夢の跡

【本編】



 ねぇキミ、ちょっといい?


 わ、待ってよ。

 こんなに可愛いボクを無視するなんて酷いなぁ。


 わわわ、行かないで。

 ごめんなさい。

 ナンパじゃないです。

 怪しいものじゃないくて……

 ボクはガイドですガイド!


 頼んで無い?

 そう? キミに呼ばれたと思ったんだけれど。


 ボクさ、こう見えても鶴ヶ城では割とキャリアの長いガイドだから頼りになるよ。

 そんなに警戒しないで、ちょっとの間足を止めてさ、ここでしか聞けない話とか聞いてかない?


 ありがとう。

 改めまして、ボクの名前は「黒川」っていうんだ。

 よろしくね。

 

 どう? 鶴ヶ城は。


 赤と白のコントラストがカッコいいって? 

 うんうん。

 今の赤い瓦になったのは割と最近でさ、2011年に復元工事をしてこの色に戻ったんだよ。

 この赤瓦ってのは松平時代の姿。

 なんで赤瓦かっていうと、会津の厳しい冬に耐えるためなんだよね。

 釉薬、鉄分を多く含んだうわ薬をかけて焼いたもので、そうすると水が染み込みにくい強い瓦になるんだよ。

 雪国会津ならではって感じでしょ。


 ガイドっぽくて意外……って! だから、ガイドって言ってるじゃない。

 なんなら、ボク以上に詳しいのってなかなか居ないと思うんだけれど……。

 ここへの愛は誰にも負けないつもりだからね。


 他の見どころ?

 そうだね、やっぱり「石垣」を推したいな。

 

 石垣……まぁ、確かに地味だよね。

 でも、天守は昭和の時代に再現されたものだからさ、当時の姿そのままってのはやっぱり「石垣」で、そこにこそ鶴ヶ城の見事さってのが出ていると思うんだ。


 鶴ヶ城は、600年以上の歴史があって、それぞれの時代の領主が当時の技術を注ぎ込んでその整備をしてきている。

 天守台を見てごらん。

 他の場所と比べると一見素朴というか自然な感じの石が積み上がった石垣だと思わないかい?

 あの野面積のづらづみの石垣は蒲生がもう氏郷うじさとが作ったものなんだ。

 彼は、当時の城郭の最高峰「安土城」の築城にも関わった城造りの名手だった。

 氏郷は近江の生まれでね、そこには穴太衆あのうしゅうと呼ばれる石垣づくりのプロ集団がいたんだ。

 あの石垣は彼らが作ったものなんだよ。


 こんなに時が経っても、度重なる天災があっても崩れてなくて。

 素朴に見えて技術の粋が詰まっている……すごいと思わない?


 石垣といえばもう一つ、本丸の東側に深いお堀があってに廊下橋という赤い橋がかかっているんだけど見たかな? 

 そこの石垣は高さが約20メートル、長さは135メートルあるとても大きなものだよ。

 あれはね、加藤明成が作ったんだけれど、城の守りとしても素晴らしく、扇の勾配と呼ばれる造形美も見事なんだ。

 まだ、見てないならぜひ見ていってよ。これは忍者も登れないって感じの大迫力の高石垣だから。

 

 え? 

 松平、蒲生、加藤、色々名前が出てきて分からないって?

 じゃあ少し、歴史の話をしようか。


 鶴ヶ城の歴代城主は「蘆名あしな」「伊達だて」「蒲生」「上杉」「加藤」「保科ほしな」「松平」と移り変わっている。

 保科氏は途中で松平性を名乗っているから保科と松平は同じ一族だね。

 

