始まりの前の物語
「……で、ついつい反射的にプロポーズを受けて、大急ぎで婚約して同棲して、今までの忙しさを塗り替えるが如く肉欲にふけて、めくるめく淫靡で扇情的な官能の日々をただれて過ごしているわけね」
椅子に腰掛け、向かいのテーブルに置いた弁当箱の唐揚げをつまみながら、アイラは言った。後ろに立っているニルレンは自身の両の頬を包む。その拍子に両手からするりと焦げ茶の髪が滑り落ちたため、ニルレンは慌ててそれを手に取り直した。
「えー、だってー、トリオがわたしのこと恋愛対象と思っているなんて夢にも思わなかったし、『もし良かったら、私と一緒になってくれませんか』とか『もし嫌じゃなかったら、良ければ私と結婚を前提にお付き合いしてくれせんか』とか言われちゃったら気持ちが高ぶっちゃってぇ」
「当事者だとそんなもん? 最近は割とそんな感じだったよ。ただ、トリオさんの性格上、どうかなるにしてもニルレン主導かなと思ってたので意外」
「わたしも意外! そのうち魔法で押し倒そうかと思ってたし、結果的にはそうした!」
「相変わらず過激で可愛いねぇ。どうやって押し倒したのかは、聞きたいような絶対聞きたくないような難しいところだよね」
両手を動かしながら、普段よりも甲高い調子で説明し始めたニルレンの話を、アイラは相槌と絶句を繰り返しつつ楽しんだ。
悠揚迫らぬ態度が実に似合った容姿の持ち主は、椅子の脚元で食事をしているタマとベンに飲み水を注ぎ、彼女の髪に手を加えているニルレンに叱られた。
「せっかく可愛くしているんだから、動かないでよ」
「はいはい」
アイラは云返しはせずに、素直に位置を戻した。
「まあ、今更開通状態で影響がある話ではないのでそこはご自由に。それよりも、お仕着せじゃない、想像できない展開というのはいいものだな。おめでとう」
「ありがとう! アイラにそう思ってもらって嬉しいわ」
お礼を言い、そのままニルレンは暫く手を動かし、やがて完了した。
「できた! アイラ可愛い!」
「はい。ありがとう。髪が流れないから前が見やすいね」
「伸ばした方がもっと可愛いと思うのよ」
「いつか、機会があったらね」
両の耳横の短い髪はいくつも細かく編み込まれ、ピンで留められた。旅装束には似合わない若い女性のよそ行きのような髪形となったアイラは、再び弁当箱のおかずをつまんで口に入れた。
「いやあ、相変わらずトリオさんの卵焼きは美味しいねぇ」
ニルレンは回り込んで、アイラの眼前に立った。アイラは口の中に入ったままの食物を飲み込んだ。
「ねえ。アイラ」
「髪なら伸ばさないよ」
「違うわよ。そうじゃなくて、お仕着せだったら、わたしは勇者に片想いして失恋する天才美少女魔法使いだったのよねぇ?」
背を屈めて、アイラに目を合わせる。回答者は視線はそのままに、再度摘まんだ卵焼きを口に入れ、そのまま頷いた。
「と言うことは、ホント、アイラのおかげよね」
ニルレンは破顔する。
それを目にしたアイラは弁当箱横に置いていた布巾で両手を拭った。
「何言ってるんだい。ニルレン」
アイラは右手を差し出した。
「今のあなたを作り上げたのは、ちょっとした偶然の他は、あなた自身の力と根性だよ。天才美女魔法使いの勇者様」
その手に応えつつも、ニルレンは頬を膨らませる。
「アイラって本当にわたしに嫌なこと言わないわよね」
「私は大好きなニルレンが幸せなのが一番だから」
「わたしもアイラ大好き! わたしが男だったら絶対にアイラと結婚するのに!」
ニルレンはアイラに抱きついた。懐抱された相手は手を伸ばして、女性にしては背の高い相手の髪をくしゃくしゃと揉む。
「長年片想いしてた相手とはれて両想いになって朝から晩までいちゃつきまくっている人の言葉ではないな」
「男はトリオが一番だけど、女はアイラが一番なの!」
「ありがとう。わたしもニルレンが一番さ」
「えへへ、やった両想い! 好きー」
更に力を強くし、自分の胸元へ更に相手を引き寄せようとするニルレンに対し、アイラは「うーむ」と一つ唸った。
「性的対象は女性ではないと自覚しているんだけど、本当に、トリオさんさえいなければ余裕で手を出しそうな可愛さだな」
