第10話

 警察署を後にして、私は和住さんの車に乗った。

 和住さんが車を走らせると、浅田さんの車がすぐ後ろに付いてきた。

 私は今日一日の疲れがドッと押し寄せてきて、シートにもたれ掛かりながら大きなため息を吐く。


「幸希ちゃん、災難だったねー」

 和住さんはいつもの調子で話しかけてきた。しかし、和住さんのそういった態度は、今の私を和ませてくれる。

「なんか、全然現実味がないです」

 自分でそう言いながら、私は改めて目の前で人が撃たれる瞬間を見たのだと思い出す。まさか日本に住んでいてそんな現場に居合わせるとは、夢にも思わなかった。

 凛ちゃんや和住さんにとっては、こういうことは日常茶飯事なのだろうか。


 ふと、凛ちゃんのことを思い出して、急に心細さを感じた。

 凛ちゃんに会いたい。

 凛ちゃんの顔を見れば、この不安も消え去るだろうか。


「あの人、何で私のこと殺さなかったんだろ?……顔見ちゃったのに」

 私はあの時、カウンターの裏に倒れ込んでいたが、犯人が殺そうと思えば殺せたはずだ。それなのに、彼は逃げていった。

「ああいう奴らってねー、意外と臆病者なのよ。凛ちゃんや石井さんみたいなおっかない奴相手だと平気で撃ち殺せたりするの。だって、明らかに『悪い奴』じゃん。人間って、見るからに『悪人』って奴には容赦ないもんなんだよ」

 和住さんは明るい口調でつらつらと言葉を並べる。

「でも、幸希ちゃんは違うでしょ?こんな普通で大人しそうな女の子、簡単に撃ち殺せる奴なんてそうそういないよ。『良心の呵責』っていうのかな?ああいう奴ほど、何の罪もない人間を殺すのに抵抗があったりするもんなんだよ」

 和住さんは「俺だったら、速攻撃ち殺されてただろうけどね」とゲラゲラ笑いながら自虐を言う。


 そうか。凛ちゃんって、周りから見れば悪い人なのか……。

 ……確かに、悪い人か。

 借金の取り立てで人を殴るし、薬物の売人を脅したりするし……。

 だけど、私にとっての凛ちゃんは、悪い人ではない。いや、むしろ――。

 

 和住さんはバックミラーをチラッと見る。

「――うーん、やっぱりつけられてるなぁ」

「え?何がですか?」

「幸希ちゃん見えるかな?右後ろの車」

 和住さんに言われて、私は後ろを向く。すると、右側の車線に、白のミニバンが走っているのが見えた。

 私たちのすぐ後ろには、浅田さんのシルバーのワゴン車が走っている。

 

「あの車、警察署を出た後からずっとついて来てるんだよな」

「えっ、嘘……」

 ずっとついて来てる?まさかあの車の運転手は犯人?

 ミニバンは私たちのすぐ右後ろを走っていて距離は近いのだが、フロントガラスに黒いスモークが貼られていて運転手が見えない。

 気味の悪さを感じていると、ミニバンは突然和住さんと浅田さんの車の間に割り込んできた。

 私はそれを見た瞬間、ギョッとした。

「マジか、あいつ」

 和住さんは大きく舌打ちをする。

「幸希ちゃん、ちゃんと掴まっててね、怪我するから」

「え?はい?」

 私が和住さんの言葉を理解するより前に、和住さんは思いっきりアクセルを踏み込んだ。車は急発進し、私は背中と後頭部をシートに打ち付ける。

「きゃああああああ!!?」

 







「うぅっ、きもちわるい……」

 急発進した和住さんの車は、そのまましばらく猛スピードで走り続け、どこかの駐車場に停まった。

 車が曲がったりするたびに何度も身体を揺さぶられたせいで、完全に酔ってしまい、今にも吐きそうだ。

 すると、私が座っている助手席のドアガラスからコンコンとノックするような音が聞こえた。私が外を見ると、そこには腰を屈めて中を覗く凛ちゃんの姿があった。

「凛ちゃん!?」

 凛ちゃんはドアを開けると、「降りろ」と私に命令する。

 

 どうして凛ちゃんがここに?

