泣き虫の凛ちゃんがヤクザになっていた

九十九一二三

第1話 前編

 平日の十八時過ぎ、今日用意した分の弁当が完売し、私はいつもより一時間早く店仕舞いに取り掛かろうとしていた。

 店内の掃除をするため、店の奥へ掃除道具を取りに行こうとする。

 その時、背後で店のドアの開く音が聞こえた。

 

 しまった。完売の札を外に掛けるのを忘れていた。


「すみません、今日はもう完売してしまったんです」

 私は慌てて振り返って、出入り口に立っている客に対して頭を下げようとした。

 しかし、私は客の姿を見て、思わずギョッとする。

 そこにいたのは、紺色の柄のワイシャツに、黒のスーツを身にまとった二十代半ばくらいの男だった。

 かなりの長身で、百九十近くあるのではないかと思うくらいに背が高く、体型もジャケット越しでも分かるくらいに筋肉質だ。

 そして何より、こちらを突き刺すような鋭い眼光に、私は怯みそうになった。

 一目で、普通の人間ではないと確信した。

 

「ああ、客じゃねぇんだ」

 男は巻き舌交じりの低い声で言い、右手を自身の顔の前でヒラヒラと力なく振る。

 そして、男がヅカヅカと私のほうに近づいてきたため、私は反射的に後退った。

 

柿本拓海かきもとたくみって知ってるだろ?」

 その名前を聞いた瞬間、私は嫌な予感がした。

「は、はい、知ってますけど……」

 柿本拓海というのは、私の元彼だ。二年ほど付き合っていたが、三か月前くらいから音信不通になっていた。しかし、私は失踪した彼のことを心配していない。なぜなら、柿本が消えた理由は大方予想がついているからだ。

「柿本はうちから金を借りてるんだが、あいつ飛びやがったんだ」

 男は苛立ったような表情で吐き捨てる。

 ああ、やっぱり――。

 

 柿本は半年前に友人の影響でギャンブルを覚えたらしかった。

 元々は酒も煙草もしない真面目な人だった反動なのか、かなりのめり込んでしまったらしく、色んなところから借金をしているとボヤいていた。

 私は止めたのだが、向こうは全く聞く耳を持ってくれなかった。正直その瞬間、柿本に対する気持ちは完全に冷めてしまった。

 目の前にいる威圧感のあるこの男は、おそらく闇金の人間だろうということは予想が付いた。――つまりヤクザだ。

 柿本は借金で首が回らなくなったせいで、消息を絶ったのだろう。

 

「あんた、奴の居場所知ってるか?」

「し、知りません……。私にも何も言わずにいなくなっちゃったんで……」

 私は男の顔色をうかがいながら、恐る恐る返した。

 すると、男はわざとらしくため息を吐きながら、内ポケットから三つ折りになった紙を取り出した。

「こっちも商売だからな。貸した金返してもらわなきゃ困るんだわ。柿本が消えたから、のあんたに返してもらうために今日はここに来たんだ」

 私は耳を疑った。

 連帯保証人?

 

 男は取り出した紙を広げて、私の前に突き出した。

 それは借用書だった。借主の欄に柿本の署名と捺印がされ、連帯保証人の欄には私の名前・副島幸希そえじまゆきという署名と捺印があった。

「えっ!?」

 私は目を疑った。

 確かに押されている印鑑は私のもので間違いないが、署名は私の字ではない。

「こんなの署名した覚えない……。でも、何で私の印鑑が……」

「……柿本は、あんたの家に出入りしてたか?」

 私が狼狽えていると、男がそういてきた。

「よく泊まりに来てましたけど……」

「あー、その時にこっそりあんたのハンコ押したんだろうな」

 男は私を哀れむような目で見下ろしてくる。

 嘘でしょ。

 まさか柿本がそんなことをする人だと思わなかった。

「わ、私、こんなの知りません。連帯保証人だって、彼が勝手に……」

「そんなの知ったこっちゃねぇよ。こっちからすりゃあ、あんたが嘘ついてない保証なんてどこにもねぇからな」

 男の反論に、ぐうの音も出ない。


「……い、いくらですか?その、借金……」

 私は恐る恐る尋ねた。

「利息含めて六百万だ」

「ろっ――」

 私は目の前が真っ暗になった。

 この弁当屋の維持と一人で質素に生活するだけでやっとの私が、そんな大金を持ち合わせているわけがない。

 私が固まっていると、男は「どうした?払えねぇか?」と高圧的な態度で訊いてくる。

「む、無理です。払えません」と、私はかぶりを振る。

 私は目の奥がツンとして、今にも涙が出そうだった。

「だと思ったよ」

 男はため息交じりにそう吐き捨て、借用書を再び折りたたみ、懐に仕舞った。


「そこで、俺から提案が二つある」

 男はそばにあるカウンターの上に肘をついた。

「一つは、この弁当屋を売ることだ」

 私は男の提案に言葉を失った。

「店自体は狭いが、駅前で立地はなかなか良いからな。借金を完済できるだけの額で売れる」

 

 この店は、他界した両親が遺した形見のようなものだ。料理自慢の母と、そんな母を愛していた父が宝物のように大事にしていた店で、両親が亡くなった今でも常連さんに愛されている店だ。

