第十四話『曇り空、晴れ間に花が降る』

 俺の婚約者が亡くなったという決して明るくない話、あんな話のあとでも、二人はもう既に絵の世界へと入り込んでいた。違うのは、昨日アレだけ気合を入れて描いていたのだ。気分を変えて水彩画を描いているところくらいだろうか。


 昼休みは話し込んでいたのもあってか、珍しく絵の準備だけで何となしに終わったが、放課後はすぐに二人とも絵を描き始めた。


 切り替えが上手すぎるというか、他人事ではあるから、まぁある意味このくらいドライでもいいのだろうと思いながら、切り替えが出来ていない自分に少し嫌気が差した。

「なぁハヤ、その花ってさ。何色?」

「ん、紫っぽいかな」

 そんな言葉が聞こえたと思えば、ヒバは既に絵の具を混ぜて紫色をパレットに作り始めていたいた。

「え? 描くの?」

 それは俺が言いたい言葉だった。もしかしたら昼休みから放課後までの間で、彼の中で何か思う事があったのかもしれない。

「あぁー……なんか、センセの話聞いてたら描きたくなった。色味が違ったら指摘してくれな、俺は色知らんからー」

 そう言いながらも、ヒバが描いているのはまだ空だった。

 少し曇り空だけれど、ほんの少しの晴れ間が見える空を、絵の具を混ぜていた筆とは違う筆で描いていく。その水彩画が乾くまでの少しの間で紫色を作っていた。流石に器用なものだ。俺は筆を洗う用の水が入ったバケツの交換だけをせっせと行う。、

「ん、もうちょっとだけ薄めだったかな。真紫ってわけじゃなかったと思うけど、薄紫って程薄くもない」

「むずいなー。でもそっか、サンキュ」

 それでも、まだヒバは空を描いている。ゆっくりと丁寧に、灰色を混ぜながら、珍しく細かく空を描いていた。

「……柄じゃないわね」

「わーってるよ。でもなんか、描きたくなったんだからしゃーないだろ? そういう事あるじゃんか」

 ハヤの声が少し曇っていたのが分かる。それもそのはず、そういう丁寧でちゃんとした絵は、ハヤの専売特許と言っても良い。だけれど今ヒバが描いている絵は、真っ当な空。

 いつもの想像力や破天荒さ、強い印象が無い。目に映る綺麗な空だった。とはいえ、ハヤのそれに適う事は無いが、それでも技術としては驚かされる程度の綺麗な、写実的な空が描かれていった。

「ハヤはいつもこういうの描いてるんだな。俺には結構疲れる」

「そう? 慣れるわよ。何千枚か描いてみたら?」

 少しだけ嫌味のような、おそらくは真実を言ったハヤの絵は、昨日とは違っていつも通りにストレートな空が、曇っていてもまた綺麗だ。

 動き出す寸前のような雲、日が差すかのような光、時が止まっているようで、動いていた事も分かるような、そんな風景。だけれど少しだけ力強い筆使いに、少し笑った。


――やっぱりコイツらは面白いんだよな。

 あっという間に必要な物事を吸い込んでいく。

 自分の中で納得出来なかった事は、宿題として持ち帰ってるのかもしれない。

 普段の生活を知らないが、ハヤは昨日の反省を活かしてか、絵が胸を張っているようだった。

「ん、その色!」

 ハヤは少し大きな声を出して、ヒバはそのタイミングで絵の具の合わせるのをやめる。

「ん、じゃあ、やるか」


 少しだけ太い筆先で、彼は紫色の絵の具を掬う。

 その瞬間の彼は、単純な画家ではなく、アーティストへと変わっていた。

 

――彼は、曇り空に花を降らしている。

 その光景にはハヤも驚いたようで、完成間近の自身の絵の筆を止めていた。

「描くとは思ってたけど……」

 確かにそうだ、描くとは思っていた。けれどその絵は、降るハーデンベルギアを以て完成する。

 良く考えて見てみると分かる、彼は普段は描いていない屋上の柵まで描いていたのだ。珍しく真面目な作風だなとしか考えていなかった。

「まさか、お前がそう描くなんてな」

「たまには本気を出さなきゃ駄目だろ、な? センセ」

 ヒバは笑って、青空の隙間から屋上まで降り注ぐ紫の花弁を、いつもの作風で描き足していった。

 静と動、まさにそれが一枚の絵におさまっている。少しだけ薄めた色で描いている正確な空に、色こそ少しだけ薄紫に近いが、水であまり薄めていない絵の具が丁寧に、だけれど熱を帯びたかのように濃く、屋上へと降り注いでいく。

