蛇足

命日

日記はここで途切れている……


などとバイオハザードの文書みたいな最後には致しません。


母の書いた日記は2024年1月15日で途切れています。


以降は次男視点における母の最期と葬儀の様子を補足したいと思います。ここから先は闘病日記ではなく、ただの日記です。





2024年1月11日


ここがターニングポイントだったと思います。


日記の方では淡々と書かれていますが、この時の母はせん妄状態が進みに進んでいました。


この日は受診日だったので親父が起こしに行ったのですが、返答がものすごくフワフワしていて、夢遊病のような状態だったとのことです。


本来出発する時間にようやく起きましたが、親父に向かって「何で起こしてくれなかったの!?」と癇癪を起こしたそうです。


これは死後判明したんですが、実は痛みが酷過ぎて医療用麻薬をオーバードーズしていたらしいです。その理由は後述します。




2024年1月14日


母から緊急コール。急いで行くと11日と同じようなフワフワした状態になっていました。


要件は「ご飯炊いておいて……」だけ。おかずは母が気力を振り絞って作っていました。確かおでんだったか……


あまりにもヤバそうだったので「病院行く?」と聞いたら「大丈夫……」と言ったので、いつでも入院出来るように態勢を整えていました。


今思えば、速やかに病院に行った方が良かったです。




2024年1月15日


日記最後の日。インターネットで注文したと記述がありますが、これはポータブルトイレのことです。独親ってなんだあんたが親だろ。独身の間違いですね。大きなお世話だ。


この日はいつも通りの母だったので警戒を解きましたが、日記を見る感じもう限界が近づいていたのでしょうね。それこそ日記すら書けない程に……




2024年1月16日


14日と同じ状態。



2024年1月17日


15日と同じく元気な感じ。但し夕食中、椅子に座ってうつらうつらしていた。



2024年1月18日


14日と同じ状態。2日に1回はフワフワになるようだ。



2024年1月19日


帰宅したら突然LINEビデオ通話が飛んでくる。どうやらまともに動けなくなった時のためにコミュニケーションが取れるようにしたいとのことだった。


画面越しの母はありえないほどげっそりしていた。カッコよく言えば「死相が出ている」とでも言えば良いのだろうが、この時の私はそんなことを信じたくなかった。


家に帰るといきなりポータブルトイレの組み立てを依頼された。これでも一応介護福祉士の端くれ。Pトイレの組み立ては職場でもやったことあるのでキチンと仕上げました。


あと、母に依頼されてリハビリパンツ(漏らしても大丈夫な履くタイプのおむつ)を兄貴と一緒に買いに行くことに。素人目にはさっぱり分からないとのことだが、ぶっちゃけ私も認知症が進行している人向けのしか知らないので困った。


意識はハッキリしているけど尿漏れが怖い人向けのリハビリパンツの知識はてんでダメなのだ。そこは企業様の分かりやすい説明に頼り、なるべく履いていても違和感がなくてかつ吸収量の多いものを購入した。


明日は母が楽しみにしていた、姪の子(私にとっては従妹の子)とのソリ会。なので、すごく元気だった。でも最初のころは一緒に滑ると息まいていたのに、この時点だと「もう元気じゃないから下から見守っている」と言っていた。


7日に行く予定だったのが、姪の長女が風邪引いてお流れになったのは今思うと痛手だった。私は「これでFF14のファンフェスに集中出来るぜウヘヘヘヘ」って母に言っちゃったのが、最大の後悔であった。




2024年1月20日


5時30分。親父に叩き起こされる。


どうやら母が吐いたから救急車呼んで行くとのこと。


「母がヤバいのはいつも通りじゃん……」と内心思っていたが、なんとか身体を叩き起こし5時50分に母の所へ行く。既に救急車が搬送するかしないかというところだった。親父が救急車に同乗し、私は部屋の片づけをすることに。


母の吐瀉物は割と量があった。悲しい事にベッドのシーツ類は全滅だった。カーペットにも大量に垂れていたので全部処理。これは洗うのは困難だと見て廃棄だろうな……


一応無事なシーツとかは風呂で洗って洗濯機に入れたが、全然シミが落ちなかった。


あとポータブルトイレも1回利用したようだが、尿量は極めて少ない。便も小石一個分ぐらいしかない。処理は非常に楽だった。


それよりも、ソリ会の中止を伝えなければならない。また母が入院したと伝えねば。


7:00になるのを狙って従妹にLINEで連絡。7:30になっても既読がつかないので電話したがダメ。伯父に電話してもダメ。伯母に電話しようとしたところでようやく従妹から電話。


