1.父は背中で物語る

 鶴戯つるぎが顔をのぞかせると、まずふたつの背中がみえた。自分からみて手前に兄、奥に父親の、どちらも背中が鶴戯を出迎えていた。否。彼らに鶴戯を出迎える意図などまるでなかったのだが。

 奥に座すいさむは文机に向かい、その背後に誘鬼ゆうきが膝を揃えてかしこまっている。少なくとも和やかなに親子談笑しているといったふうではなかった。鶴戯だってそれくらいの空気は読むことができる。

 しかし――

「ねーねー兄貴―、父さんに叱られ終わったらさ、ちょっとお隣のみよちゃんのことで相談のってよ。あ、それより父さん、長くなりそうならさ、オレの方優先して、お説教は後にしてもらえない? どーせいつものことなんでしょー? てゆーかさー、ふたりとも好きだよね。どーでもいいけどさ、飽きない?」

 どんなに深刻な話をしていようと一触即発の緊迫した場面であろうと、鶴戯にとっては完璧に他人事である。鶴戯には微塵も関係のないことだった。

 勇の肩がぴくりと揺れる。

「そうだな」

 勇は低くつぶやくとゆっくりと振り返った。畳をにじり向き直ると、頬を緩めて鶴戯に手招きをした。

「なあに? 父さん」

 鶴戯はペタペタと畳を踏んで、招かれるままにノコノコと勇の前までやってきた。そして、促されるまま畳にぺたりと膝をつける。

「おまえの言うとおり、おまえを優先しようじゃないか」

 そう言って勇は文机の上からつまみ上げた一枚の紙を、鶴戯の膝の上に乗せた。

「うん? なにこ、れ……っ⁉」

 紙にはたっぷりとした墨でただ一文字、「石」という字が書かれていた。それが膝に乗った瞬間、その紙がずしんと岩石のごとき重さとなり、鶴戯の膝を押さえつけた。

「え、お、ちょ、ちょっと! なにこれ、ちょっと父さん! これ重い! なにこれ重い重い重いっ! ちょっと、なんかじわじわ重くなるんだけど、父さん父さん、ちょっと父さん!」

 膝の上の紙っきれをどかせば逃れられるのだが、なにしろ紙は岩石並みに重いので、鶴戯の手ではぴくりとも動かすことができない。畳の上で正座したままじたばたともがいている鶴戯ごしに、勇は先客であったもうひとりの息子を見た。

「誘鬼、おまえも――って、待て。コラ、誘鬼。待たんか! まだ話は終わっていないぞ。 誘鬼っ!」

「俺の方はもう用はねーよ。本人たっての希望だ。鶴戯を優先してやれよ。じゃあな」

 勇が膝を立てた時には、誘鬼は早くも部屋を出て渡殿の角を曲がったところであった。

「あーっ! 兄貴―っ!」

 遠ざかる足音を追うように、鶴戯の声が屋敷にこだまする。返ってくる声も足音も、当然ない。

 部屋には鶴戯と父親が残された。

「さて、おまえのせいで、まんまと逃げられてしまったな」

 束の間の静寂を経て、困ったような笑みを浮かべる勇であったが、その表情とは裏腹にこめかみに浮いた青い血管が勇の憤怒を表現していた。そして、それに気付かぬはずもない鶴戯は、膝の重みに耐えながら、思ったことを正直に口走るのだった。

「父さんが、オレなんかに気をとられないで、ちゃんと兄貴を相手にしていればよかったんだよ。そもそも父さん、叱るときはしっかり相手の目をみて叱らなきゃ。背中でものを言うとかなんとか、本気で伝わるなんて思ってないよね? そんなの単なる主観だよ。自己満足。物語ってる気になってるだけで、相手の方は、着物のしわの形みて連想ゲームやったり、後頭部の寝ぐせに笑うか白髪数えるくらいしかやっちゃいないよ。おざなりに説教しても、相手にはちゃんと伝わらないって、オレは考えるけどなー」

 至極もっともなことであるのだが。

 勇もウムとうなずき、鶴戯の言葉を肯定する。

「おまえの言うとおりだが」

 勇は文机に向かって筆を取り、さらりと一文字書き付けると、その紙を鶴戯の頭上にかざす。

 紙には「拳」の文字。

「最近呪符について紫苑しおんと共同研究をしていてな。その延長で紫苑に手習いの弟子入りをしたんだ」

「へー、五十の手習いってやつ? その歳になって母さんのスパルタ教育はキツすぎるもんねぇ。紫苑の方がまだちょいマシ……」

 手にした紙切れが鶴戯の頭に触れた刹那。

「いったーい!」

「研究の延長と言っているだろうが。今日はコミュニケーションについて話をしようか。なあに、これを磨けばお隣のみよちゃんとも、きっとこれまで以上に親しくなれるだろうさ」

 ゴンという鈍い音が勇の部屋に静かに響いた。

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