葬儀

開幕早々、母の自慢から入ることをご容赦頂きたい。


本人は日記に一切記述していなかったが実は「13.抗がん剤治療の断念」には続きがある。


2023年9月30日。我々家族は母の命により招集を受けていた。


議題は、母が死んだ後の事を決める。


まず、我々には母手作りの資料が配られた。そこには、母の意向がびっしりと書いてあった。


・死にそうになったら在宅医療を受け持っているKK先生を呼んで緩和ケアを行いつつ自宅で死にたい。

・死んだら死装束を着せて欲しい。も事前に用意した。

・死化粧は夫の弟の妻にやって欲しい。

・夫側の墓と私の実家側の墓、両方に入りたいので

・葬儀のBGMはCDにして9枚分考えてある。

・死んだときの連絡はこんな感じで分担しておいた。

・遺産の額はこんぐらいだからみんなでバトルしてね。

・通帳や登記簿の場所もここだから覚えてね。


じゃあもう生前葬しよう!?と言ってしまった。これから死ぬ人が一番葬儀にノリノリだったのだ。


今思うと、母はここで死ぬ覚悟を固めていたのだ。だからと言ってここまで出来るだろうか。少なくとも今回担当してくれたお坊さんと葬儀屋さんは「聞いたことない」と言っていた。



あと「17.末期」にも書いていないね母。12月のいつだったか忘れたが、葬儀屋さんと事前の打ち合わせをしたのだ。を交えて。


いやー、葬儀屋さんビックリしてたねえ。普通こういうのって本人には内緒で行うものだから非常に混乱していたねえ。……はい、すみません。うちの母、死への受容がキマっているものでして……はい……


というわけで始まった本人含む葬儀の相談。ホールの入り口に自分の作品を飾りたいだの、花はこれがいい菊は嫌だ明るい花にしてくれそんなにいらないだの、香典の返礼品はこれがいいだの、初七日は私関係ないから勝手に決めといてだの……


だから、生前葬しよう!?あ、そういえば告別式後の初七日は推奨されていないとのこと。コロナで会食しちゃうの良くないよねみたいなムードがあったそうで。


でも告別式終わった後に弁当渡されても正直困るので初七日やることにしました。






2024年1月21日7:30


そういうわけで、母の死後は極めてスムーズに事が進んだ。母はとりあえず身体を綺麗にしたり穴からいろいろ漏れ出ないように綿を詰められたりすることになったので、親父と私は病室から退散した。煙草吸いたかったし。


呼ばれるまでの間、親父は葬儀屋さんや親戚衆に電話をかけまくっていた。9月末の話し合いで、こういうのは親父がやるべきだということに落ち着いていたからだ。


通夜は24日、告別式は25日にすることにした。普通は22日か23日にとっととやるものだが、1月23日は母の誕生日なのだ。誕生日に葬儀をやるのはなんかやだなあ……というのが我々の総意である。


清拭が終わったとのことで母を見に行くが、かなり綺麗に仕上がっていた。これなら母も満足だろう。全身の穴という穴に綿が詰められていなければだが。


親父は葬儀屋さんの霊柩車に乗るということで、私だけ一足先に家へ帰る事となった。何故なら母の吐瀉物で汚れたカーペットがそのままになっているからだ。


そのためにはフランスベッド製のリクライニングベッドをどかさねばならず、それをどかすスペースも作らねばならず、そこに布団を敷いて母を寝かせる以上は霊柩車の到着前に準備を済まさねばなるまい。途中でラーメン食ったけど……


10:00、家に到着。正直一人じゃ無理。


とか思いながら作業していたら隣町在住の母の姉夫婦が駆けつけてきてくれた。地獄に仏とはまさにこのこと。カーペット剥がしてベッドをどかして清掃するのをほとんどやってもらった。本当にありがたい。


11:00、霊柩車到着。ギリギリ用意出来た布団に母を寝かせ、母の作った死装束を着せてもらってさらなるメイクを行うことに。親父の弟も到着し、その間に葬儀屋さんと仮の打ち合わせ。


