一章

衝突!

大きな音と共に、強烈な衝撃を受けた。


急いでいた。


恐ろしく、車が大きく揺れた。

不測の事態が発生した。


信号待ちをしていた。

真っ直ぐ、前の信号を睨んでいた。


男が、目の前の横断歩道を自転車で、通り過ぎた直後だ。

慌てて後方を見ると、軽乗用車が衝突している。

不味い事になった。


あれ程の衝撃にも係わらず、エアバッグは膨らんでいない。

驚いた女性の顔が見えた。

助手席には、男だろうか、頭を伏せている。

もしかしたら、頭を打ったのかもしれない。


車から降りた途端、突然、車がバックした。

追突した軽乗用車だ。


車の衝突した跡が見えた。

ボンネットが、大きく歪んでいる。

事故処理のため、車を移動しようとしたのだろうか。


面倒な事になった。

警察に通報して、現場検証など始められては、間に合わない。


ところが、驚いた。


車は、対向車線を横切り、Uターンして歩道に乗り入れた。

歩道を走行している。

縁石の途切れ目から、道路へ入り後方へ走り去った。


呆然とした。

当て逃げだ。


すぐ我に返った。

車の後ろへ回り、車体後部を確認した。

リヤバンパーがへこんでいる。


トランクは無事のようだ。

ダンボール箱を後部座席に積んでいて良かった。


タイヤに、部品は被っていなかった。

走行は可能だ。


それにしても、驚いた。

当て逃げした車は、あんな状態で、走行出来るのだろうか。


片側一車線だが、対向車線には、車がいなかった。

田舎道とは云え、県道だ。

道幅は比較的広い。


周辺には、田畑が広がっている。

建物といえば、農作業用の小屋くらいだ。多少、カーブは多いが、見通しは良い。

不思議だ。

どうして、こんな所で追突したのだろう。


あの運転していた女性は、前方を見ていなかったのか。

それにしても、当て逃げするとは思わなかった。


事故の起こった交差点も、押しボタン式の信号だ。

あの、農作業中らしい男が、ボタンを押したのだ。

当然、事故を目撃していた筈だ。


歩道にも、中学生くらいの男子生徒が二人だ。

自転車に乗って、並んで走っていた。


あれだけの衝突音だ。

確かに、振り向いていた。


二人の男子生徒は、片足を地面に着けていた。

片足をペダルに乗せていた。

衝突した後、二人が振り向いて、じっと見ていたと思う。


しかし、男子生徒二人は、慌てたように、自転車を漕いで走り去った。

すぐ先の農道へ曲がった。


曲がった後も、姿は見えている。

前を向いて、自転車を漕いで、走っている。


自転車だから、この地域の中学校へ通っている筈だ。


他に、もう一人、男が目撃していた。

目の前の、横断歩道を自転車で、通り過ぎた男だ。


灰色のキャップを被っていた。

キャップと同じ色の、長袖の作業服を着ていたと思う。


秋とは云え、まだまだ暑い日が続く。

しかも、今年は格別だ。


それでも、男は、作業服の袖を捲っていなかった。

勿論、作業によっては、袖を捲る事が出来ない場合がある。


ズボンも同じような色だった。

黒い長靴を履いていた。


その男は、横断歩道を渡った先で、事故の様子を見ていた筈だ。


車が、走り去った方向へ自転車を漕いで、走り去った。


身形から、その男は、この付近の、農家の人で間違い無いと思う。


それにしても、中学生にしろ、農家の男にしろ、何故、急いで立ち去ったのか。


関わりたくなかったのか。


どうするか、迷いは無かった。

警察に通報はしない。


アクセルを踏んだ。

車を走らせた。


西阿町から光宗市へ戻る途中だった。

西阿町に実家がある。


その実家から県道に出て、間もなくだった。

だから、まだ、西阿町内だ。


もう、待ち合わせ時間までに、一時間もない。


父親は八年前に他界した。

西阿町の実家には、母親が一人で住んで居た。


母親に、光宗市で同居しようと説得した。

しかし、その時、まだ元気だった。

近所に友達も居る。

だから、地元を離れるつもりは無いと云った。


兄は、東京の大学を卒業して、そのまま東京で就職した。

東京で家庭を持ち、帰省するのも、何年かに一度くらいだ。


週に一度、二日間、実家に戻っていた。

だから、母親の様子が、少し可怪しい事に、気付いた。


そして、二年ほど前、母親が、軽度の認知症だと診断された。

数年前まで、集落二十軒ほど、住民が住んで居た。


今では、十軒足らずになっている。


母親に、何かあってからでは、取り返しがつかない。

だけど、母親に、何をどう説明すれは、良いのか、分からなかった。


兄も帰郷して、一緒になって説得した。

兄の説得を聞いても、理解出来なかった。


しかし、何があったのか。

やっと、母親は、光宗市に来る事を承諾した。


そして、母親を光宗市の自宅へ引き取る事が出来た。


その後、兄と、実家をどうするか相談した。

兄は、西阿町に、戻るつもりはない。


実家をそのまま放置していても、維持、管理費が嵩むだけだ。

それで、実家を処分する事になった。


処分と云っても、実家は地価の高い地域ではない。

建物を取壊して、更地にするにも費用がかかる。


だから、処分しても、現金が残るかどうか分からない。

もし、残ったら、母親の介護に充ててくれと、兄に云われた。


今日も、実家へ戻って、整理していた。

何度か来て、整理している。

納屋にある物は、廃棄する物ばかりだった。


居間の棚から、ダンボール箱を下ろして、中を確認した。

ひとつ開けて確認した。


手紙と葉書、それと書類だ。

どうしようか迷ったので、持ち帰ることにした。


次のダンボール箱を開けた。

四つの、小さな菓子箱が入っていた。

贈答用の、しっかりした菓子箱だ。

誰かのお土産で、貰った品だろう。


ひとつの菓子箱を開けると、何枚も写真が入っていた。

家族で、山登りした時の写真だ。

兄が中学生の時だ。

両親も、まだ若かった。


もう一つの箱を開けた。

これも、写真が、何枚も入っていた。

山の写真だ。


写真自体は、まだ新しいようだ。

色が褪せていない。


写真に、家族は写っていない。

山の風景だけの写真だ。

家族どころか、人物は、誰一人写っていない。


生茂る木立ち。

大岩の聳える山肌。

周辺に、遠く霞む山並み。

そんな、風景ばかりの写真だ。


他の箱を開けて見た。

二つ目の箱と、同じような写真ばかりだ。

山道から見た、景色ばかりの写真だ。


そう云えば、母親が云っていた。

父親は、定年退職してから、何度か山登りに、出掛けていたようだ。

古いカメラを持って、出掛けていたそうだ。


父親は、どうして、山登りをしていたのか。

ずっと、木材製材所に勤めていた。

何の趣味も無かった筈だ。


定年退職してから、山登りを始めたのか。


その時。

スマホに連絡があった。

ちょっと考えてから、応答した。


嫌な案件だった。

十七時に、来いと云う。


行かざるを得ない。

行かなければ、ある意味、命取りになる。


とにかく、待ち合わせ場所へ、遅れずに行く事が先決だ。


後部座席の、ダンボール箱を見た。

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