「でーきたっと。これはさ、センセにやるよ。だから……センセに判断は任す」

 まさか、彼から絵をプレゼントされるだなんて、少しも思っていなかった。

 少し不安気な彼の顔に、俺は笑いかける。

 きっと、彼の画号としての丸バツ三角を描けという事なのだろう。

 だから俺は、彼から紫色の筆を借りて、描かれている屋上の一番下に、俺なりのハーデンベルギアの花弁を描いた。

「俺にくれんだろ? なら、そのままで良い。だから花。つまりは花丸って事だな」

 それを聞いてヒバはホッとした顔で、ニッと笑った。

「しっかしお前も随分と粋な事するなぁ……逆に言えば空気を読めないとも言う。でも俺はお前のそんな所が嫌いじゃないよ、ヒバ」

 直接褒められたのが嬉しいのか、自信の笑顔から照れくさそうな顔になるヒバ。それをハヤはじっと見つめてから、俺の方に手を出した。

「私にも、その筆貸してください。ヒバばっかり、ズルい」

 言われるがままに彼女に筆を貸すと、彼女は昨日よりもずっと大きな、紫色の筆で『kanashi』と書いた後に、その横に小さなハーデンベルギアの花弁を描き足した。それもまた、ハヤなりの感情表現なのだろう。それはヒバが書いた物よりもより精密で、綺麗な花模様だった。

「流石にそこらへんはハヤのが上手いなー」

 ヒバは感心したようにその描かれた花弁を褒める。

 それを聞いてハヤもまた、少しだけ胸を張った。二人にとっての称賛の価値は、互いにとってのみ、純粋に存在している。俺の称賛とはまた別の何かが、そこには通っているように見えた。

「そりゃあね。でもあの一瞬で花弁の形を覚えてるヒバもどうかしてるわよ」

 

 珍しく、二人が笑い合っているのを見て、俺も静かに微笑んでしまった。本当にバカで、可愛い教え子達だなと、改めて思った。

 それに、この人生で絵を貰ったのは始めてだ。

 久々に、捨てられない物が増えた事が少し嬉しかった。


「先生。次は私が渡しますからね。私達の絵、たっかいんですから、喜んでくださいよ?」

 確かにコイツらがマジで絵を描くと普通に良い値段で売れてしまう。

 ハヤにもそのあたりの自信はあるのだなと、苦笑した。

「お前らは競うのがほんと好きだな……」

 俺は煙草ケースから手巻き煙草を一本取り出して、少し離れて火をつける。

「競ってる、つもりは無いんですけどね……。先生、それ一本貰えます?」


 なんてことを言っているんだ。

 なんてことを言い出すんだ。 

「いや競ってるだろ?! ライバル感バシバシに出てるぞ? しかもハヤの方からな! それで何で煙草を欲しがるの!」

 思わず口調もブレる程に焦ってしまった。

 それを見てハヤはムーっとした顔をしてから「まぁいいです、少し競ってた方が良い作品が描けますし」と納得してから、もう一つの方は納得していないようで、こちらに手を出した。