 この男はそれを手放せと言っている。

「そんな……、お店を売るなんて、そんなの……」

「それじゃあ、もう一つの案にするか?」

 男は先ほどよりも冷徹な声で、こちらを睨みつけてくる。


稼ぐか」


 男の凄むような言葉で、私は何者かに心臓をギュッと掴まれたような感覚になった。

の経営してる風俗店があるんだ。もう一つの提案っていうのは、その風俗店で働いて借金を返すってことだ」

 男の言葉を聞いて、背筋が凍った。

「どうする?やっぱり店売るか?」

 男は店の売却を執拗に勧めてくる。

 私の脳裏には、両親の姿が浮かんだ。

 調理場で母が世話しなく弁当を作り、カウンターで父が明るい笑みを浮かべながらその弁当を売っている姿だ。

 

「お、お店は、売りません……」

 私は、どうしても店を手放したくなかった。

「はあ?」

 男の唸るような声に、私は気圧けおされる。

 この時、私は改めて目の前の男に恐怖心を抱いた。

「じゃあ、身体売るっていうのか?」

 男は苛立ったようにカウンターの上を指でトントンと叩く。

 私は唇を噛みしめながら頷いた。

 すると、男は右眉をピクッと動かす。――私には彼が焦っているように見えた。

「お前、風俗がどういう場所か分かってるんだろうなぁ?」

「わ、分かってます……」

 私がそう答えると、男は大きく舌打ちをした。


「あぁ、分かったよ」


 男はそう言うと、私の腕を掴んでグイッと引っ張った。

 そして、調理場へと続く扉を乱暴に開け、私を無理やりそこに押し込む。

 男は後から調理場へ入り、逃げ道を塞ぐように扉の前に立った。

 室内には、揚げ物の油の臭いが充満している。


「脱げ」

「えっ……」

 私は息を呑んだ。

「お前がちゃんと男の相手できるか俺が確認してやる。俺一人の相手もできないようじゃあ商売なんねぇからな。……分かったら、さっさと服脱げ」

 男は高圧的に私に命令する。

 

 そうだ。この男の言う通りだ。

 私はこれからをすると決めたのだ。

 

 私は男の獲物を見定めるような視線に委縮しながら、恐る恐る三角巾とエプロンを外して調理台の上に置いた。

 次にブラウスのボタンに手を掛けて、一つずつ外していく。

 

 大人しく言う通りにしていればいい。

 従順にしていれば、そんなに酷いことはされないはずだ。

 時間が過ぎ去るのを待っていれば、きっとすぐに終わる。

 それをこれから何度か繰り返せば、借金なんてすぐに返せるはずだ。

 そうすれば、このお店だって――。


 胸元のボタンを外す手が突然震え始め、それ以上動かせなくなった。

 視界が歪み、私は自分が泣いていることに気づいた。そのことに気づいてしまうと、もう涙が止まらなくなった。

 

 怖い。

 

 その言葉だけが脳裏に浮かんだ。


 私がうつむきながら泣いていると、頭上から大きなため息が聞こえてきた。

 私は男の様子を窺うために、恐る恐る顔を上げた。

 男は呆れたような、しかしどこかホッとしたような表情で襟足を掻いている。

 

「もういいよ。お前には風俗なんか無理だ」

 男はため息交じりにそう言い、視線を右斜め下に向けた状態で乱暴に調理台の上のエプロンを掴むと、それを私の前に突き出した。

 私はエプロンを受け取ると、それを両手で抱きかかえる。

 

「一週間だけ時間をやる。それまでにどうするかじっくり考えろ」

 男はジャケットのポケットから名刺入れを取り出すと、一枚取って私の手に無理やり握らせた。

「何かあったら、ここに連絡しろ」

 男はそう言い残すと、店から出て行った。








 男が出て行った後、私は床に座り込んで膝を抱えながらすすり泣いた。

 

 どうしよう。六百万円なんて、一週間で用意できるわけがない。

 大事な店を売りたくない。

 でも、さっきの続きをするなんて、私には到底無理だ。

 どうして私がこんな目に――。

 

 様々なことを考えては絶望した。

 散々泣き腫らして、少し冷静になった頃、私はふと自身の手に握りしめられている名刺の存在を思い出した。

 握りしめてクシャクシャになってしまった名刺を私は広げる。


 三代目反田はんだ組 若頭補佐 酒々井凛しすいりん


 私はその名前を見た瞬間、遠い昔の記憶の中にいた男の子のことを思い出した。


 ――幸希ちゃん、バイバイ。


 泣き腫らした顔をして、私に手を振る小さな男の子。

 

「――凛ちゃん」

 私は無意識のうちに、彼の名前を呟いていた。

 

 小学生の頃、同級生の中に身体が小さくて気の弱い男の子がいた。――高橋たかはし凛。

 いつも同級生の男子たちにいじめられていて、怪我をして泣いていた。

 いじめられて泣いている凛ちゃんを私はいつも守っていた。

 当時学年の中で一番背の高かった私が「コラー!」と言っていじめっ子たちを追いかけると、彼らは「デカ女だ!逃げろ!」と走り去っていく。

 そんな私に対して、凛ちゃんはまるでヒーローでも見るかのように目を輝かせていた。

 

 小学四年生の時、凛ちゃんは両親の離婚が原因で転校することになった。

 その時、苗字が高橋から酒々井に変わった。珍しい苗字だったのでよく覚えている。

 引っ越しの時も、凛ちゃんは「幸希ちゃんとお別れしたくないよ」と言って泣いていた。

 転校してからしばらくは手紙のやり取りをしていたのだが、中学に入った頃、突然返事が来なくなった。


 あれから十数年、いじめられっ子だった幼馴染と同姓同名のヤクザが、私の目の前に現れた――。

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