第十五話『右手の筆、左手の時計』
前に行った時よりかは、まだ明るい夕暮れ時の、ココが住んでいるガレージ。
あの時はあんまり気にならなかったが、よく見ると、そのガレージも少しだけ意匠付けされている事に気付いた。
「ご近所迷惑ってわけでもないけれどもなぁ……」
極彩色で彩られているわけではないけれど『此処は画家の住処なのだ』という、世界への小さな抵抗のように思えた。目を凝らさなければ気付かない意匠。絵の具等使われていない。無理やりにガレージに昇って、言うなればその鉄製の壁に線という傷を付け続け、出来ている物だ。
その行為自体が近所迷惑になった可能性はあっただろうが、作業自体は手早くこなすタイプだという印象があったからか、もしくは迷惑がられても気にしないだろうという印象があったのか、俺自身あまり気にせずに、ぼうっとガレージの入口横に立てかけられている鉄梯子を眺める。
流石にこれは昨日無かったはずだ。ゴツい鉄梯子があれば少し日が沈んでいたとしても気付くだろう。
だからこそ、俺は昨日見つけられなかったガレージの意匠を探そうと思い、目を凝らしたが、始めて見た物の中から今日付け足された物を見つけろと言われても流石に無理だ。だが想う事は少なくはなかった。
それらの意匠の数々は、本当に傷のように見えて、痛々しいようにも見えた。
確かに上手で、丁寧に創られている、ただ自分自身を削っているかのような、力強い線。金属の壁に線を入れる事自体、力のいる作業だろう。
周囲の住民は一日でうんざりした事だろうなと思った。それと同時に、画家だと認識されても変人扱いされているのかもしれないとも思った。壁に刻まれた決して綺麗な花の模様でも無く、かといって絵でも無い、幾何学的な、円や線、図形の集合体。それらが組み合わさった結果、見える感情は悲しみや怒りだ。
力がいる作業であれだけ綺麗な円を描けても、それを線が切り崩していく。正方形の中の円の中にある三角形に、二本の線が混じりあってバツのマークを創っている。
まるでヒバの絵を描き終わった後の感情を全てまぜこぜにしたような印象を感じた。
「不器用なヤツだわなぁ……」
ガレージに打ち付けられた傷という絵が、ロジックで描かれた物ではなく、衝動で描かれた物であることは一目で分かった。だからこそ、少し心が痛い。
――こんな気持ちの時には、妙に煙草が吸いたくなった。
だが、煙草ケースはハヤに貸したままだ。
「さて……じゃあ報酬を貰いに行くかね」
俺はあえて気付くように梯子を少しだけ横にズラしてから、軽くガレージのドアをノックした。
すると中から割と大きめの音がした後「ちょーっと待っててくださいねー!」という焦り気味の声が聞こえた。訪ねて来る人自体がいないのか、それとも俺と約束していたからなのか。彼女は俺が名乗らずとも俺が来たのだと分かったようだ。
流石に昨日の今日だ。俺も少しだけ身なりを整える。今の俺は美術教師ではないものの、彼女の師匠という立ち位置に無理やりさせられたという立場ではあるのだ。ネクタイは流石に緩めたままだが、暑さにかまけて適当に着ていた服を少し着直す。
そのタイミングでガチャと鍵が開く音がして、昨日よりだいぶやつれた顔のココが顔を見せた。
「何スか何スか……色気づいてんすかぁ??」
「いや、これは大人のマナー。……そっちはだいぶ酷い顔してんな」
明らかに寝ていない顔、やけにハイテンションな声はおそらくそのせいだろう。やつれた顔からすれば下手すると昨日から寝ていない可能性もある。
「そっちは酷い顔してんなぁ……」
「色気出してもそーいう事言うと普通に嫌われるッスよ。今度来る時はデリカシー持ってきてくれると助かるッスね」
ややトゲがある軽口も、精神状態が安定していない証拠な気がした。余程取り憑かれているのだなと思いながら、俺は一言謝って、彼女の部屋に入った。
「まぁ、創作者に取っちゃ酷い顔は褒め言葉だろうよ。または当たり前の話」
「そりゃまぁ、私は昨日をまだ終えてないッスからねぇ……」
若さが少しだけ羨ましい。こういう時期が自分にもあったのだ。だけれど今はもうそういう時間も無く、毎日眠りに付くまで何となく描くだけのことを続けている。