子供3人をソリに行かせる準備のため電話なんぞ見ている暇すらなかったとのこと。ごめんね。


で、中止を伝えたところ「(私の)母が行けなくても行くつもりだった」とのことだったので「私も行っていい?」と提案した。母が入院して親父を迎えに行かなきゃならないのに大丈夫か?と問われたが、ソリ会への参加は母から頼まれていたことだったし、すごく楽しみにしていたのだから私も行かなければならないと伝えた。


結論から言うとソリ会は行って正解だった。従妹は長男(まだ赤子)の世話で手一杯で、私が行かなかったら従妹の旦那が長女と次女を2人同時に相手しなければならなかったからだ。


遊べたのは1時間半。雪がすごい降ってきたからだ。私も親父を迎えに行かなければならないのでちょうどいい。雪の事もあったが、物凄く寒かったので従妹共々「母は来なくて良かったかもしれない」と言っていた。


スキー場から帰って来たと同時に親父から連絡があった。病院まで迎えに来て欲しい。これは予想通りだしすぐに行ける。


その次の病状説明が問題だった。



「母の胆のうが爆発した」



ジムカスタムじゃねえんだぞ人体は。流石にマズイと感じて即親父を迎えに行く。


落ち着いて話を聞くと、胆のうが破裂したとのこと。爆発とか大げさな事を言うから戦々恐々としたじゃないか。


母が麻薬をオーバードーズしていたのは、恐らくあの日には胆のうが破裂していたからなのだろう。だから痛みを抑えたがっていたし、過剰に抑えたせいで破裂にも気づかなかった。


母には3つの選択肢がある。

1、手術をして胆のうを縫う

2、胆のうにドレーン管を3本刺して胆汁を排出する

3、緩和ケアを行い苦痛のないよう臨終させる


1は延命したいなら当然。だが母のがんは進行しきっていて手術に身体が耐えられるか分からない。メスを入れたところで余計に体力を消耗させるだけなのでオススメはしない。


2もオススメされていなかった。ドレーン管を刺したら今まで通りの生活は送れないと覚悟しておけと医師から言われたらしい。胃ろう患者を見てきたから分かる。アレだけはよくない。


母の意向は「延命治療は行わず死にたい」だった。だとしたら3の緩和ケアしか選択出来なかった。


医師の言うには最悪1〜2日で死ぬとのこと。この時点の私は2日持ってくれるかなあ、と思っていた。親父は1週間持つと思っていた。母の意向を聞いていなかったら緩和ケアではなく手術を選ぶところだった。


それだけ母に生きていて欲しいと思っているのだろう。私も母の意向がなければ手術してでもなんでも生きていて欲しいと願っていた。胆のうが爆発すると聞いた時は「終わった……」と思っていたが、今わの際になると人間は考えを変えてしまう。


いざという時に最終的な判断を下すのは、病気に抗う事で精いっぱいな自分ではなく冷静になれていない家族だ。意向は口を酸っぱくして言っておいた方が良い。




私と親父は母を病院に置いて家に帰った。疲れていたので寝た。


18:30、親父に叩き起こされて飲み会に連れて行くことになった。母が危篤だというのに。まあ「いいから今日ぐらい飲みに行け」と焚き付けたのは私なのだが。




2024年1月21日


2:00、またもや親父に叩き起こされた。


母が危ない状態だと病院から連絡があった。


急いで支度を整え、病院へ。親父は酒を飲んでいるので運転は私の役目だ。幸い、雪が雨に変じていたおかげで難なく辿り着けた。


4:00、病室へ行くと、母は手足をジタバタと動かして苦痛に抗っていた。湿ったガーゼを噛んで。身体には点滴が繋がれて。唸り声をずっと上げて。時折胆のうのあたりに手を当てて。


