4.混乱

「出掛けて来ます」

弘は、民宿の主人に云った。

どこへ出掛けるのかは、決まっていない。


「行ってらっしゃい」

主人が愛想良く云った。


主人は、よく喋る人だ。

弘は、朝食の後、座敷に残ってテレビを見ていた。

事件の事が気になって、ニュースを見ていた。


他の宿泊客は、既に、出掛けて行ったそうだ。

残っているのが、弘だけだった。


女将が、お茶を淹れて運んで来た。

そこへ、主人がやって来て、テレビのチャンネルを変えた。


えっ!

突然だった。

朝の連続ドラマが始まった。


三人でお茶を飲みながら、ドラマを見ている。

ドラマが終って、主人公の女優の話しを始めた。

一頻り喋った後、ドラマの今後の展開予想が始まった。


これ以上は、ドラマの話題に付き合って居られない。


どこへ出掛けるかも決まっていないのだが、取り敢えず宿を出た。


さて、どうしようか。

と、考えていると。

宿の駐車場に車が入って来た。


「おはようございます」

車の窓から顔を覗かせて、弘に挨拶したのは、扶川刑事だった。


「おはようございます。どうしたんですか?」

弘は、挨拶を返して尋ねた。


「それが…」と云って、扶川刑事が、助手席から大きな黒いバッグを手にした。

どうしたのか、扶川刑事が、アームレストに凭れ掛かった。


助手席のバッグのショルダーベルトが、アームレストに引っ掛かっている。

扶川刑事の身体が、助手席へ倒れたのだ。

笑ってはいけない。


扶川刑事が、バッグを腹に抱えて、何か探している。

戸惑った様子で上着のポケットへ手を突っ込んだ。


「あった」

と安心した表情で、何かを手にした。

車のキーのようだ。


探し物はバッグに入っていないようだ。

扶川刑事が、バッグを助手席へ戻した。


「それが…」

扶川刑事が、宿を訪れた理由を云おうとした。


「あっ!」

弘は、気付いた。


「どうした」

扶川刑事が驚いた。


「いや、実は」

弘は、気付いた事を話した。


昨日の朝、お母さんが、剣山の駐車場へ車を停めた。

ちょっと、分からないかもしれないので、補足すると、お母さんとは、弘の妻で、景子の事を指します。


弘は、隣の車に当らないように、誘導していた。

一番奥の軽乗用車の運転席には、既に死亡している北尾さんが居た。

ハンドルには、寄り掛かっていない。


それこそ、座席に凭れ掛かっているようだった。

アームレストが下りていた。

これは間違い無い。


ドアとアームレストの間で、姿勢は安定していた。

胸にバッグを抱えていたのかもしれない。


扶川刑事が、バッグを腹に載せていた時と同じような姿勢だった。


夕方、運転席の北尾さんを見た時、やはアームレストは下りていた。

しかし、助手席側へ倒れ込むような、不自然な姿勢だった。


「だから、もしかすると」

弘は、想像した内容を話した。

昨日の朝、亡くなっていた北尾さんは、バッグを胸に抱えていた。


夕方、北尾さんの不自然な姿勢から、異変を感じた。

心配になって声を掛けた。


車のドアを開けた時には、バッグは無かった。

バッグを抱えていたとすると、そのバッグはどこへ行ったのか。


誰かが、持ち去ったのではないか。

「誰が、何故」

弘は、そう云って我に返った。


扶川刑事が、不思議そうに、弘を見ている。

そして云った。

「もしかすると」

今度は、扶川刑事が話し始める番だ。


「それが、一昨日。追突された男の証言にあった、助手席にいた誰か。何かもしれんなぁ」

扶川刑事が、宿を訪れた理由を喋った。


男性の証言では、北尾さんが運転する車の助手席に誰か乗っていた。

男性は、男だったように思ったそうだ。

しかし、これも、確かではない。


助手席に、誰か乗っていたのなら、探し出す必要がある。

何か別の事件が、隠されいるかもしれない。

刑事の勘だそうだ。


男性が、光宗市へ向かう途中に追突された。

だから、北尾さんも光宗、眉山市方面へ向かっていた筈だ。


しかし、逆方面へ逃げている。

そして、剣山の駐車場で発見された。

助手席には誰も居なかった。


もし、助手席に誰か居たとすると。

剣山へ向かう途中、助手席の誰かは、どこかで、車を降りた事になる。

どこかの宿で、宿泊したかもしれない。


扶川刑事が、西阿町から剣山までの宿泊施設に聞き込みをしている。


勿論、北尾さんが、助手席の誰かの自宅まで送ったのかもしれない。

あるいは、車を停めていた場所まで送った可能性もあるのだが。

扶川刑事が、そこまで説明して一息入れた。


弘は思った。

そもそも、北尾さんが、事故直後に何故、逃げたのか。


追突された男性が、警察に通報すると思ったからだ。

北尾さんは、光宗市役所へ勤めていた。

だから、通報しづらかった。


いや。

誰であろうと、交通事故を起こす可能性はある。

当て逃げした方が、より、罪は重くなるのだから。


単純な追突事故なら、すぐに警察へ通報するだろう。

だから、それは、通報出来ない理由があった。


まず、飲酒運転を疑った。

弘は、扶川刑事に尋ねた。


飲酒運転では、なかった。

体内からアルコール分は、検出されなかったそうだ。


北尾さんは、事故が原因で、死亡した事に、間違い無いらしい。


それでは、助手席に同乗していた誰かを見られたくなかった。

あるいは、見られると不味い物を持っていた。


北尾さんが、見られたくない助手席の誰か。

が居たのもしれない。


その誰かが、どこかで、北尾さんの車から降りた。

もしかすると、助手席の誰かは、剣山の駐車場へ車を停めていたのかもしれない。

北尾さんが、剣山の駐車場まで車を運転した。のかもしれない。


駐車場へ到着した後、北尾さんが亡くなった。

助手席の誰かが、北尾さんの姿勢を不自然でない様に細工した。


つまり、助手席の誰かは、北尾さんが亡くなった事を知っていた。

そうすると、助手席の誰かは、一度、駐車場を離れた。

筈だ。


弘は、その時の、北尾さんを見たのだ。

昼過ぎ、助手席の誰かは、剣山の駐車場へ戻った。

その助手席の誰かが、北尾さんのバッグを持ち去った。


何故か。

だから、それは、そのバッグの中に、見られては、不味い物が入っていた。

あるいは、助手席の誰かのバッグだったのかもしれない。


思考が同じ所を回り続けている。

もう一度、朝と夕方では、見え方が違っていた理由を考えてみよう。


千景に尋ねられて、答えられなかった。

朝と夕方では、何かが違っていた。


その北尾さんを見て、弘は異常を感じた。

それは、北尾さんの姿勢だろうと思う。

しかし、北尾さんが、バッグを抱えていたと断言出来ない。


バッグでは、なかったのかもしれない。

しかし、何かを抱えるようにして、姿勢を整えていたのは、間違い無い。


もしかすると、北尾さんは、助手席の誰かに、脅されていたのかもしれない。

十七時頃、市役所と家人に連絡を入れている。

その時は、確かに生きていたし、連絡も自由に取れている。


だから、助手席の誰かに、脅されていた訳では、無いのかもしれない。


余りにも想像が、飛躍し過ぎているのだろうか。


それはそうと、まだ行先が決まっていない。


「今から、剣山へ行くんやけど、一緒に行きますか」

目の前の、扶川刑事が云った。


「あっ。お願いします」

弘は、少し安心したように云った。

そして、驚いた。


扶川刑事は、まだ、目の前に、居たんだ。

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