12:00、母のお色直しが完了。見に来た人が「今にも動き出しそう」と言う率100%を誇る完璧なメイクだった。


14:30、上田にいるはずの従姉が夫と子供二人を連れてやってきた。フットワークが軽すぎる。どれだけ母の事好きなんだお前。


15:00、母の従妹2人が到着。私は顔を一切覚えていないが、母は愛されていたのだろうなあと思う。


16:00、従妹夫婦と従弟夫婦も到着。みんなこぞって母を見に来たようだが、ここでお坊さんも到着。お経を上げてもらい、戒名をつけるための打ち合わせがスタート。親父、私、伯母の3人で洗いざらい母の事を喋った。


17:00、全ての来客が帰ったという物凄く良いタイミングで兄貴(長男)が東京から帰ってきた。ほんのちょっぴり恨むぞ。




2024年1月22日


伯母夫婦と叔父がまた手伝いに来てくれた。兄貴もいる。これで葬儀屋さんとの本打ち合わせもバッチリ。


打ち合わせ自体はスムーズに終わったが、母を悼んでの来客が途絶えない。なのでベッドを解体して運ぶ作業を手伝ってもらった。


あと母の葬儀で流すCDを探して葬儀屋さんに提出したが、うち2枚がベストアルバムだったのでこれだけで事足りるとのこと。さだまさしと小椋佳。


流石に伯母夫婦は明日は手伝えないとのこと。叔父はめちゃくちゃ手伝う気満々だ。




2024年1月23日


母の誕生日、となるはずだった日。母はギリギリ61歳11ヶ月28日で、なんとか62歳になることを免れた。よかったのか、よくなかったのかは当人のみぞ知る。


兄貴は人混みに酔ってダウンした。ので、来客の対応はまた私の仕事だ。


とか思っていたら伯母夫婦がまた来てくれた。やっぱり母の顔が見たかったからだとか。本当に仲が良い姉妹だ。


本来メイクを担当するはずだった叔父の妻も来てくれた。既にメイクは済んでいたが、要望通り塗り直しを行った。メイクの出来は私には分からないが、母は要望通りになって喜んでいると信じたい。


この日も来客でいっぱい。疲れているんだから放っておいてくれという気持ちが9割、母は愛されていたのだなあと思うのが1割。


あまりにも人と話すのが面倒になったので母のパソコンをいじり、日記のファイルを探す。5分で見つかった。ドキュメントフォルダに入れておく癖を見抜いていて良かった。ワード214頁分の文量には目ん玉をひん剥いたが。


それとは別に母方の祖父と祖母を起点とした家系図が見つかった。各個人ごとの生年と享年まで分かる優れものだ。これをダシに親戚と話していると、私より年下のはとこが就職しただの大学院行っただの行ってくる。私の中ではまだ子供のままで止まっていたのに……


明日は通夜だ。頑張ろう。




2024年1月24日


通夜の日。高校へ出張授業をしに行った兄貴もギリギリ間に合い、供養の準備。母を棺に入れ、葬儀場へと送る。


親父、兄貴、私は入口に立って弔問客へ真っ先に挨拶する役目。どうも、肉の壁AとBとCです。兄貴、マスクしていなかったけど大丈夫?


基本的に弔問客は親父のところへ挨拶しにくる。市役所関係の人は兄貴に。私が真面目に挨拶したのは4名ぐらいだ。親父の顔が広すぎるのか、私が交流を断っているからなのか。両方だ。


なんかものすごい客が来た気がする。ずっとお辞儀をしつつ「ありがとうございます」と言う機械になっていた。焼香前に親父と長話をする方のまあ多い事。周りの迷惑を弔意という免罪符で顧みなくなるのは気持ちの良いものではない。


あと、従弟の長男であるI君には非常に助けられた。連日の応対で心底眠かったので、葬儀場内を縦横無尽に歩き回ってくれて本当に助かった。眠っている暇はなかった。


通夜も終わり、棺に入った母ごと家に帰る。親父はホールに泊まりたがっていたが、葬儀屋と我々に反対されたためこうなった。母もホールで寝るより家に帰って寝た方がまだマシだろう。