「煙草、一本ください。ケースは……写真に撮りますね。あ、だったら煙草も写真でー……じゃ駄目か」

「あぁ……描く為にって事な……」

 ケースはよくある物だから想像は出来たとしても、彼女も俺の為に絵を描いてくれるのだとすれば、煙草も描きたいと思ったのだろう。

 ということは、彼女の描く絵は空では無いのだろう。

「当たり前じゃないですか! 吸いませんってば! 馬鹿ですか先生は!」

 馬鹿は言い過ぎかもしれないが、確かに煙草にあまり好感を持っていない彼女が吸うわけがない。

 急に言われたもんだから早合点してしまった。

「悪い悪い、そりゃそうだよな。馬鹿は酷いが、ほれ」

「確かに馬鹿は酷いですよね、ありがとうございます」

 言ったのは自分なのにもう忘れた事にしていやがるのが、またどうにもこの子らしい。

 彼女は煙草をそっと受け取って、その形が崩れないようにどうしようかと悩んでいた。

「あー、だったらこれごと持ってけ、ポケットから煙草出てくんのはマズいだろ。これだけならもし見つかっても先生の忘れ物で話がつく」

「センセ頭良いな!」

 馬鹿と言われて数十秒後に褒められる何とも言えない気持ちのまま、彼女に煙草ケースそのものを渡した。

「アレだろ。だってハヤも、本気出すんだろ?」

 それを聞いて、彼女は少しだけ不敵な笑みを浮かべた。

「『さぁ……どうだかね』ってヤツですかね」

 まんまと昼休みの自分の台詞を若干引用されてしまったが、それは良しとしよう。

 楽しみが増えた。と思っていた所に、スマホが鳴る。

「んぁ、めずらしーなセンセ。友達いたんか」

「いねぇよ」

「即答なの、寂しいですね。流石に同情します……」

 二人のやや辛辣な言葉を聞き流しながら、スマホの画面を見ると一行だけ文字が届いていた。


『描きました』


 ただその一文のみ。

 それを見て、俺は小さく溜息を吐く。

「ヒバ、この絵、ほんとに貰ってくぞ」

「いやいや……流石に今日の今日で持って帰るには大きく無いです? 別日でも……」

 ハヤは俺を軽く制止したが、どうせこれから面倒事が待っているのだ。だったらそれの説明も兼ねて、彼の絵を持っていくのが得策だと、そう思った。

「倉庫に額縁あったろ。今日は水彩画だし、乾いたらそれに突っ込んで、貰ってく。お前らは帰り支度な」

 二人は不思議そうな顔をしながら、帰り支度を始める。

 俺はそれを確認してから、スマホで文字を打った。

『お代は煙草一箱、後で行く』


「いや返信してるし。友達じゃなきゃなんだよ……」

「面倒事だよ、面倒事。ほら帰った帰った」

 目ざといヒバの言葉をいなして、俺は彼の作品を乾かす為に倉庫に入り、額縁を探した。何処かにあるだろうと探したが、思わぬ所、倉庫の奥の棚の中にびっしりと詰まっているのを見て、俺は溜息を付く。

「山程ありやがる。クソッタレめ」


 さてはこの環境を作った金をあの二人の絵でペイする算段でも立てているのではないかとすら訝しむ自分がいた。

 二人を学校の金づるにはさせてやりたくないが、いつか金の卵は産ませてやりたい。

 それをどう使うかは、二人が決める事だ。


 そうして、何の卵を産むか分からない自称弟子からのメッセージでスマホが震える。

『ししょーは普段何吸ってるんスか?』

『今日は何でも良い、同じので』

 ココのメッセージに返信している俺の顔を見て、ハヤが眉をひそめる。

「友達じゃないっていう割に、なんだか嬉しそうじゃないですか? まさか……」

 絵を描く人間は、結局のところ嫌いじゃないのだ、無意識に笑っていたみたいだ。


――だけれど、その先は言わせない。

 ココは決して友達じゃない。かといってそれ以下の何かでも、それ以上の何かでも無い。人と人の間に、必ずしも関係性を作らなければいけない道理なんて、無いのだ。

 だけれど、分かりやすいように関係を説明する。理解してもらうために、その先を言わせない為に。

「まぁ、新しい生徒みたいなもんだよ。今度会わせてやるからボコボコにしてやれ」

 そう言うと、ハヤは少しだけ複雑な表情をした。おそらく、元々の美術部員との関係性や物珍しさで見に来る奴らを思い出したのだろう。

「だいじょーぶだよ。俺よりゃ上手いから」

「それで生徒って……まぁ私達が言うのもって話ですが……」

「本当にそうだよ! 本当にな! お前らが自分で言うと俺のアレがアレだから言わないようにな! 俺のアレが惨めだからな!」

 俺の戯れの言葉に、彼女は少しだけ笑って、倉庫を後にしていく。きっと冗談だと分かってはくれているのだろう。

 俺自身、俺の絵の事は好きになれないが、それでも二人はなんだかんだで、本当は少しだけ俺を画家として認めてくれているような、そんな気がしていた。

「ハヤの本気、楽しみにしてるぞ」

「……いつも本気ですけどねっ!」


――じゃなきゃ、俺にこんな明るい声は出してくれないと、信じたい。


 二人が帰った後、俺はヒバの絵が乾いたのを見てから額縁に入れ、なるべく周りに見られる事の無いように袋で隠して、持ち上げた。

 今日は二人ともクールリング等を使わずに済んだようで、空も曇っていたせいか、タオルの湿り気も少なかった。

 後片付けに関しては楽が出来そうだ。この絵のお礼ついでに洗濯もしておいてやろう。


 ココについては、もし適当な物を描いていたらすぐに帰るつもりだが、きっとあの瞬間からずっと絵と向き合っていたのだろうと思えば。六、七時間近く作業していたという事になる。

 作風や技術はすぐには変わらない。それでも真剣さの度合いはいつだって変える事が出来る。

 彼女が昨日の言葉で何か気付ける物があったとするならば、画家『Sien』としての始めての絵を見られるのならば、受けて立とうじゃないかと、そう意気込みながら、震えるスマホに目を落とした。

『そだ、ご飯食べてきます? 自分お腹ペコペコなんで今から作りますけど』

 その言葉に、一抹の不安を覚えたが、面倒だったので『じゃあそれも込みでお代って事で』と返しておいた。


 ハーデンベルギアが降る屋上を、ココはどう見るだろうか。

 最初からネタバラシをするつもりは無い。果たして彼女は、あの絵から何らかの感情を受け取る事が出来るだろうか。

 もし彼女にそれが出来たとしたら、それをさせたヒバは結局天才ということになる。だが同時に、彼女もまた強い感受性を持っているという意味で、強い才能があるという事になる。

 どうなるか、怖さ半分楽しみ半分で『じゃあ今から行く』とメッセージを打ち込んで、俺は屋上の鍵を締め、何となく覚えているココの家へと向かった。

 とはいえ、まずはキャンプ用品店を目印にしなければいけないくらいにはすぐ覚えられていないのが、何とも情けなかったが。

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