「じゃあ今日を終わらせるとしよう。まずは煙草くれ」
「買うのめんどかったんで私ので良いっスか?」
ココは俺でも知らない銘柄の煙草を渡してくる。その箱には『ブラックジャック』と書かれていた。
「まぁ良いけど、今度来る時は尊敬みたいなものも一緒に買ってきて貰えると助かる」
「買いませんよそんなん、そもそも自分の銘柄買うの怠いんで、吸えたのラッキーっすよ」
俺も似たようなものだけれど、興味が無かったからか目に映る事は無かった。
ライムの絵が書かれている緑色のパッケージ、どうやらメンソールも入っているようだ。
メンソール煙草はあまり得意では無かったが、この際何でもいいかと、それを受け取る。
「じゃあまぁ、Sien先生の作品を見るか」
「その前にその大荷物の方を先に見せるかッスね」
彼女は俺が背負っていたヒバの絵をケースから絵だと判断したようで、ジトっとこっちを見る。
「心折りに来てんスか? その絵があの子達の絵だったら、私の絵はどうなるってんスか。どうせなら、先に落ち込ませてくださいよ」
「まぁこりゃヒバ――印先生からの貰い物なんだけどな。ほれ」
俺はヒバから貰った『ハーデンベルギアの降る屋上』を見せる。
「……実物を目にすると圧巻っすね。何スかこの、あり得ない空。だけど何で説得力があるんスか」
そりゃあ俺の話を見て無きゃ、この絵に含まれた本当の感情は読み取れないだろう。
ただ、その熱量から説得力のような物が生まれているというだけ、絵だけで説明しきれなければ、絵としては一流とは呼べないのかもしれない。だけれど俺という人間から見たこの絵は、一流だなんて言葉では表しきれないほどの、宝だ。
「その花は……俺の元婚約者がくれたプレゼントに描かれてた花だよ」
流石にココくらいの歳ならば、すぐに何かを察したらしく、茶々を入れてくるような事も無く、無言でその花を見つめていた。
「花言葉には疎いッス。花にも。でもきっと降る程なんだから愛されてんスね」
「そう、なのかもな……」
それが、ヒバか
「解釈、良いっスか?」
「あぁ、好きにどうぞ。見るってのも勉強だしな。絵に匂いをつけたくないから、少し出て吸ってくる」
偉そうな事を相変わらず、と思いながら、俺はガレージを出て、彼女から貰った煙草に火を付けた。
夕暮れ時が始まり、ほんの少しだけ月が見える。
スーッとしたメンソールの味と、煙草にしては珍しいしっかりとした柑橘系のフレーバーが印象的だった。それでも煙の色は変わらず、真っ白く空に消えていく。
だけれど、それに光が当たるなら、その色は紫に変わり、それを人は紫煙と呼ぶ。
だから、彼女は『Sien』であってほしいと、そう思った。
「……良いっスよ。大体分かりました」
「早いな、一本吸いきったら行く」
『ブラックジャック』という銘柄が、どうにも彼女らしく思えた。
ライムのフレーバーというあたりも、どうせあの汚い部屋を探せばテキーラの瓶くらい落ちているのだろうと思った。テキーラの最もポピュラーな飲み方はライムを齧り塩を舐め、テキーラをショットグラスで飲み干すという方法だ。
彼女の場合は、塩は勿論、テキーラもあるだろうが、ライムなんてのは一々買うのも手間だろう。だからこそ煙草で代用しているのかもしれない。本物が一つだけかけているのが、彼女らしいとも思った。
そうして、その煙草の銘柄の名前がギャンブルの名前だという事も。
俺は意外と呑まず嫌いをしていたなと思いながらメンソールの効果で冷たく感じた空気を吸い込んで、ガレージの中に戻る。
「で、その解釈ってのは?」
彼女は難しそうな顔で、そうして悲しそうな顔で、小さく言葉を漏らす。
「怒らないッスか? 聞いてまずい事、無いッスか?」
「あったら良いなんて言わねえよ、言ってみろ」
俺が許可を出すと、彼女は絵に触れないまま、曇り空をすーっと指差す。
「婚約者さんは、亡くしてらっしゃいますよね」
「まぁな。結構前の事だから、もう気にしちゃ……いないが」
一瞬言い淀んだのが、悔しかった。きっと彼女も勘付いただろう、けれど俺の言葉にはあえてか反応せずに、彼女は次に話を進めた。
彼女の指が、次は晴れ間の方へと動く。
