった。何故なら、その手で生み出した絵によって、あの二人は死んだのだから。

「俺の利き手は、右手だ。だって腕時計は左手につけているからな」

 念を押すように、分かりきっている嘘を彼女に伝える。

「……はい、ししょーの利き手は、確かに右手でもあるんだと、思いますよ」

 その言葉は、少し以外だった。

「だって、私を泣かせたんですからね! 画風の贋作がなんだってんですか! 世界に描き残ってない絵なんて、存在しないんスからね! 自惚れるのは早いッスよ!」

 思わず笑ってしまった。底抜けに馬鹿で、それでいて明るい、あれだけ繊細なのに、これだけ人を想える。


――兄貴、日晴ヒナリ、お前らにも今の俺と、俺の周りの奴らを紹介したかったよ。


 一通り話し終わった俺は、改めて彼女に口外するなと念を押して、左手の腕時計をじっと見つめている彼女に笑いかけた。

「兄貴の形見さ。ま、喧嘩別れだけどな」

「理由は?」

「俺を、褒めすぎなんだよ、アイツは」

 そう言って、何も言わないままの彼女を背にガレージの扉を開ける。

「用があんなら、また来てやるよ。それまではそいつを向き合え」

 俺は彼女が大事そうに避けておいた、破られてキャンバスの絵だけになった紙を見て笑う。

「ん、世話になりました。ししょー」

 振り返らずとも表情が分かる、けれど声色は明るく聞こえた。

「そんなもんしてねぇよ。色々ご馳走さん。頑張れよ、Sienせんせ」

「も゛ー!!」という声を後ろに聞きながら、俺はガレージの扉を閉めた。


 扉を閉じてからすぐに泣いている彼女の声が聞こえた。

 兄貴達の話をしている時でもう既に目尻に涙が溜まっているのには気付いていたから、きっと我慢していたのだろう。


――なぁ兄貴、日晴ひなり、お前らの為に泣いてくれるヤツがいるよ。


 俺の為に絵を描いてくれると言ったハヤ、描いてくれたヒバ、泣いてくれた此処。

 そうして兄貴と日晴ヒナリ、皆の事を想いながら、俺は『ブラックジャック』に火を付ける。

「賭けないと、描けないか」

 立ち昇る紫煙が月灯りに照らされて、ふと『Sien』という文字が光る。

 それはおそらく、さっき俺が彼女の家に着いた時に見つけられなかった彼女の新しい傷だろう。

「なんだよ、これがちゃんとした一作目じゃねえか」

 あの子が住んでいる世界、一人で戦ってきたその小さいガレージに描かれた、彼女そのものという作品を包み込むように刻まれた、金属壁の『Sien』という文字を見ながら、俺は冷たい空気を吸い込んだ。

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