 私は何が何だか分からなくて困惑する。


「さっき怪しい車がつけて来やがった。石井さんを撃った奴かもしれねぇ」

 私が車を降りようとしていると、和住さんが凛ちゃんに向かってそう言った。和住さんの口調がいつもより荒々しい気がする。

 どうやら和住さんは、犯人に追われていると思ったから、逃げるために車を急発進させたようだ。

 和住さんの言葉を聞いた凛ちゃんは、険しい表情で唇を噛みしめる。

 

 私が車を降りると、和住さんが背後から「この貸しはデカいからな!」と叫んだ。

 私が驚いて振り向くと、先ほどまで険しい顔をしていたような気がする和住さんは、いつもの明るい笑みを私に見せた。

「じゃあね、幸希ちゃん。また会おうね」

 凛ちゃんがドアを閉めると、和住さんの車はさっさと走り去った。


 和住さんを見送ると、凛ちゃんは無理やり私の腕を引っ張る。

 そして、「乗れ」とだけ言って、近くに停めていた自分の車の助手席に私を押し込んだ。







「ねえ、凛ちゃん、一体どうしたの?」

 どこかへ車を走らせる凛ちゃんに対して、私はそう問いかけた。

「どうした、って……、逃げてるんだよ」

「えっ、逃げるって……」

「石井を撃った奴からだよ!」

 凛ちゃんは苛立ったように声を荒げる。

 どうやら凛ちゃんは、あのミニバンの運転手が犯人であると確信しているようだ。

 

「で、でも、警察の人が守ってくれるって……。早く逮捕してもらうために、今から通報したほうがいいんじゃ……」

 犯人に追われているからと言って、別に私たちが独断で逃げる必要なんてないはずだ。

 そう言えば、浅田さんはどうした?

 先ほど和住さんが車を猛スピードで走らせたせいで、私のことを見失ったのではないか?

「サツなんか信用できるかよ」

 凛ちゃんはそう吐き捨てる。

 凛ちゃんの顔は、かなり焦っているように見える。

 私は凛ちゃんの態度を見て、彼が私を警察からも遠ざけようとしていると感じた。

 なぜだ?凛ちゃんはヤクザだから、警察を嫌っているのだろうか。だから、私を警察から遠ざけようとしている?


「ねえ、どうしてあの駐車場にいたの?凛ちゃん、私たちが来る前にはあそこにいたよね?」

 私は和住さんが逃げ込んだ駐車場に、凛ちゃんがいたことに疑問を抱いていた。

 和住さんの車が停まってから凛ちゃんが現れるまで、二、三分も掛からなかった。おそらく私たちが来る前には、既に凛ちゃんはあそこにいたはずだ。

 まるで犯人が私を追って、和住さんがあそこに逃げるのを事前に知っていたようだ。

 いや、そもそも凛ちゃんと和住さんは、事前にあそこで合流すると決めていたのではないか。

「……お前には関係ない」

 凛ちゃんは明らかに何かを隠している。

 

「……ねえ、やっぱり通報したほうがいいんじゃ――」

「うるさい!黙ってろ!」

 凛ちゃんの怒鳴り声に、私はビクッと身体を震わせて息を呑んだ。

 車内にはピンと張りつめた空気が流れ、私は唇を噛みしめながら俯いた。


 どうして凛ちゃんは隠し事をするのだろうか。

 私には言えない事情があるのだろうか。

 さまざまなことを考えては、私は胸の苦しさと孤独を感じた。


「――ごめん」


 運転席から、か細くて弱々しく、絞り出すような声が聞こえてきた。――まるで、子供の頃の凛ちゃんの声のようだ。

 私がハッとして凛ちゃんのほうを見ると、彼の苦しそうな横顔が目に入った。

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