「女性同士は考えたことないけど、アイラなら唇までならいけると思うわ!」
「いかないでいいよ。略奪する趣味はないし、女性は性的対象ではない」
柔らかく相手の両の肩を押し、アイラはニルレンから距離を取った。
「ほらほら、トリオさんに関して何かもっとノロケを聞かせてよ。砂糖じゃりじゃりであまりの濃度に胸焼けしそうになるやつ」
「えー、うーん、あ、抱きついても怒らなくなった! 一緒に出かけるときずっと手を繋いでる! 家でもずっとくっついてる! めちゃくちゃ甘やかしてくれる!」
「トリオさん、元々ニルレンにゲロ甘い気はするけど、手つなぎいいね! もっともっとちょうだい。ほら、おはようのチューとか、いただきますのキッスとか、ケンカの後の仲直りのおしべとめしべと媚肉とかそういう恋人同士の約束事!」
「ええと、今日の朝は私がトリオに対して正面から六十度の角度に腕を伸ばして――」
両手を使って事細かに説明をし始めるニルレンに、アイラは大きく拍手をした。
「おお! ニルレンの幸せな恋バナでしか満たせない心の隙間が埋まるよ!」
「アイラが満足するなら話して良かったわ!」
二人はそのまま右手を上げ、打ち合わせた。
「まあ、話がややこしくなりすぎるから、今は妊娠だけはしないでね」
「さすがにぬかりないわよ。あちらに行ったら、何も知らない自分以外をどこまで守ることが出来るかなんて未知数だし。不安要素は一つでも減らしたい。危ない橋を渡るわけがない」
「それなら良かった」
アイラは立ち上がり、外套を羽織った。
「じゃあそろそろ行こうかな。男の方のニルレンの愛しの君に会ってこないと」
「名残惜しいけど、そうね。わたしは時間ないし参加できないから、代わりに楽しんできてね」
「任してくれ」
アイラが宿屋の支払いを済ませた後、二人と二匹は建物から屋外へと出た。
日中の首都の繁華街は、実に容易に、若い女性二人と動物二匹を雑踏の中へと紛れ込ませていた。
行き交う人の妨げにならない場所へと数歩進み、ニルレンは腕を掲げ、瞑目した。
「うーんとね。あっちの方角にいるわ。二本くらい向こうの通りかな。トリオのことだから、何か食べていると思う」
「分かった。ありがとう」
右手の親指を立て、歩みを進めようとするアイラの腕を、ニルレンはそのまま掴んだ。
「ねー。送ってくわよ? 近づけばもっと細かい位置分かるし」
「いいよ、別に」
「送らせてよ! 私がもうちょっとだけ一緒にいたいの!」
腕に縋りつくニルレンに対し、アイラは黙って頷いた。
先程ニルレンが示した方向に全員で向かう。そしてほどなく一軒の酒場にたどり着いた。
「ここね」
「はい。というか、すごいね。本当にトリオさんって浮気や悪さできないよね。いる場所がバレちゃうから」
「普段は意識しないようにしてるわよ。別行動して、合流したいのに見つけられない時くらい」
「……普段も意識できるんだ」
二の句が出るまでに少々時間を要したアイラに対し、軽くニルレンは頷いた。
「テストだけじゃ不安じゃない。本番を想定とした環境に導入しないと、いざというとき穴があったら困るでしょ。記憶がないわたしが、トリオに無意識に引きつけられないといけないんだし」
「そうなんだけど、相手が知らぬ前に束縛して監視する重たい彼女にしか思えない」
「必要なときだけよ。心配しなくても、全てが終わったら消すわよ」
物問いたげな表情の親友の気持ちを鑑みて、ニルレンは返す。
「大丈夫よー。わたし、トリオ信じてるもん!」
「……まあ、トリオさんもその方面で後ろ暗いことはしないだろう。こんな可愛いニルレンがいて浮気するわけないし、あの性格だし」
片側だけ口角を上げ頷いた後、「じゃあ」とアイラは右手を挙げる。その腕をもう一度ニルレンは取る。
「待って。やっぱりもう一回抱きしめてもいい?」
まっすぐとアイラを見つめるニルレンに対し、彼女は軽くため息をつく。
「いいけど、一週間後にもう一回会うでしょ」
「それはそのとき! 今抱きしめたいの!」
握りしめた両手を大きく振る、女性にしてはやや長躯の女性を見上げ、アイラは口角の片側だけを上げた。