医師の説明によると、胆のう破裂により胆汁が腹膜に浸透し、多臓器不全を起こしている。そのうち心臓も止まり、死に至るとのこと。


モニターに表示されるバイタルは、心拍数100、血圧80/31、酸素飽和度69%。死の2時間前の利用者さんとほぼ同じ数値だった。


病室に戻り、母を見守ることに。親父が母のすぐ隣で、私は母の足元で、椅子に座って。


時折、母が親父に何かを訴えていた。親父は母の要求とは違うことばかり言っていたので、業を煮やした母が気力を振り絞って「ボタン……!ボタン……!」と言った。これが母の最後の言葉だった。


ボタンと言っても親父は「衣服のボタンを外すの?」と言ってまた不正解を引いていたので、私は母の手に握られているナースコールみたいなものを押した。


どうやら正解だったようで、母はうんうんと頷いた。そのボタンは押すとモルヒネが流れて苦痛を緩和してくれるボタンだった。と、医師の説明があったはずなのだが……私がついていって本当に良かった。


モルヒネ流れるボタンを押しても母はまだまだ苦しみ続けていた。母の苦しむ姿を見ながら何もせず、ずっと座っているのは苦痛でしかなかった。


あと機器がいちいちうるさい。そりゃずっとバイタルレッドゾーンなんだから仕方ないし、母がしきりに腕を曲げるから点滴入れる機器も「閉塞しました!」って5分おきに言うし。その度に看護師さん来るのもアレなので私が手順覚えてアラート止めていた。


親父はしきりに声掛けをしていたが、私はただ一つしか言えなかった。


「MSも、KSも、1人でソリに乗って滑れたよ」


母にかけた最後の言葉が前日遊んできたことの報告とは何事か。息子として言うことそれしかないのか。


……日記を全部読んだ今なら言える。最適の声掛けだったと。それこそ2年前から楽しみにしていて終ぞ行けなかったソリだから。



4:45、母が急にズボンを下ろそうとした。親父は「おしっこしたいの?オムツしてるから大丈夫だよ?」と言ってズボンを掴んで止めていた。


これも不正解。オムツを外そうとする原因など一つしかない。


皆様はどうだろうか。尿でも便でもいい。漏らしてしまったらまずは何をするだろうか?


脱ぐだろう。そして新しいパンツを履くだろう。あるいは汚れを落とすために風呂に入るだろう。


念の為「おしっこしたい?」と聞いたら首を横に振る。

「じゃあ、オムツ替えたい?」と聞いたら首を縦に振ってくれた。


本当に私がついていって良かった。危うく股の気持ち悪さを抱えたまま母が死ぬところだった。


親が介護状態になり、親のオムツを替えるのはよくあることだが、胆のう破裂した人のオムツ交換は初めてだったのでかなり苦戦した。身体をそんな動かしたくなかったので。


股の気持ち悪さが取れたのか、それともオムツ交換で体力を使い切ったのか、オムツ交換が終わった後で私が「これで最後のオムツ交換になるかもしれん」と余計な口を滑らせたからか。


母の呻き声はなくなった。呼吸が浅くなった。その息の吸い方で酸素は充分に得られるのか。


私はそこで寝た。親父も寝た。流石に2時起きは堪えた。




6:50。聞きなれないアラート音が鳴り、起きた。看護師さんが3人ぐらい集まってを呼ぶ相談をしていた。ああ、心停止したのかと。心停止のアラートは刑事ドラマとかでよく聞く「ピーーー」ではなかった。機器によるのか。


母はもう呼吸をしていなかった。親父は「もう母、冷たくなってるよ」と言う。もう二度と動かなくなった母に「さよなら」と言って、首筋を触った。


そこで一気に涙が溢れてきた。何例も確認した利用者さんの遺体と同じ温度感。それを実の母から感じてしまい、死を確信してしまった。


生前の母には「俺は多分母が死んでも泣かんだろうな」と宣言していた。仕事柄遺体は見慣れているし、看取りの対応は何回も行ってきた。


しかし、生まれてからずっと人生全てを連れ添って来た親の死は到底ドライには受け止めきれなかった。私にはまだ人の心が残っていたんだと安堵もした。


「嘘をついてごめんなさい。私は現実を受け止めきれず気丈ぶっていただけなんです。」


その言葉はもはや届きません。



2024年1月21日7:00。母は膵臓がんによってこの世を去りました。





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