 最初の蘆名のルーツはかなり古くて、源頼朝の時代まで遡るよ。

 その昔、頼朝が奥州藤原氏を討って東北地方をを支配下に置いたんだ。

 その際に会津北部は配下の御家人佐原義連さわらよしつらに与えられ、その佐原氏の血を受け継ぐのが蘆名氏。

 それからしばらくは蘆名が会津を治めるようになった。

 ちなみに、この場所に城がつくられたのは、第7代当主直盛なおもりの時だよ。

 中先代の乱で父や兄が戦死した事で彼が後を継ぎ、ここにやってきた。


 蘆名はその後、勢力を拡大して戦国時代には会津一円を支配したけれど、後継に恵まれず内紛が続いた事で弱体化し、最後は伊達政宗に滅ぼされた。

 義連から数えると20代、約400年渡る蘆名の時代はそこで幕を閉じたんだ。


 こうして伊達が会津を手に入れた訳なんだけれど、政宗は豊臣秀吉の命令に従わず会津を攻めていた。

 無視された秀吉はそりゃあムッとするよね。

 結局会津の地は、政宗のものにはならず織田信長の娘婿である蒲生氏郷へ与えられたんだ。

 氏郷は、城の整備にも商業にも力を入れたり、故郷の近江から漆器や酒造などの技術を持ち込んだりと、今の会津の礎となる街づくりに力を注いだ。

 でも彼は40歳で病気で亡くなってしまう。

 跡続きも若く、結局蒲生家は宇都宮に移ることになった。


 そして蒲生の後には豊臣政権の五大老のひとり上杉景勝がやってきた。

 しかしそれも束の間のこと……そう関ヶ原の戦いがあった。

 景勝は、石田三成側で西軍。

 そして知っての通り東軍の勝利に終わり、西軍に加わった景勝は米沢と移され会津を去った。


 ここで一旦蒲生が戻ってくるんだけれど、藩主が若くして相次いで亡くなりお家断絶。


 次にやって来たのが賤ヶ岳の合戦の七本槍、加藤嘉明だ。

 しかし加藤氏も息子の代でお家騒動が起こり、幕府により領地を召し上げられてしまった。

 

 その後、会津に入ったのが徳川3代将軍家光の実弟、保科正之。

 保科氏はその後松平を名乗る事を許され、幕末まで続いた。


 と、まあこんな流れかな。

 長すぎる? 一気に言われても分かんないって?

 そっかぁ……ごめんね。

 まあ、会津の領主達は中央の影響を色々と受けながら変わり続け、歴代城主の夢や想いがこもった城がずっとココにあったってことさ。

 

 ちなみに「鶴ヶ城」って名付けたのは氏郷だよ。

 蘆名の時代までは、今のように天守があるわけじゃなかった。

 鶴ヶ城の始まりは、1384年に蘆名直盛が建てた館で、その頃は城ってよりは領主の館って感じだったんだ。

 

 そもそも、どうしてここに建てたかって?

 それ聞いちゃうんだ……いや、何でもない。


 あの人……直盛は、どこに建てようか迷ってた。

 そこで、幼い頃からの遊び相手でもあった飯綱イズナ……狐に相談した。

 

 そう、狐。

 笑わないでよ。

 ただの狐じゃない、護り狐だったんだよ。

 川の流れ、開けた大地、大きな道、そして山、色々考慮してこの場所が良いってなったんだ。


 その選択は悪くはなかった、きっと。

 だってさ、この場所は長い年月、地域の中心となって人の営みを支え、まちをつくってきた。

 そして、朽ち果ても忘れらもせず、600年以上の時を経て人々の憩いの場となり、直盛の名は今もここに城を設けた人物として語り継がれているんだから。

 

 狐?

 そうだねぇ、彼は今もこの場所を護っているんじゃないかな。

 のんびりと公園内を散歩しながらさ。


 

 という訳で、これでガイドはおしまい。

 ここまで、聞いてくれてありがとう。

 ボクの鶴ヶ城プチガイド、どうだった?

 楽しんでくれたなら嬉しいな。


 


 それでね、さよならする前にひとつ。

 あの……ちょっと言いにくいんだけれど……。


 キミ、ついてるんだよね。

 「モノ」が憑いてる。


 このままはちょっとヤバいかなぁ。

 「あわい」に引っ張り込まれかけてる。


 だからね、放って置けないや。

 ごめん、ちょっと触れるよ。


 目を瞑って。

 動かないで、そのまま。

 待って、直ぐ済むから。


 

 さてお前、ボクの縄張りに入り込むとはいい度胸だね。

 早く輪の中にお還り。


—— パシンッ



 はい、終わったよ。

 大丈夫大丈夫、ちゃんと祓ったから。

 効くよ、ボクのおまじない。


 ん?

 「飛蚊症」が治ったって⁈

 ククク……それは良かった。

 

 じゃあね、いい旅を。

 またいつか遊びに来てくれたら嬉しいな。

 



 ふふ、黒狐はね、今も護っているんだよ。

 夢の跡を。



                  【了】

 

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護りぎつねの散歩道 碧月 葉 @momobeko

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