ただ、棺のまま置いておくのは怖い。今にも飛び起きてきそうな気がする。




2024年1月25日


告別式の日。朝早くから近所の方々が見送りに来てくれた。でも死ぬほど寒かったので非常に申し訳なかった。親父は初めて人前で泣いた。


まずは火葬場へ。つい4日前まで生きて動いていた母が焼かれるというのは何か嫌な気分になった。


この時、いとこの子供達が火葬場内を縦横無尽に走り回っていたため、一緒になって遊んだ。良識ある大人ならここで静かにするよう止めるべきだったのだろうが、あんな自由に動き回るララフェルを合計6体も管理するのは骨が折れる。体力が足りん。


内心、子供を止めるのは親の役目では?とも思ったが、親に全ての責任を負わせるのは間違っている。あんなもん親の力だけじゃ止められない。だから母を頼ってウチを保育園という名の預り所にしていたのだろうな。


2時間後、こんがり焼き上がり骨だけになった母が出てきた。人間って2時間焼けば骨だけになるものだなあ、2時間も焼かなきゃいかんのか、などと考えてしまう。


母の死因は膵臓がんで、他にこれといった疾患はなかったために骨は綺麗に残っていた。あまりにも綺麗だったので、


「骨粗鬆症を患っていた母方の祖母はこんな残っていなかった」とか

「父方の祖母は脚にボルト入っていたのが溶けてたなあ」とか

「祖父の方はきっちり残っていたなあ。男性と女性で骨格違うなあ」とか


そんな感じの火葬の想い出を語り合っていた。分骨する骨は大腿骨転子部にしようと母に冗談めかして言ったものだが、骨粗鬆症を患っていない転子部は強固なのでとても分骨用の壺に入りそうになかった。



母の遺骨を拾い、告別式を経て、初七日の法要を行う。


骨になってしまうと、もう起きてくることはない。もう二度と現世で会う事はない。後は母の想い出をみんなで話し合ってくれればいい。


……と思ったが、子供6体が相変わらず大暴れしている。飯もロクに食わず、世話になった母の事について何も言わず、いつも通り遊び回っている。親の顔が見てみたいものだ。秒で見れるけど。


後で親父とゆっくり話す機会を設けたが、あれはあれでよかったという結論に落ち着いた。


母は甥姪の子を溺愛していた。自分には孫がいないからだ。それは私と兄貴にとって多大な負い目となっている。兄貴の考えは知らないが、少なくとも私にとっては負い目だ。


日記を見返すと分かるが、母はとても保育園のことを楽しみにしていた。実際、今までの不調が嘘のように元気になって子供達と遊んでいた。


日記でも実際の言でも、子供達と遊ぶと寿命が延びるとはよく言っていた。私もあの子たちにお礼を言いたい。孫の代わりをしてくれてありがとうと。


子供達が騒いで走って遊び回る法要は、母にとっては最高に限りなく近い葬送であったと思われる。逆に、あの子達が泣いていたら母も悲しんでいただろう。


私としては母を教材とし、死というものを学んで欲しかったが……きっとあの子達なりに受け止めてくれたのだろう。まだ理解するには早かった。




以上、葬儀は全て終わり。各々、日常へと戻っていく事となる。


死人に口なし。死んだら何も言えぬ。実際「幸せだっただろう」「まだ生き返りそう」「可哀想に」「まだ若いのに」「頑張ったね」などと勝手に人の言を借りて言う人々はごまんといた。この蛇足もそのうちの一つだ。


そのため、こうやって日記を残しておくことで自身の本心を伝えられる。葬儀の意向も生前に計画を組み立てていれば多少の齟齬はあろうとしても概ねその通りに行く。


だからと言って死を覚悟したその日から日記をつけるなど出来る人はそうはいないだろう。まさか死の6日前まで書いてあるとはとても思わなかった。ずぼらな私からすればとてつもない偉業である。


そもそも、9月30日の引き継ぎをしなかったら今回の日記を世に出す気は微塵もなかったのだ。私は今までずっと母の意向通りに動いていたが、ようやく肩の荷が降りた。


49日法要の際に、この日記をプリントアウトして墓前に供えてやろう。



「よくもこの仕事を押し付けてくれたな、ありがとう」と添えて。















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

膵臓癌ステージⅣと告知されてから~膵臓がん患者の心の動き~ うぃんこさん @winkosan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