終.月がとっても青いから

「お。月が出てきたな」

 誘鬼ゆうきが庭の真ん中に出て東の空に視線を向けると、赤みがかったおおきな月が昇っていた。あとしばらくもすれば、鏡のように白い月が辺りを煌々と照らすだろう。

「それで、月が出たらどうなるんだ?」

 すっかり忘れていたが、飛鳥あすかは自分の影を取り戻すために手首に麻紐をくくりつけて月が昇るのを待ち構えていたのだ。

「さあ。仕上げだ」

 誘鬼は手招きをして飛鳥を庭の真ん中に立たせた。赤い月はみるみる白く澄んでいき、銀の光を放って辺りを柔らかく照らしだした。

「飛鳥はそこに突っ立っていればいい」

 誘鬼が言う間にも月の光は緩やかに変化していき、飛鳥が庭に降り立つと、その足元に月の光を受けてできた影が落ちていた。

「誘鬼……」

 振り返ると誘鬼が低く呪を唱えていた。呪は飛鳥の耳に届く前に銀色の光に溶けて、その余韻だけが耳朶をかすめる。聞こえたところで何と言っているのか、その意味がわかるわけでもない。飛鳥は視線を月光より映し出された己の影に戻した。

「めでたし」

 パン。

 柏手が月影の降る庭に響き渡り、静寂が訪れた。

「これで元どおり、だ」

 さくさくと歩いて飛鳥の影の元にかがみこむと、その手首のあたりに手を伸ばし、輪の形に括りつけられた麻紐をつまみ上げた。そして、飛鳥の手首を顎でしゃくった。

「それ、もう取っていいぞ」

「お。ああ……あれ?」

 誘鬼に言われ、手首に括りつけられた麻紐をほどこうと、飛鳥は結び目をつまんだ。指先で結び目をつまんだりひねったりしていたが、八重波やえなみがほどけないように念入りに結び目を引っぱっていたので、なかなかほどくことができないようだった。

「鈍くせえな、貸してみろ……あ? なんじゃこりゃぁ⁈ ほどけねえ。じいや、どんだけ強く引っ張ったんだ!」

 クソッと悪態をつきながら紐の結び目付近をグリグリねじり、ようやくほどくと、その二本の麻紐を懐にしまい込んだ。

「よっし。それじゃ俺は帰らせてもらうぜ。じゃあな」

「あ、ああ。助かった、誘鬼。そうだ、夕餉でも食べて帰らないか? 爺や」

「あー、いい。帰る」

 八重波を呼ぼうと声を張り上げる飛鳥を制し、誘鬼は後ろ手に手を振って歩きだした。

「あ、おい。あの影って何だったんだ?」

 誘鬼の背に向かって、飛鳥が問うた。誘鬼は立ち止まって振り返ると、「さあ?」と肩をすくめた。

「影法師って地面にしかいたことがないだろ? そいつの目の真ん前に常に見えている、この大空に行ってみたくなったんじゃねぇの? オメーの飛鳥って名前に惹かれて、憑いてきたんじゃねーかなーって。本当のところは分からんけどな」

 銀鏡の昇る夕空を指さしながら、誘鬼は首をかしげるように答えた。

「じゃあな」

 あとは知らんと言って、誘鬼は踵を返した。

「遠回りしないでまっすぐ帰れよ」

 飛鳥の声を背に聞きながら、青白い月光の下を、誘鬼は悠然と屋敷を後にしていった。


   影法師・終わり

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続・もののけさうし なゆた黎 @yuukiichiro

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