「ほんっと可愛いなぁ。ニルレン」
「アイラもめっちゃくちゃ可愛いわよ」
「はいはい。ありがと」
強く言い切る友にやる気なく返事をした後、アイラは軽く手を振り、扉をくぐって食べ物の香りと喧騒の中へと入っていった。
「またね、ニルレン、タマ、ベン」
抑揚のない別れの言葉を残して。
扉がゆっくりと閉じるのを確認し、ニルレンは建物の壁に寄りかかり、そのまま軽く蹲った。タマは足元に寄ってきて、ベンは腕によじ登ってきた。
「ありがと。でも大丈夫よ。タマもベンもいるもの」
右手でタマの両耳の間を軽く撫でると、仲間の猫はゆっくりと首を回した。凭れかかっていた背中を軽く前に倒すと、ベンはおぶわれたがるように、ニルレンの背中へよじ登ってきた。
立ち上がると、背中にくくりつけている杖がベンと共に擽ってきて、思わず笑い声を溢れ出した。
「あははっ。ねー、タマ、ベン。アイラって本当に分かってないわよね」
ニルレンの男性の中での一番と、女性の中での一番が語り合っているはずの酒場の扉をちらりと振り返る。
「わたし、欲深いの。手に入れたいのは、トリオだけじゃないわ」
ニルレンは、扉に向かい、大好きな腹心の友と同じように、口角を片側だけ上げて微笑んだ。
「わたしはあなたを、あなたの世界には渡さない。わたしの世界に引き入れる」
それは、決して相手には届ける気のない誓いの言葉だ。
「だから、あなたを騙す。トリオも利用する。魔王にだって協力を求めるし、世界の理もぶち壊すのよ。アイラ」
ベンがぽんぽんと肩をたたくと、ニルレンの両方の口角は上がった。
「あれよ、ベン。うまくいったらみんな好き勝手にできるわけ。だから、アイラが恋に落ちた様子もみたくない? 絶対めちゃくちゃ可愛いもの!」
そのまま相手の反応を確かめることなく、ニルレンは言葉を続けた。ベンは首を振って地面へと降りていく。
「でもー、ほら、アイラの恋の相手はやっぱり完璧じゃないと嫌よね! めちゃくちゃ優しくてアイラと話が合って尊重してくれて、剣は騎士団長よりも上手くて、魔法はわたしよりも上手くて、トリオよりも顔が良くて料理が出来て研究所の誰よりも優秀で……」
ニルレンのズボンの裾を、ベンが引っ張った。
「え? そんなやついない? でも、何度でも言うけど、やっぱりアイラはわたしとは結婚できない以上完璧な」
ベンがニルレンの脛を二回たたく。
「そもそも、相手が必要かどうかもアイラが決めることだから、自分の価値観を押しつけるなって?」
ベンは頷いた。
「それは分かってるけど、でも、アイラが相手を見つけることを幸せだと判断するときもあるでしょ? そうしたら、やっぱりその相手には、付き合う前にわたしが試練として魔法をぶっ」
ベンはニルレンの脛を一回叩いた。
ニルレンはしゃがみ、抗議する仲間を半眼で見た。
「ベン厳しい! ねー、タマ、酷いと思わない?」
タマはニルレンから一歩離れた。
「えー、タマつれないー」
そして、ニルレン達はワシスの門を抜け、ウヅキ村の家からほど近い、ひと気の無い畑の側へと向かった。
「……誰でも遠くに行けるようになったら、こんなにこそこそしなくていいのに」
ため息をついた後、はっと息を飲み込み、ニルレンは両の手を打ち合わせた。
「そうね! これが終わったらそれ考えよ! いいと思わない? 移動が自由になったら、知識も混ざり合うし、選択の幅が拡がるもの!」
案に関して、連れの二匹の態度に満足しながら、ニルレンは背中にくくりつけている杖を手にした。
「タマ、ベン、そろそろ神殿に行こっか!」
タマはニルレンの左手に乗り、ベンは背中にしがみ付いた。
「そうよ。二人の未来はわたしのもの。絶対に手にしてやるわ」
そのまま杖を持っている右手を振り上げると、一人と二匹は空へと浮き上がり、やがて畑から肉眼では確認できない程に離れていった。
【本編完結済】Common tale 〜ありふれた物語〜 仁嶋サワコ @nitosawa
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