「教え子さん、良い子なんですね。正直、こんな不自然に晴れ間は差さないッス」
「アイツの場合は破天荒だからな。いつも空を見ているようで、実際の世界なんて見ていないんだろうよ。あいつの世界に見えてる物を描いているんじゃないかな。だから、今日のアイツにはそう映ったんだろうさ。良い子なのは、間違いない」
「その優しさみたいなの、私には無いんスか?」
「未来は未知だからな、アイツらとは少なくとも半年一緒にやってる。お前とは昨日会ったばかりだろ」
そういうと彼女は口を尖らせながら、花を見つめる。
「時間じゃないと思うんスけどね! そんで晴れ間に降るこの花! 名前と花言葉は後で良いっスけど! ……絶対に良い意味ですよね。愛してるだとか、そういう類い」
「俺も花の名前自体、教えてもらっていなかったんだよ。ただ教え子の女の子の方がそういうのに強くてな。ハーデンベルギアだってよ。愛してるじゃないけれど、花言葉もそういう類だったな」
言うと、彼女は俺の顔をジッと見つめた。その顔は悲しげだけれど真剣で、何か言いたげにしていた。
すっと、花を撫でるように屋上まで彼女の指が滑っていく。
「で、花言葉は何だったんスか?」
「貴方に出会えて良かった。だってよ。アイツ、知らさねえで死んでやんの」
「でも、ししょーは幸せモンっすよ。花が屋上まで降ってるって事は、その言葉が先生まで届いてるって、この絵を描いた子が願ったって事ッスもん」
そういう考え方もあるんだろうなと思いながら、不思議な縁を想う。
そんなことを思っていたら、急に彼女の顔つきが鋭くなって、絵を眺める優しい目つきから、厳しい目つきをこちらに向けた。
「で、だからししょーは本気を出さないんスか?」
――やられた、と思った。
この子の観察眼は確かな物だ。その時点で気付いておくべきだったのだ。
「ししょーだって画展で名前が知れてる画家、その利き手を知らないなんて事、無いッスよ」
「……どこで気付いた?」
ヒバとハヤの前では隠し通せていたと思い込んでいた。だけれどもしかしたら二人も言わないだけで気付いているのかもしれないと思うと、冷や汗が出る。
少なくとも、眼の前の彼女は、俺の利き手が左手で、普段右手で絵を描いているという事に気付いている。
「腕時計を左につけるのは上手いなって思いました。利き手の逆につける物ッスもんね。筆を右手で取った時に違和感があったんスよ。煙草は左手で吸ってたのにって」
思えば、絵を描く時という時に限定しすぎて、そもそも絵を描く時以外に使い分けをしていなかった。
ということは、その観点から見るとあの二人におかしく思われていてもおかしくないかもしれない。
「でも、明らかに右手で描いた絵は上手かった。だからちょっとカマかけて見たんスよ。それにしっかりししょーがボロ出してくれたってヤツッスね!」
「はぁ……ブラフかよ。誰に言うわけでも無いだろうけど、黙っててくれよ。別に本気を出してないわけじゃない。これは何ていうか、俺の呪いみたいなもんなんだよ」
その言葉に、彼女は少し寂しそうな顔をして、それでも首を横に振ってから、俺をもう一度強い視線で刺す。
「言うつもりは無いッス。でも聞くつもりはあります。私が"たった二日"で辿り着いた権利、半年で教え子ちゃん達が見抜けなかった事に辿り着かれた落ち度だと思ってくださいッス」
「まぁ……面倒な話だよ。でもそうだな、厳密には亡くなったアイツは関係ねえんだ。残念ながらな、その続きは……お前の絵がちゃんと『Sienの絵』になっていたら、話すさ」
そう言って、俺はヒバの絵をケースにしまって、彼女が丸一日寝ずに描きあげたであろう絵の近くまで、寄った。
ご丁寧にキャンバスが裏返しにしてある。
「あの絵の後に私の絵を見るってのも、やっぱほんと意地悪ッスよね。ししょーの事嫌いになりそうッス」
「昨日だってそうだよ。それに嫌い以前に好きでもねーだろがよ」
そう言いながら、俺は彼女の『Sien』としての一枚目の絵が描かれている。キャンバスを裏返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます