桐一葉の聖櫃

真島 タカシ

序章

「降りよう!」

ガドは、力強く云った。


この先に、陸は見えない。

島影も見えない。

東には、大海原が広がっているだけだ。


やっと、着いたのだ。

舟を降りる時が来た。


ここが、東の地だ。


十数年前。

新バビロニアが、祖国へ攻め込んだ。

祖国は、バビロニアに制圧された。


ガドは、バビロニアの戦士に捕らえられた。

そして、バビロンに連れて行かれた。


ガドだけではなかった。

沢山の連れられた者が、広場へ集められた。

そこで、官吏に、職業を尋ねられた。

ガドは大工だ。

そう答えると、他の広場へ連れて行かれた。

その広場にも、沢山の人が集められている。


ガド!

聞き慣れた嗄れ声だ。

声の聞こえた方を目で探した。

人をかき分けて男がガドの前に現れた。

サラが居た。


サラは、同じ街の大工の棟梁だ。

ガドは、サラの元で、仕事をしていた。


「お前もか」

サラが云った。

サラは夫婦で連れられて来ていた。

サラには、五人の子が居た。

子は、街に残っているそうだ。

ガドに妻は居ないが、母親を残して来ている。


この広場には、職人などが、集められているらしい。

ガドのような、大工もかなり集められていた。

一緒に仕事をした覚えのある者も居る。


他に、機織、パン職人で、知っている顔が見える。

農夫や牧夫達は、ニップルの川の辺へ更に移動するらしい。

ガド達は、皆、強制移住させられろようだ。


どうして知っているのか、サラが教えてくれた。

サラは、何でも知っているようだ、

サラと一緒で、心強かった。


その広場で、パンが支給された。

集められた者は、支給された順にパンを食べた。


暫くすると、男が、ガドの目の前に立った。

バビロンの男だ。


ガドはその男の下で、働く事になった。

男はアヤムという。

バビロンの中心街で、大工の棟梁をしている。


ガドは、アヤムに重宝されていた。

たまに、仕事で、厳しく叱責される事もある。


しかし、それはガドを一人前に扱っている証拠だった。

この街の大工と同じ、いや、寧ろ、それ以上に信頼されていた。


ガドは、アヤムに、酒場へ連れられて、行く事がよくある。

羊の肉と酒をアヤムが、ご馳走してくれる。

捕虜として、バビロンに連れて来られたが、ここでの生活に満足していた。


その酒場に、サラもよく来ている。

サラと会った日は、アヤムが気を利かせて席を空ける。

他の。知り合いの所で話し込んでいる。

同郷者同士の話しを邪魔したくないのだろう。


「もうすぐ、国へ帰れるぞ」

酒場で会うと、サラが何時も必ず云う。

祖国は、今、エジプトの援軍を要請している。

エジプトの援助を受ければ、必ずバビロニアを撃退出来る。

随分と物騒な話しだ。

しかし、そうなれば、また、故郷へ帰還出来る。


そう云えば、最近、城塞に戦士らしいバビロニア人が集められている。

攻撃が近いのかもしれない。


しかし、ガドは信じていなかった。

エジプトから、援軍を得てもバビロニアには勝てない。


余りにも楽観的過ぎる。

バビロニアは強大だ。


万一、領土の主権を奪還したとする。

だけど、今度は、エジプトの属国になるだけだ。


ガドは、今の生活に満足している。

だから、もし、解放されても、祖国へ帰還するつもりはない。


その日、また、ガドは、アヤムに連れられて、酒場へ出掛けた。


テーブルに着いてすぐ、男が、物凄い形相で近付いて来た。


「アヤム。俺のロバを返せ!」

男は、酔っている。


「おい。ロバは、あの時、生きていただろう」

アヤムが云い返した。

そして、口論になった。


あっ。

思い出した。

つい、最近、アヤムに怒鳴り込んできた男だ。


以前、アヤムのロバが牽く荷車に、男のロバが後ろから衝突した。

狭くもない道で、避けようと思えば、衝突などしなかった筈だ。


アヤムの荷車の瓶が割れた。

割れた瓶から、豆が溢れ落ちた。


男は酒に酔っていた。

男は「愚図愚図しているからだ」と悪態を吐いた。


男のロバはその時、生きていた。

そして、そのまま、ロバを急かして立ち去った。

だが、その夜、男のロバは死んだ。


それで、男は、アヤムの家に怒鳴り込んで来たのだった。

官吏に訴えたようだが、訴えは認められなかった。

男はそれを恨んでいた。

その時も男は酒に酔っていた。


その男が、折悪しく酒場に居合わせたのだ。


アヤムと男が喧嘩を始めた。

ガドは、どうしたら良いのか、分からなかった。


男がテーブルにあったナイフを握り、アヤムに襲い掛かった。


血が吹き出した。

アヤムが刺された。

酒場の皆が、一斉に逃げ出した。


ガドは、アヤムを抱き抱えた。

首を斬られた傷が、致命傷だと分かった。


捕吏が駆け付けた。

ガドは、捕吏に縄を打たれた。

何が何だか解らないまま、どこかへ連行されている。


民家の並ぶ街角に差し掛かった。

その時、山羊を二匹連れた男とすれ違った。


「あぁ」

すぐ横から、消え入るような声が聞こえた。

横を見ると、山羊を連れた男が立っている。

男の足元に、捕吏の男二人が倒れていた。

ガドは驚いた。


男が、ガドの手首と首に結ばれた縄を切り離した。

ガドは慌てて、走って逃げようとした。


「走るな」

男が小声で云った。

山羊の背に掛けた袋から布を取り出し、ガドに渡した。


「付いて来い」

男が押し殺した声で云った。

ガドは、渡された布を纏った。


男から、引いている山羊の縄を渡された。

ガドは、男から渡された山羊の綱を引いて、その場を離れた。


その男の小屋は、牧草の茂るバビロン近郊にあった。

羊の遊牧をしているそうだ。


その男は、エリヤといった。

エリヤが、ガドを救ってくれた男だ。

エリヤは、バビロンに潜んで居た。

祖国とバビロニアを往来し、情報収集していた。


「サラを知っているか?」

エリヤが尋ねた。

ガドは頷いた。

驚いた事に、サラが云っていた事は、本当だった。

祖国の王は、エジプトに、援軍を要請している。

本気で、バビロニアに反撃を試みている。


ところが、バビロニアも、これを察知した。

今度は、徹底的に、街を破壊すると息巻いているそうだ。


しかし、祖国の王も楽観的だ。

エジプトの支援を受ければ、勝利すると信じていた。

エリヤが、サラにも伝えた。

それなら、バビロニアに勝利すると信じていた。


バビロニアが、十年前より、激しい攻撃を仕掛ければ、祖国は殲滅されるだろう。

早く祖国に帰り、皆がに報せなければならない。


もう、攻撃の刻は近い。


それで、エリヤが、ガドに協力を求めた。

ガドは承諾した。


ガドは、自分でも不思議だった。

もし、解放されても、この地に留まろうと思っていた。

しかし、実際に直面して、祖国の事を思った。


四十日余りの、長く急ぐ旅だ。

翌朝、ガドは、エリヤと共に、祖国を目指して出立した。

六回、エリヤの仲間の小屋で、ロバを乗り換えた。

その度に二人ずつ、祖国を目指す仲間が増えた。


故郷の街に入ると、既に、エジプト人が沢山入っていた。

おそらく、エジプトの戦士だろう。


「思ったより早いな」

エリヤが呟いた。

ガドは、エリヤから、神器を護るように頼まれた。

エリヤが、ガドに指示したのは、この街に何が起こっても、戻ってはいけない。

神器を護り、東の地に安置する事だ。

もう、一刻の猶予もない。


ガドは、休む間もなく、途中で出会った十二人の仲間と、神殿へ向かった。


良かった。

バビロニアが二度目の攻撃を開始する前に、逃げる事が出来た。


ずっと、沿岸に舟を浮かべて、櫂を漕いだ。

どこまでも、東を目指して、舟を進めた。

東の地を目指した。

やつと辿り着いた。


ここが日出処だ。

今から、神器の安置出来る地を探す。

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